第1話: 物語の外にいた僕
この物語は、まだ“色”を知らない少年の記録である。
彼が何を失い、何を手に入れるのか――それは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、彼はまだ「物語の中」にいないということだ。
「おそらく、この世で最も残酷なこととは、貧困や挫折などではない。生活が安全と言えるほどに安定しているのに、魂がゆっくりと、ただの抜け殻になっていくことだ」
私は昔から、世界の頂点に立つ者になりたいなどと渇望したことはなかった。雲を突き抜けるような摩天楼も、銀行口座の果てしない数字の羅列も、人々が見上げるような眩い栄光も、夢に見たことさえなかった。最初から最後まで、私が求めていたのはただ一つ、「魂のある人生」だ。色鮮やかな人生。震え、愛し、そして痛みに悶えることのできる人生だ。
夜更けにただ隣に座っているだけで、心がじんわりと温かくなるような友が欲しかった。思い出すたびに、まるで優しい刃が心臓を撫でていくような、そんな美しい恋がしたかった――。痛むけれど、それは自分が確かに生きて、確かに愛し、自らのすべてを真っ直ぐに捧げたのだと教えてくれる、甘美な痛みだ。
若き日々は、晩夏の夕暮れのように鮮烈であってほしかった。夜の帳が下りる前、大空が目も眩むような色彩で燃え上がる、あの瞬間の記憶のように。人生の最も美しい歳月が、名もなき風のように、何一つ傷跡を残さず静かに通り過ぎていくのだけは嫌だった。暗闇の中で弾ける花火のように、激しく燃え尽きてほしかった。その短い時間のなかで、全力で命を燃やしたのだと、いつか振り返ったときに微笑むことができるように。
しかし、現実はまるで格子なき檻のようだ。あまりにも不可視の檻であるため、多くの者がそこに囚われていることすら気づかずに一生を終える。それは私を鉄鎖で縛るわけでもなく、冷たい紐で足を繋ぎ止めるわけでもない。ただ「反復」という名の手段で、私を監禁するのだ。
青白い朝に目を覚まし、昨日とまったく同じ一日がまた始まる。見慣れた、息が詰まるほど既視感に満ちた古い道。見慣れた景色、見慣れた顔、見慣れた会話。すべてが、壊れた蓄音機に引っかかった古いレコードのように、幾度も幾度も繰り返される。
月日は、窓も風も光もなく、さざ波一つ立たない部屋の澱んだ水のように、ただただ緩慢に流れていく。すべてが静止し、窒息しそうなほどだ。時折、今日と昨日の区別さえつかなくなり、明日が今日とどう違うのかさえ分からなくなる。自分が生きているのか、それとも人間の形をしたただの影として、この広大な世界のなかを足跡も残さずに、静かに彷徨っているだけなのか、それすら判然としないのだ。
時が動き方を忘れてしまったのではないかと思えるほど、長い夜がある。暗闇の中にじっと横たわり、真っ黒な天井を見上げていると、自分の魂が長い間放置された廃屋のように思えてくる。
隅々にまで埃が積もっている。空気は冷たく、静まり返っている。固く閉ざされた扉は、いつから開けられていないのか、もう誰も覚えていない。足音もしない。笑い声もしない。訪れる者もいなければ、灯される明かりもない。ただ、底なしの虚空のような沈黙が、果てしなく続いている。
私を苦しめるのは、決して貧しさや失敗ではない。人は貧しくとも幸せになれるし、破れてもなお希望を抱くことができるからだ。私を本当に傷つけるのは、「私の人生は、本当はもっと美しかったはずだ」という、あの焦燥感なのだ。
本当なら、若さとは目的地を持たない旅であるべきだった。ただ心が突き動かされるままに、バックパックを背負って地平線へと駆け出すような、そんな旅だ。夜中の午前二時、響き渡る笑い声であるべきだった。何年経っても、思い出すだけで思わず微笑んでしまうような、他愛のない、けれど愛おしい会話であるべきだった。
誰かとふと視線が交わった瞬間、胸が激しく高鳴る、あの感覚であるべきだった。その一瞥だけで、周囲の世界が一変してしまうような。空はより青く、風はより優しくなり、なんてことのない平凡な一日が、永遠に忘れられない記憶へと変わるような。
