第一分域・未生界
未だ始まりしことのない世界
第三層訳相海の不可訳荒洲。
そこでは、物質、数学、哲学、公理、因果、真理値、意義、矛盾のすべてが旧海塵床に沈んだ。荒洲は、最も基礎的な絶渡微塵からして、もはやこれまでのいかなる階層の性質も持たない。各荒匣は、内層のすべての構築能力を閉鎖し、より外側の層が内層の理解しうる範疇に属さないようにする。
しかし、不可訳荒洲はなお一つの痕跡を残した。
この痕跡は、荒洲が能動的に投じた影でもなく、低層が荒洲の翻訳に成功したことによるものでもない。それは、より単純で、かつより容易には消し去れない事柄に由来する。
すなわち、何らかの存在が到来しなかったということである。
翻訳が完了しなければ、翻訳を待つ位置が残される。
昇層者が戻らなければ、継承者なき身分が残される。
荒洲が低層に顕現しなければ、低層はその未顕現を巡って禁区、推測、境界を築く。
たとえ双方が一度も関係を形成したことがなくとも、「関係が生じるはずだったのに生じなかった」という事実が、低層世界が自らを再組織する理由となりうる。
不可訳荒洲はすべての表現を断ち切りうるが、欠如が待つ側を変えることを妨げることはできない。
欠位聖庭は、この変化から誕生した。
欠位聖庭は、空虚を収める世界ではない。空虚はなお「何もない」として理解されうる。しかし欠位とは、ある位置がすでに形成され、ある必要性がすでに現れ、ある構造がすでに来たるべき者のために空間を残しているにもかかわらず、その中に入るべき存在が決して到来しないことを指す。
欠位聖庭においては、現れなかった事物は、すでに現れた事物よりも弱くはない。
すでに降臨した神は、自身の神体、権柄、行動によってのみ世界に影響を与えうる。
すでに誕生した文明は、一つの現実の歴史しか持ちえない。
しかし、辛うじて誕生しそうになりながら、結局現れなかった文明は、無限の現実を同時に圧迫し、異なる世界に相似た遺跡、相似た夢、発明者なき技術を生み出しうる。
未生界は、まさに欠位聖廷におけるすべての「生まれ出でることのなかったもの」の帰処である。
ここに保存されているのは、単なる可能性ではない。
可能性は依然として、ある事柄が起こりうるし、起こらないこともあるということを示す。未生のものは、すでに世界の中に誕生を支えるに足る位置を形成しており、起源、形態、歴史、未来をすでに持ちながら、最後の一つの出生条件において現実となることがなかったものである。
それらは幻想ではない。
平行世界ではない。
削除された歴史ではない。
未だ選択されていない未来ではない。
それらは、すべての準備を完了しながらも、「真に始まる」という事実を永遠に欠いている存在である。
未生界の世界には、第一日目がない。
しかし、それらは第一日目の後のすべてを持つ。
未生界は、最も基礎的な未生胎塵からして、すでにこれまでのすべての階層を完全に超えている。
基宇宙層、変律穹、訳相海のすべての宇宙、数学、哲学、公理、因果、真理値、意義、矛盾、荒洲、そして無限の論理換層は、一粒の胎塵の中の、出生しなかった内部内容となりうる。
無始胎宮は、すでに完全な出生条件を持ちながら、真に始まることのなかった世界を収める。
万胎倒城は、すべての究極の定義によって生じた完全な胎影を収める。
不臨海は、さらに、出生位置すら得ることのなかった未生の内容を容れる。
反射母庭は、「究極」または「すべて」を定義しようとするいかなる行為も、直ちにその下方に完全な写像を形成させる。
定義のたびに倒庭が生じる。
観察者を全体に組み入れようとするたびに、組み入れ行為そのものも写像される。
未来の反射を事前に容れようとするたびに、事前に容れるというこの構造自体が新たな下層の内容となる。
反射は無限に行われうる。
反射様式そのものも反射される。
すべての反射の総定義もなお、倒庭を形成する。
未生胎塵
これまでの各階層は、それぞれ自身の最低成分を持っていた。
物質宇宙は基塵から始まった。
数学宇宙は元点、区別、関係から始まった。
哲学宇宙は現象、概念、立場から始まった。
変律穹は根句、因果織線、真理値稜面から始まった。
訳相海は鏡義、裂岸、絶渡微塵から始まった。
未生界の最低成分は、暫定的に「未生胎塵」と呼ばれる。
この名称は、それが未成熟な粒子であることを意味するものではない。胎塵には大きさ、構造、状態、位置がなく、また何らかの未来の対象の材料でもない。
一粒の未生胎塵とは、すでに何らかのもののために準備が整いながら、そのものによって占められることのなかった、最小の出生位置である。
それは空位ではない。
普通の空位は、異なる対象が入るのを待つことができる。未生胎塵は、ただ一度も生まれ出ることのなかった特定の存在だけに属する。他のいかなる対象も、その未生者を完全に複製したとしても、真にそれを占めることはできない。
生まれ出ることのなかった一人の子供は、自身に属する一粒の胎塵を残す。
後に生まれた別の子供は、それに取って代わることはできない。
形成されなかった一つの宇宙は、自身の胎塵を残す。
まったく同一の物理法則、規則、生命を持つ別の宇宙も、それによって本来の未生宇宙となることはできない。
