第2話: 失われた希望の灯
「本当に、あの魔女はこの世界にとんでもない厄介事を残していってくれたものだな」
意識の曖昧な霧の向こうから、見知らぬ声が響いてきた。切崎惣治はかすかに眉をひそめ、それからゆっくりと目を開けた。最初に襲ってきたのは、猛烈な眩暈だった。頭が長引く高熱に浮かされているかのように重く、身体には気を失う直前のあの疲弊と枯渇感が未だにまとわりついていた。最初の数秒間、視界はひどく滲んでいた。しかし、次第に焦点が結ばれるにつれ、目の前に現れた光景に彼の心臓は思わずドクンと大きく跳ね上がった。
彼は広大な大広間の真ん中に横たわっていた。白磁のような石柱が高々とそびえ立ち、精緻な装飾が施された天井からは、巨大な水晶のシャンデリアが柔らかな光を投げかけている。大広間の両側には、数十人の人々がいくつかの小さな集団を作って佇んでいた。彼らは一様に、中世の貴族を彷彿とさせる絢爛豪華な礼服を身にまとっている。一瞥しただけで、その衣服の価値が、自分の生涯の貯金額を遥かに凌駕しているであろうことが容易に見て取れた。
切崎は手をついて身体を起こした。冷や汗が、気づけばこめかみを伝い落ちていく。彼は警戒を孕んだ目で周囲を観察した。恐怖からではない。すべてがあまりにも見慣れぬものだったからだ。これらの建築は知っている。この衣装も知っている。だがそれは現実世界で目にしたからではなく、映画や小説、あるいはコンピュータゲームの中で幾度となく描かれていたものだった。その事実が、彼の胸の内にある異常な違和感をますます色濃くしていった。
「おい、目を覚ましたぞ。一体どうするんだ?」
右手のほうから声が上がった。切崎がすぐさまその声の主へと顔を向けると、ただ視線を合わせただけであるというのに、発言した男はびくりとして一歩後ずさりした。男の顔には、まるで危険な猛獣と対峙しているかのような、明らかな警戒と怯えの色が浮かんでいた。
切崎は小さく眉根を寄せた。その反応が不可解でならなかった。自分がこの世界の住人の目にどう映っているのかは分からないが、少なくとも彼らが向けてくる視線は、到底まともな客人を迎えるそれとは異なっていた。ある者は不安を露わにし、ある者は故意に視線を逸らす。なかには、何事かを警戒するように腰の剣の柄に手をかけている者さえいた。
状況をどう解釈すべきか切崎が思考を巡らせていると、大広間の奥から一人の男が静かに立ち上がった。男は背後にそびえる巨大な玉座から降り、こちらへと歩みを進めてくる。その玉座は、光を浴びてそれ自体が発光しているかのように純粋な白石で造られていた。そこから切崎が立っている場所まで、一条の真紅の絨毯がまっすぐに伸びている。
「彼が目を覚ましたというのなら、今の状況を説明する責任が我々にはあると思うのだがね」
男の声は低く、そして圧倒的な威厳に満ちていた。しかし、切崎を驚かせたのはその言葉ではなく、相手の容姿だった。周囲から「陛下」と呼ばれているその男は、彼が想像していた「王」という存在よりも遥かに若かった。白く長い髭もなければ、歴史映画に出てくるような老邁な姿でもない。それどころか、整った顔立ちと、男として最も脂の乗った年代特有の力強い気品を漂わせていた。
「しかし陛下! 奴は一歩間違えれば、この世界を滅ぼしかねない時限爆弾そのものなのですぞ!」
若き貴族の一人が、すぐさま反論の声を上げた。その声に含まれていたのは軽蔑ではなく、本物の恐怖だった。切崎が目を開けたという、ただそれだけの事実が彼をどうしようもなく不安に陥れているようだった。
王はその反論に対していささかも怒りを示さなかった。ただ、かすかに溜息を漏らし、穏やかな声で諭すように返した。
「お前の懸念はよく分かっている。だがいずれにせよ、彼自身に罪があるわけではない。責めるべきがあるとすれば、それは彼をこの世界に引っ張り込んできた者だろう。彼もまた、我々と同様の被害者にすぎんのだから」
そう言い残し、王はさらに距離を詰めてきた。切崎が意外に思ったのは、その王の瞳の中に、憎悪や警戒といった色が微塵も存在しなかったことだ。それどころか、どこか申し訳なさそうな、形づくれない負い目のようなものを湛えて彼を見つめていた。
切崎は黙ってそのすべてを観察していた。見れば見るほど、この大広間にいる者たちの容姿が、異常なまでに際立っていることに気づく。男貴族から令嬢に至るまで、ほぼ全員が一般の基準を遥かに超えた美貌の持ち主だった。元の世界であれば、間違いなく誰もが名の知れたモデルや俳優になっていたに違いない。しかしこの場所では、そうした存在があまりにも過剰に、当たり前のようにあふれ返っていた。