へとへとになるまで疲れ果てても、まだ眠りたくないと思うような夜があるべきだった。義務や責任に追われているからではない。その瞬間があまりにも美しく、ただ目を閉じてしまうだけで、すべてが消え去ってしまうのが怖くなるような、そんな夜が。
しかし、目の前にある現実は、まるで灰色の灰に覆い尽くされた世界のようだ。大雨を孕んだ、重苦しい空。歳月とともに、感情が少しずつ摩耗していく場所。人間が、名もなき影のように互いの傍らを通り過ぎていくだけの場所。そこでの出会いは、ただ偶然に交差した直線が、すぐにまた離れていくようなものにすぎない。
時間は、恐ろしいほど静かに流れていく。毎日を生きることは、掌に砂の塊を握りしめ、その砂粒が指の隙間から静かにこぼれ落ちていくのを眺めているのに似ている。ゆっくりと。抗うこともできず、引き留めることもできず。最後に掌を開いたとき、本当に自分のものとして残っているものは、何一つとしてないのだ。
時折、自問することがある。この世界のどこかに、同じように生きている人がいるのだろうか。夜更けに、まるで灯りの消えた街のように、心がぽっかりと空っぽになっている人がいるのだろうか。人生の大通りを彷徨いながら、この色褪せた世界のなかで、何かしら美しいものを必死に探している人がいるのだろうか。
愛されたい、理解されたい、ありのままの真実の姿で見つめられたいと願いながらも、どこへ行けばそれが見つかるのか分からずにいる人が、他にもいるのだろうか。
それとも、私だけが取り残されているのだろうか。運命という名の、果てしない駅のホームに立ち尽くす迷子のように。次々と目の前を通り過ぎていく列車を、夜闇の中に消えていく尾灯を、人々がそれぞれの帰るべき場所を見つけていく姿を、ただ見送ることしかできない。自分自身は、方向も、目的地も、そして我が家と呼べる場所さえもないまま、その場に立ち尽くしているというのに。
そして何より恐ろしいのは、これほど疲れ果て、これほど絶望しているにもかかわらず、私はまだその渇望を捨てきれずにいるということだ。
本当に生きたいという渇望。
本当に心が震えるような経験をしたいという渇望。
本当に愛したいという渇望。
いつか、私の魂を、まるで正しい音で弾かれた弦のように共鳴させてくれる人々に、出会いたいと今でも願っている。ただ想うだけで胸の奥が締め付けられるほどに、激しい感情で誰かを愛したい。色彩に満ちた、激しく、眩い人生を生きたい。何年も経ってから振り返ったとき、悔し涙ではなく、感謝の涙を流せるような人生を。「これほど美しく存在できたこと」への、感謝の涙を。
なぜなら、魂の最も深い場所で、私はずっと知っているからだ。人間はただ大きくなり、働き、老いて、そして無意味な歳月のなかで静かに朽ちていくために生まれてきたのではない、ということを。
私たちは、この世界に胸を震わせるために生まれてきたのだ。焦がれるほどに愛するために。息が詰まるほどに痛むために。誰かの記憶の中に、その名を刻みつけるために。
そして生きるために――。
激しい潮流にただ漂う静かな影としてではなく、一条の「炎」として。その炎は、たとえ一瞬の短い閃光であったとしても、夜の帳を引き裂くほどに眩く、孤独の寒さに抗うほどに熱く、そして、この広大な世界のなかで、己のすべてを懸けて確かに存在したのだと証明するほどに、強く輝くはずだから。
寂れた公園の真ん中に、ひどくやつれ、疲弊しきった様子の青年が一人佇んでいた。夜の帳が巨大な黒い幕のようにすべてを覆い尽くし、街に残された最後の物音さえも飲み込んでいく。薄白い街灯の光の下で、木々は身じろぎもせず静まり返り、孤独な石ベンチが道沿いにぽつりぽつりと散らばっている。その広大な空間には、彼の他に人影は一つもない。
切崎惣治はそこに立ち、虚ろな目で前方を見つめていた。周囲のすべてが存在してはいるものの、そこにはいかなる「生」も宿っていないように感じられた。すべてが不気味なほどに静まり返り、まるで魂をそっくり引き抜かれてしまった美しい絵画のようだった。
