第十二話 一滴の始まり
ルマ村を発つ朝、共有地には、冷たい霧が白く立ち込めていた。
カイルの部下たちが馬車の準備を進める中、調合台の片付けを終えた前で、マリアとトビー、そして村長ゴルドが並んで立っていた。
「リアム殿」
ゴルドは、帽子を胸に抱き、深く頭を下げた。
「お主がこの村に残してくれた井戸の濾過装置と、あのツユクサの精製液。
……村の命の恩人として、お主に支払える十分な報酬がないことを許してくれ」
「不要だ。
水質管理のリストとインジケーターの使用法、およびチェックリストの更新周期は教えた。
あとはあなた方の自主的なメンテナンスの問題だ。
私が去った後、もし手順を怠れば、村水源は再び汚染される。
ただ、因果に従って管理を継続しろ。私への感謝などという、定量化できない感情を私の行動の対価にするつもりはない」
冷淡な回答に、マリアは寂しげに微笑み、前に跪いてトビーの肩を抱いた。
トビーは、泣き出しそうな瞳を必死にこらえながら、外套のポケットに手を伸ばした。
ポケットの中には、彼が指を切りながらヤナギの端材で彫ってくれた、あの不器用なツユクサの木彫りが入っている。
「先生、絶対
……また、戻ってきてね」
「呼吸音は完全にクリアだ。
だが、体温の変化には常に気を配れ。
……以上だ」
トビーの熱が下がった額を一度だけ手袋の手で軽く確かめ、そのまま踵を返して、待機していたカイルの馬車へと乗り込んだ。
馬車が軋んだ音を立てて動き出す。
「先生ッ!」
背後から、トビーの引き裂くような叫びが聞こえたが、振り返ることはしなかった。
ただ、木箱の中に仕舞い込んだ、あのツユクサの木彫りを、手袋越しに一度だけ強く握りしめた。
それが、言葉なき別れの儀式だった。窓の外、霧の中に消えゆくトビーとマリア、そして村人たちの小さな輪郭を、ただ、レンズの向こうの光景のように無感情に見つめ続けていた。
帝国最東端の最果てにある、泥にまみれたルマ村を発ってから、馬車を乗り継ぎ、灰色の荒野を進むこと、すでに八日の時間が経過していた。
この馬車には、帝国正規軍第三部隊の「公式な巡回・査察任務の報告車両」としての登録プレートをカイルが掲げていた。
だが、都の検問所が近づくにつれ、警戒の密度を極限まで上げていた。
ヴィオラはすでに、座席の下に設けられた旧ローゼンバーグ家特有の三重の隠し底に身を潜めていた。
アルダーク伯爵の査察権を逆手に取ったカイルの通行証と、旧没落貴族の隠密コンテナ。
この二つの防壁によって、帝都の網を無傷で潜り抜けてきたのだ。
カイルは、隠しコンパートメントの給気スリットの隙間から、細く刻んだ保存肉を無造作に差し入れた。
そこには、旅の退屈を紛らわすための馴れ合いではなく、極限の緊張を覆い隠そうとする冷たい牽制が混ざっていた。
「ヴィオラ様。
その狭い箱のなかで、よくそんな干からびた肉が喉を通るな。
帝都の皇女様ってのは、もっと上等な肉しか食わねえもんだと思ってたが」
長剣の鞘を頻繁に親指で触る、極度の緊張を示しながらの、カイルなりの牽制を込めた軽口だった。
狭い隠し空間の覗き穴から、こちらの様子を鋭く凝視していたのだろう、その薄い隔壁越しに、低く透き通るような声が小さく響いた。
「笑止。
この程度の劣悪な食事、五年の辺境生活で慣れきっていますわ。
神殿の顔色を窺って、上等な宮廷のスープに毒が混ざっていないか怯えていた頃に比べれば、この乾いた泥の塊の方が、はるかに消化に良いですわ。
……それよりカイル、都へと至る最後の関門である『東外門検問所』の、衛兵たちの足音が不自然に重いですわ。
通常より検問の密度が高いようですわね。
不自然な挙動はなさらないこと。
アルダークの名前が刻まれた報告車両であることを、ただ誇示するのですわ」
カイルは
「けっ」
