第十三話 灰色の首都
帝都外郭の巨大な金属門をくぐってから半日。
門に掲げられていた紋章
――あの、前世の記憶にある「万能薬」の意匠と酷似した幾何学模様は、脳裏に違和感として残ったままだった。
だが今は、その正体を確かめている余裕はない。
厚い朝霧が立ち込める帝都最下層「貧民区」へと足を踏み入れていた。
大気中には、帝都の精錬プラント群から排出された有毒なアルカリ性粉塵が、微量ながら確実に降下していた。
それが水蒸気と混ざり合い、視界を濁った灰色に染めている。
呼吸を吸い込むたびに、喉の奥がピリピリと焼け付くように痛み、脳が機能的な不快感を訴え続けていた。
都の住民たちは、神殿から配給される低濃度の禁忌薬を常時服用している。
それは治療ではなく、汚染された空気を吸い続けるための「耐性維持剤」にすぎない。
神殿はこの薬の配給記録を住民管理の基幹データとしており、服用を欠いた者は即座に「廃棄処分者」として登録される。
寿命を削る薬に頼らなければ都の空気すら吸えないという、世界の歪な支配構造そのものが、ここに顕現していた。
懐の、冷たい鉄のプレートに指先で触れる。
カイルが騎士団の査察権を悪用し、錬金術で刻印を偽装した「軍医補佐官」認証プレートだ。
神殿の管理術式による簡易的な霊的照合をすり抜けるための、この都における唯一の防壁。
ヴィオラは都へ侵入した直後、私設騎士たちを伴って、音もなく霧の彼方へ消え去っていた。拠点の確保は、彼女に任せるほかない。
周囲の偵察を兼ねて、煤けた石畳の路地を進む。
立ち並ぶ木造家屋の壁はどれも黒ずみ、人々は互いに視線を合わそうともせず、猫背の姿勢で無言で行き交っていた。
そこには辺境の村にあったような、貧しいながらも通い合う人間の体温は存在しない。
ただ、生きながらに腐食していく機械の一部のような、冷酷な沈黙が路地を支配していた。
不意に、小道の排水溝の脇で、泥にまみれて倒れ伏している一つの影が目に入った。
白髪の混ざった、小柄な老人だ。
衣服は白灰色の粉で覆われていた。
精錬場近くで高濃度の粉塵を直接浴び、急性化学性肺障害を起こした形跡がある。
膝を折り、首筋に指を当てて脈を診たが、皮膚はすでに冷たく、拍動は完全に消失していた。
死後数時間は経過している。
この街では、路上で人間が冷たくなっていくのが当たり前の日常に過ぎない。
灰色の霧の隙間から、神殿の塔の最上部に設置された、不気味な青緑色の光を放つ監視水晶が、冷徹な精密さでこちらを向いた。
都では医療行為そのものが神殿の許可制であり、救護や治療の動作を検知すると登録資格の再照合術式が自動で反応する。
もし、この遺体に不審な接触を続ければ、監視水晶を経由して懐のプレートに刻まれた術式の歪みが暴かれ、異端者として特定される危険があった。
「関わるな、よそ者」
通りすがりの、煤けた衣服を纏った男が、外套の袖を掴み、老人から引き離した。
都の人間なら、誰もこの死体へ近づこうとはしない。
その不自然な動きだけで、余所者だと見抜かれたのだ。
男の瞳には、倒れている老人への同情も、こちらへの敵意すらもなく、ただ底知れない無関心と恐怖だけが沈んでいた。
「そいつは既に神殿の配給資格を失い、廃棄されたゴミだ。そんなものに触れた記録が監視水晶に残れば、てめえの明日の配給枠まで削られるぞ」
男は手を離すと、それ以上の会話を拒絶するように首を振り、小走りに去っていった。
倒れている老人の死体を最初から路傍の石として無視して立ち去る。
救えるはずだった命ではなく、すでに終わった機能停止の後始末。
それを看取ることすら、都の監視システムは許さない。
その冷酷な不条理さが、脳組織を内側からじわじわと摩耗させていくのを感じていた。
歩みを止めることなく、ただ静かにその場を離れた。
*
深夜。ヴィオラが手配した、法外区域の地下の隠れ家。
冷たく湿ったカビの匂いが漂う地下室に、私たちは集まっていた。。
「潜入は予定通り完了した。こちらの偽装プレートの作動も確認済みだ」
仮設の調合台の上にガラス瓶を並べながら、乾いた声を返した。
「ああ、こちらも騎士団本部への出頭は終えた」
暗い部屋の隅で、長剣を抱えたカイルが、低く押し殺した声で言った。
その声には、自らの存在を無価値な捨て駒として処理されたことへの、深い憤りと疲弊が滲んでいた。
「だが、あいつら、俺たちの報告に興味すら持ってねえ。
処理済み案件だ、とよ。
提出した報告書は視線すら通さずに書類の山へ放り投げられ、羽ペンの軋む音だけが窓口に響いてやがった。
ルマ村の汚染は、すでに神殿側では『軽度事案』として分類されていて、現場がどうなってようが、上層部の判断が覆ることはないんだと。
俺たちが命がけで戦ってきたすべてが、ただの書類整理で終わりだ。
アルダーク伯爵に証拠を突きつける以前に、報告書自体が読まれることすらねえ。
神殿の情報統制って奴の壁が、これほど厚いとは思わなかったぜ」
「明日は、母方に忠誠を誓っていた古い近侍の元へ向かいますわ」
ヴィオラは、冷淡な微笑を浮かべたまま、薄い唇の両端を吊り上げ、次の目的を提示した。
「彼らは神殿の情報網の外側に位置しており、帝都内部の動線を確保するには不可欠ですの。
神殿の監視の目を出し抜くには、彼らの手引きが要りますわ」
表面上は予定通りに機能している、私たちの不穏な同盟。
三人分の沈黙が、同じ部屋の中で少しずつ違う温度を持っていた。
誰も、それ以上は口を開かなかった。