彼の視線が、公園の向こう側にあるブランコで止まった。脳裏に、ふとある幻想が浮かび上がる。
もしもあの場所に、うつくしい恋人が座っていたとしたら。自分が後ろから彼女の背中を押し、もっと高くへと揺らし、その鈴の鳴るような澄んだ笑い声が静寂な空間に響き渡っていたとしたら――。
色鮮やかな光景が、まるで御伽噺のように彼の心の中に描かれていく。街灯の下を二人で並んで歩き、日々の他愛のない出来事を分かち合い、どうでもいいことで笑い合う。それは、いつまでも浸っていたくなるほどに美しい情景だった。
しかし数秒の後、すべては霧消した。それが到底手の届かない遥かな夢であり、おそらく一生かかっても触れることのできない望みであることを、切崎自身が誰よりもよく分かっていたからだ。
彼は再び、夜闇の中に淡い黄色の光を放つ街灯へと目を向けた。またしても、想像力が動き出す。
今度は、真夜中にその街灯の下に佇む、二人の友人の姿だった。手にはそれぞれ、眠れない夜のお供であるエナジードリンクが握られている。彼らは仕事のこと、生活のこと、あるいは明日になれば忘れてしまうような、とりとめもない雑談を交わしている。時折、誰かのくだらない冗談に全員が吹き出す。誰も気にも留めないような、ごくありふれた光景。しかし切崎にとって、それは胸が痛むほどの贅沢品だった。
彼は自嘲気味に、かすかに笑った。そんな風につき合える友など、最初からいないのだ。昔から彼のそばにあり続けたのは、ただ「孤独」という名の存在だけだった。
切崎は我が家への道を歩き始めた。手には、コンビニで買ったばかりの袋が握られている。静まり返った空間に規則正しい足音が響き、それが夜の中に存在する唯一の音となった。
彼は胸の奥にのしかかる重圧をすべて吐き出すかのように、そっと長い息を漏らした。だが、その鉛のような重苦しさが消え去ることはなかった。あまりにも長い間、あまりにも深く蓄積され続けたそれは、すでに彼という人間の一部と化していた。
これらすべての感情を、もし、たった一言で表すとするならば――それは「孤独」だった。
「もう観たい映画も残ってないな。家に帰って、またゲームでもするか……」
掠れた声が響き、すぐに夜闇に飲み込まれていく。切崎がスマートフォンを取り出すと、暗闇の中で画面が白く光った。指先で、SNSの無数の投稿をスクロールしていく。ニュース、ショート動画、中身のない書き込み。本当に興味を惹かれるものは何一つなかったが、それでも彼は、まるで何かを探し求めるかのように画面を下に引っ張り続けた。
おそらく彼は、自分がまだこの世界と繋がっているのだという実感が欲しかったのだろう。だが悲しいかな、そこには何もなかった。メッセージの通知も、遊びの誘いも、友人たちが集まった写真もない。画面に映し出されるのは見慣れた空白だけであり、それは彼の人生そのものを鏡のように映し出していた。
切崎惣治、今年で二十四歳。
安定した職があるわけでもなく、誇れるようなものは何一つ持っていない。現在の生活は、その日暮らしのアルバイトを何とか繋ぎ止めることで維持されていた。周囲にいるのも、生きるために必死に足掻いている人間ばかりだった。仕事帰りの疲れ切った人々には、友人に気を回す時間も、そんな心の余裕もありはしない。
いつしか切崎もまた、その渦に巻き込まれていった。金のある人間たちは、きっと違う生き方をしているのだろうと考えることもあった。明るいオフィスで働き、定時に退勤し、言葉を交わす同僚がいて、友人と会って人生を愉しむ時間がある。その想像が完全に正しいとは限らなくとも、切崎は自らの不幸に理由をつけるかのように、その考えにしがみつかずにはいられなかった。
「あの頃の学校生活……もし、自分の生き方を変えていたら、何かが違っていたんだろうか」
無意識に呟いた言葉が、遙か昔に埋もれさせたはずの記憶を呼び覚ます。古い記憶の断片が、次々と脳裏に蘇る。ニュース番組、扇情的な見出し、そして画面を埋め尽くした『跡形もなく失踪』という文字。彼の心臓が、かすかに震えた。