と不快そうに視線をそらし、それ以上の軽口を止めた。
お互いに対する政治的な不信感や因縁は、消え去ってはいない。
ただ、荒野を移動する過酷な実態のなかで、互いの戦闘能力や知略を、それぞれ静かに値踏みし、認め合い、最も合理的な形でのみ役割を果たし合っているに過ぎなかった。
「てめえ、都が近づくにつれて、いよいよ死人みたいなツラになってるぜ。そんなに都が恐ろしいか?」
カイルの問いに、冷淡に応じた。
「恐れてはいない。私は異端であり、神殿の火刑台に送られるような危険な因果だ。都は、そのリスクが最も高まる空間に過ぎない」
カイルも、隠しスペースのヴィオラも、それ以上は問い質そうとはしなかった。
馬車が緩やかな丘を下り、帝都エリュシオンの巨大な外門が、いよいよ目の前に差し掛かっていた。
検問を受けるための、最初の停車線の位置。馬車が速度を落とし、完全に停止する。
時刻はすでに、日没直後の夕闇に包まれていた。
窓の外、帝都の全貌が、おぞましい階層格差を描き出しながら陣取っていた。
都の中心部。不揮発性の薬物微粒子が、都の中心部にある廃棄プラントの巨大な煙突群から定常的に吐き出され、高層の湿った水蒸気層に付着し、夕闇の曇天の陽光を乱反射して、不気味な青緑色の薄膜となって天空を覆っていた。
その下には世界樹がそびえ立ち、それを取り囲むようにして宮廷や神殿の白磁の塔が並び立つ。
そして、最も下層には、黒煙を吐き出す貧民区の過密な煙突群が沈んでいた。
辺境の森にあったのは、地方派閥が神殿の目を盗んで設けた、劣化禁忌薬の密造設備に過ぎない。
だが、この帝都の中心にそびえ立つのは、神殿みずからが配給用の本物の禁忌薬を製造・精錬している、巨大な精錬プラントだ。
その製造過程で生じた有毒なアルカリ性粉塵が、絶え間なく煤煙とともに吐き出され、都の全域に降下していた。
それが水蒸気と混ざり合って、都全体にツンとした刺激臭を伴う霧となって漂っているのだ。
都の住民たちは、この微量汚染に対して、神殿から安価に配給される低濃度の禁忌薬を常時服用することで、気管支のただれ(化学性肺障害)を強制的に抑制し、だましだまし生存と労働を維持している。
寿命を削る薬に頼らなければ都の空気すら吸えないという、世界の歪な支配構造そのものだった。
見上げるほど巨大な鉄の門扉の最上部、白磁のレリーフの中に刻まれた神殿の聖なる標章。
それを目にした瞬間、私の思考回路は、完全に機能停止した。
視界が、あの前世の破滅の爆発光で白く塗りつぶされる。
呼吸が停止し、右肺のあたりが激しく灼けつく錯覚を覚える。
手にしたツユクサの木彫りを強く握りしめた。
ヤナギの不器用な角が皮膚を食い破るほどの痛みを認識し、辛うじて現在へとしがみつく。
都の総本山の、見上げるほど巨大な鉄門の最上部、白磁のレリーフの中に、寸分の狂いもなく精密な金属鋳造で刻まれたその本物の幾何学線。
それほど至近距離で、完全な解像度をもって目にしたその標章は――
前世において私が開発し、調合効率を上げるため独自に設計した、あの『万能薬』の極微構造式(幾何学シンボル)と、不気味なほど完全に一致していた。
設計図は、かつて前世の私の頭の中にしか存在しなかった。
他人が知るはずはない。
なぜ私の脳内の分子模型にしか存在し得ない、あの独自の極微構造式が、この世界の神殿の聖なるシンボルとして、これほど寸分の狂いもなく意匠化されている?
「まさか……」
偶然などではない。
何者かが、私の前世の理論を意図的に、この世界の聖なるシンボルとして伝承させ、神聖化したのだ。
かつての惨劇と、このエリュシオン帝国。その二つは、私の想像をはるかに超える暗い因果の糸で、最初から結ばれていたのだ。
帝都の巨大な門が、私たちの目の前で、重い金属音を立ててゆっくりと開き始めていた。