だが、切崎の注意を引いたのは、そうした人間たちの美しさよりも、周囲のすべてから伝わってくる圧倒的な「現実感」だった。足の裏から伝わる床の冷たさ。真紅の絨毯の、厚みのある柔らかな質感。日本のそれとは明らかに異なる、乾燥してどこか異国情緒を孕んだ空気の匂い。そのすべてが、これが決して夢などではないと告げていた。
そして、切崎はある結論に達した。
自分が完全に発狂してしまったのでない限り……。
十中八九、自分は本当に「異世界」へと転生してしまったのだ、と。
奇妙なことに、狼狽するよりも先に、自分でも驚くほどの冷静さが胸を支配していた。おそらく、元の世界には未練を残すようなものが何一つなかったからだろう。あるいは、心の奥底では、目を覚ましたあの瞬間からすでにこの現実を受け入れていたのかもしれない。
切崎がゆっくりと立ち上がると、大広間に一瞬にして静寂が広がった。数十対の視線が一斉に彼へと突き刺さる。王はその瞳を数秒間じっと見つめ、それからふっと笑みをこぼした。
「驚いたな。ここへ召喚される者の大半は、激しく錯乱するか、すぐには現実を受け入れられないものなのだが。君は私の想像よりも遥かに落ち着いている。もしや、最初からこのことを知っていたのかね?」
その言葉を聞き、切崎は己の推測が正しかったことを確信した。それでも彼は、ただ小さく肩をすくめ、できる限り自然な口調で言葉を返した。
「まさか、知るわけがないでしょう。ただ、僕が勝手に想像していたものとは、少し様子が違うなと思っただけです。転生するからには、最低でも何か特権のようなものが貰えるのかと思っていました。なのに、目を覚まして最初に見たのは、まるで僕が今から世界でも滅ぼすんじゃないかって目で睨んでくる人間たちの集まりでしたから」
その言葉に、数人の貴族が顔色を変えたが、王は逆に声を上げて笑った。その豪快な笑い声が大広間に朗々と響き渡り、やがて静かに収まっていった。
「面白い男だ。ならば、この世界で一体何が起きているのか、そろそろ説明せねばなるまいな」
王は思考を整理するように数秒の間を置き、それから静かに語り始めた。
「実を言うと、この世界は人類を救うためだとか、大いなる使命を全うしてもらうために君を召喚したわけではないのだ。現在起きている事態は、完全に我が方の予測を超えた不測の事態なのだよ」
切崎はわずかに眉をひそめた。その答えは、彼がこれまで読んできた転生小説の類とは決定的に異なっていた。討伐すべき魔王がいるわけでもなければ、世界を救う救世主の予言があるわけでもない。それどころか、自分が選ばれし者というよりは、一種の「事故」によってここにいるかのような言い振りだった。
王は説明を続けた。この世界には、魔術によって自然の理を操作する、非凡な能力を持った魔術師たちが存在するという。しかし、彼らがどれほど強力であろうとも、その大半はあくまで「通常の魔術師」の範疇に留まる。その限界を突破し、世界の秩序そのものに干渉しうる全能の領域へと手を伸ばすには、まったく異なる次元へと足を踏み入れなければならない。
死者の蘇生、時間の因果への干渉、世界間の転移、あるいは別次元からの異形の召喚。それらは本来、人の身で扱ってはならない禁忌の権能だった。そして、その領域に達した者は、世界から特別な尊称で呼ばれることになる。
『魔女』。
その二文字が口にされた瞬間、大広間の空気が一段と重くなった。周囲に控える貴族たちも、無意識のうちに表情を強張らせる。その様子から、切崎はこれが単なる敬称などではないことを察した。
「世界広しといえど、存在している『魔女』はごくわずかだ」と王は言った。「それこそ片手の指で数えられるほどにな。彼らがどこに住み、いつから存在し、その真の力がどれほどの高みに達しているのか、誰も知らん。ただ一つ、すべての者が共通して理解しているのは、どの『魔女』も例外なく、破滅をもたらしうる極めて恐るべき存在だということだ」
王は一度言葉を切り、切崎を真っ直ぐに見据えた。
「そして、その内の一人が、君をこの世界へと送り込んできたのだ」
切崎は息を呑んだ。
「前触れも、通告も、いかなる交渉もなかった。ある日突然、奴はまるでそれが当然の雑事であるかのように、君をこの地へと放り出してきたのだ」
「……でも、一体なぜ?」切崎は即座に問いかけた。
王は首を横に振った。
「分からん」
短く、しかしあまりにも率直なその答えに、切崎は虚を突かれた。
「誰にも分からんのだ。しかし、私は『魔女』が無意味な行動を起こすとは到底思えん。ましてや、異世界から人間を一人引きずり込んでくるなどという大業をな。おそらく奴には何かが見えていたのだろう。この世界の未来に待ち受ける、何らかの激変が。そしてその理由ゆえに、君が選ばれたのだと私は信じている」