そして、あの日の光景が蘇る。
警察の赤色灯が明滅する中、押し開けられた教室の扉。そこにはもう、誰もいなかった。教室の中央には、血で描かれた巨大な魔法陣のような円が不気味に横たわっていた。机や椅子は、まるで猛烈な竜巻に襲われたかのように、部屋の隅へ乱雑に押しやられていた。その混沌たる有様は、ここがかつて平凡な教室であったとは誰も信じられないほどだった。
しかし、最も恐るべきことはその血の円そのものではなかった。法医学チームによる鑑定の結果、室内に残されたすべての血液が、そのクラスの生徒たちのものであると確認されたのだ。彼らは全員、文字通り「跡形もなく」消え失せていた。
全員が、だ……切崎惣治、ただ一人を除いて。
記憶の糸は、彼をさらに過去へと引き戻す。教室の前に佇む自分の姿。中にはもう誰もいない。ただ、血で描かれた恐ろしい円がそこにあるだけだ。
警察署の取調室に座らされた切崎は、唯一の容疑者となった。だが警察も理解していた。彼には犯行の動機がない。怨恨、財産目的、あるいは何らかの危害を加えるといった、通常の犯罪者が抱くような動機は、切崎惣治という人間にはおよそ当てはまらなかった。
彼は「その時、トイレに行くために席を外していた」と証言した。しかし、奇妙なのは、その時間帯に教室を出たのが本当に彼一人だけだったのか、という点だ。切崎にもどう答えていいか分からなかった。なぜなら、それが紛れもない事実だったからだ。
彼によれば、教室を出る前は自習時間だったという。そのため、クラスメイトたちはただそれぞれに雑談などを交わしていた。いかなる衝突も、奇妙な前触れもなかった。
やがて時が経つにつれ、捜査は完全に暗礁に乗り上げ、その事件は未解決のまま取り残された。
その日以来、精神的な圧迫感に苛まれ続けた彼は、学業を含めたあらゆる面で坂道を転げ落ちるように落ちぶれていった。
もし、あの頃にもっと周囲と親しくしていれば。そうすれば、自分もトイレに逃げ出すことなく、あの場所に残り続けていたかもしれない。彼がトイレに向かった理由、それは自習時間に周囲と話す相手もいなく、ただ一人でそこに座っているのが退屈でたまらなかったからだ。
他人から見れば、死を免れた「幸運な生存者」かもしれない。しかし切崎惣治にとっては、それこそが「別の死」への一歩だった。その事件のせいで、現在の彼は、まるで生きた屍のようにただ息をしているだけの存在になってしまったのだから。
彼の口から漏れた溜息は、静まり返った夜の街に大きく響き渡った。街灯の下で、自分がなぜ足を止めてしまったのか彼自身にも分からなかった。なぜこれ以上、我が家へと歩みを進めたくないのか。
分かっている。あの家に帰り着けば、また同じことの繰り返しが始まるのだ。彼は自分の人生に、何か違う変化を求めていた。すべてがこのまま、淀んだように続いていくことだけは耐え難かった。
その時、突如として視界が滲み始めた。
理由は分からないが、身体が異常なほどの疲労感に襲われる。大して気に留める間もなく、手からコンビニの袋が滑り落ち、地面へと転がった。
おぼつかない視線がそれを追う。視界に映った白い袋は、いまやべっとりと赤黒い血に染まっていた。
驚いて身を屈め、それを拾おうとした瞬間、限界を迎えた身体ががくりと地面に崩れ落ちた。
朦朧とする意識の中で、彼は血が周囲へと急速に広がっていくのを見た。身体からはすべての力が失われていた。ただ激しい倦怠感と、吐き気、そして圧倒的な枯渇感が全身を侵食していき、意識がゆっくりと遠のいていく。彼を救い出してくれる者は、そこには誰もいなかった。
しかし、完全に瞼が閉じるその直前、彼はかろうじて最後の言葉を振り絞った。
「結局……最後まで、僕は一人きりなんだな。誰もいない……通りすがりの誰かが、救急車を呼んでくれることさえ……」
※この時点で、彼はまだ自分が“選ばれた側の人間ではない”と思っている。
だが世界は、いつもそう思っている者から先に壊れ始める。