そこまで聞いて、切崎は周囲の人間たちがなぜあのような過剰な反応を示したのか、その理由を大方理解した。しかし、まだ一つだけ腑に落ちない点があった。
「では、なぜあそこの方は、僕のことを『時限爆弾』なんて呼んだのですか?」
彼は先ほどの若い男貴族の方へと視線を向けた。
「僕が存在すること自体が、何か具体的な不都合を巻き起こしているのですか?」
その問いに対し、王の表情はこれまで以上に厳粛なものへと変わった。
王の口から語られたのは、この世界が単一の国家によって統治されているわけではないという事実だった。人間、精霊、ドワーフ、さらには切崎が耳にしたこともないような、無数の異なる種族が共存している。この広大な大陸には、独自の経済、軍隊、そして利害関係を持った数百もの国家が割拠しているのだという。
何世紀もの間、諸国は極めて厳格な「協定」を結ぶことで、かろうじて平和を維持してきた。その中で最も重要な条項の一つが、加盟国の合意なしに、異世界から生物や人間を召喚する行為を一切禁じるというものだった。
なぜなら、召喚という行為には、常に制御不能な「変数」が伴うからだ。
異世界から来た一人の人間がもたらす知識、技術、あるいは未知の力は、現在の危うい勢力均衡を容易に崩壊させかねない。
そして天秤が一度でも傾けば、待っているのは不可避の全面戦争だった。
「それゆえに」と王は言葉を重ねた。「もしどこかの国が、同盟評議会を通さずに他世界から人間を秘密裏に召喚したとなれば、その行為は平和協定に対する重大な違反と見なされる。その国家は孤立し、同盟から永久追放され、最悪の場合、諸国からの連合攻撃を浴びる標的となりうるのだ」
切崎は思わず、冷たい空気を肺腑に吸い込んだ。
ここに至って、事態の深刻さが本当の意味で理解できた。
自分の存在は、単なる秘匿事項などではない。
国際的な大戦乱を引き起こしかねない、極めて危険な導火線なのだ。
青年のその反応を見て、王はどこか諦念の混じった苦笑を浮かべた。
「それでも、あの『魔女』には奴なりの意図があったのだと私は信じている。そして、君が我が国に現れた以上、私にもこの事態を引き受ける責任がある」
王は切崎の目を真っ直ぐに見つめた。
「我々は君を保護しよう。だが引き換えに、君の素性は絶対に外部へ漏らすわけにはいかない。もしこの件が公になれば、我が国が危機に瀕するだけでなく、君自身もまた、無数の勢力から命を狙われる標的となるだろう」
切崎は静かに頷いた。
理解した。
あるいは、少なくとも理解したつもりだった。
しかし奇妙なことに、押し寄せる恐怖の代わりに、彼の胸の内にまったく異なる感情が芽生え始めていた。
それは――「希望」だった。
彼の人生から、とっくの昔に消え失せていたはずの、あの青い感情だ。
日本にいた頃、切崎にとって毎日は判で押したように同じことの繰り返しだった。見慣れた景色。反復される労働。孤独に塗り潰された長い夜。自分はただ何一つ傷跡を残さず、死へ向かって静かに摩耗していくだけの存在なのだと思い込んでいた。
しかし今、あまりにも久しぶりに、彼の心臓は何事かを期待するように速く脈打っていた。
新しい世界。
新しい人々。
これまでとは完全に異なる、未知の生。
もしかしたら……。
本当に、もしかしたら……。
この場所であれば、自分がずっと昔に失くしてしまった「何か」を見つけられるかもしれない。
切崎はそっと、自らの拳を握りしめた。
表情はどこまでも冷静さを保とうとしていたが、その胸の深くでは、「希望」という名の灯火が、かつてないほどに強く、静かに燃え上がり始めていた。
◇
遥か遠く――。
どこまでも広がる青空のただ中に、その奇妙な部屋は浮かんでいた。
透明なガラスの壁が、柔らかな陽光をきらきらと反射している。瑞々しい緑の蔦が建物の柱を隙間なく覆い、柔らかな芝生の上には、描きかけのキャンバスがいくつも乱雑に放置されていた。まるで主人が新しい閃きを追いかけるために、途中で放り出してしまったかのように。
その庭園の真ん中で、漆黒の外套をまとった一人の人影が、虚空にゆらりと浮かんでいた。
顔立ちは見えない。
年齢を推し量ることもできない。
ただ、外套の隙間から差し込む陽光が、その輪郭を曖昧に縁取っているだけだった。
その人物は、口元にかすかな笑みを浮かべた。
それは、ひどく興味深げな、愉悦を孕んだ笑みだった。
「才能ではない」
声が、ささやきのように漏れ出た。
「潜在能力でもない」
影は遥か遠く、まるで空間の壁を透視して切崎の姿を見つめているかのように、その視線を虚空へ向けた。
そして、その唇の笑みはさらに深く刻まれる。
「あの『渇望』こそが――これまでのどんな天才をも凌駕して、彼を激しく燃え上がらせるのだ」