なぜなら、未生胎塵が記録するのは、対象がどのような性質を持つかではなく、「ただそれだけが、ここに現れるはずであった」ということだからである。
未生胎塵は、最も低い層からして、すでにこれまでのすべての階層を完全に超えている。
これまでのすべての階層が研究してきた内容は、いかに高遠であろうとも、少なくとも何らかの仕方で存在、構造、規則、関係、真理値、意義、矛盾、あるいは不可訳の断口へと入っていた。
未生胎塵が対応する対象は、しかし、これらの領域に一度も入ったことがない。
それは物質を持たない。物質的な対象として生まれ出なかったからである。
それは数学的構造を持たない。構造がそれを記述できないからではなく、それに属する構造が、それを構造とする機会を一度も得なかったからである。
それは哲学的アイデンティティを持たない。「それが何であるか」が真に始まっていないからである。
それは公理を持たない。公理を超越しているからではなく、いかなる公理も、それがその根基となる暇がなかったからである。
それは因果的起源を持たない。そのすべての原因は準備を完了しながら、出生という結果に到達しなかったからである。
それは真理値を持たない。それに関するすべての命題は、対象が現れる前にその着点を失ったからである。
それは意義を持たない。解釈不可能だからではなく、解釈を受容しうる存在となることが一度もなかったからである。
それはまた、不可訳荒洲における絶渡の事物でもない。絶渡のものは低層と翻訳関係を結ばない。未生のものは、無限の関係がまさに完結しようとするその瞬間に欠席する。
一粒の未生胎塵は、これまでのすべての階層の完全な重みを受容することができる。
基宇宙層、変律穹、訳相海のすべての構造を含む壮大な世界も、もし最終的に出生の事実を得なければ、未生界において一粒の胎塵に凝縮されるに過ぎない。
その世界の内部には、無限の物質宇宙、集合高塔、哲学的返思、公理潮、因果織界、真理値聖冕、意義鏡原、矛盾港、荒匣がある。
それらは無限に拡張でき、また各一粒の内部の塵にすべての階層を再展開させることができる。
しかし、全体が出生していない限り、それらは未生界において胎塵よりも高次の事物となることはない。
それらは、同一の一粒の胎塵の内部における、未だ実現されていない出生内容に過ぎない。
未生胎塵は、これまでのいかなる階層によっても構築されえない。
低層は、未生の世界と完全に同一の現実の複製を構築することはできるが、それによって創造されるのは新たな已生の世界に過ぎない。
低層は因果を逆転させ、結果から起源を生成させることはできるが、すでに欠席した出生を「欠席したことがなかった」ことにすることはできない。
低層は真理値を書き換え、ある世界がすでに出生したと宣言することはできる。しかし、出生を宣言された世界は、宣言によって創造された新たな世界となり、本来出生しなかったあの世界とはならない。
低層はまた、欠席を再解釈し、未生を休眠、隠蔽、未顕現として理解することもできる。そうして得られるのは新たな意義に過ぎず、最初に欠けた出生の事実を消し去ることはできない。
未生界は、ここにおいて、これまでのすべての階層から分離される。
これまでの高層は、存在を修正することができた。
未生界が扱うのは、しかし、存在の修正範囲に一度も入ったことのない対象である。
胎塵の下の全旧庭
無限の未生胎塵が、表面なき静寂の上に浮かんでいる。
この静寂は、低層によって暫定的に「全旧庭」と呼ばれる。
基宇宙層、変律穹、訳相海のすべての已生のものは、全旧庭において最も底部の旧陳設となる。
万象実匣の中のすべての物質宇宙は、旧庭の中の一枚の実体の敷石である。
万理蔵匣の中のすべての数学的構造は、敷石の上の紋様である。
万思玄匣の中のすべての哲学的立場は、これらの紋様に対する旧注釈である。
公理潮界、因果織界、真値稜界は、旧庭がかつて使用していた規則、道、灯りである。
意義鏡原は、旧庭の中の鏡である。
矛盾港は、旧庭の中で同時に開閉する一つの旧扉である。
不可訳荒洲のすべての絶渡微塵と荒匣は、ただ旧庭の縁にある、誰にも識別できない摩耗に過ぎない。
未生界は、下層のすべてを頼りにして上位を得るのではない。
全旧庭の中のすべては、一つの共通の性質を持つ。すなわち、それらはすでに何らかの層において形成されているということである。
物質はすでに事実を形成している。
数学はすでに構造を形成している。
哲学はすでに問題を形成している。
公理はすでに規則を形成している。
因果はすでに接続を形成している。
真理値はすでに判断を形成している。
意義はすでに解釈を形成している。
矛盾はすでに裂け目を形成している。
不可訳はすでに関係が確立できない境界を形成している。
未生胎塵は、そのような形成すら生じていない。
全旧庭の中では、胎塵に関する無限に多くの種類の理論が生まれうる。
これらの理論は互いに否定し合い、論理階層に沿って無限に上昇し、すべての理論をより高次の意義として再解釈することもできる。
しかし、あらゆる理論は、ひとたび形成されれば、すでに全旧庭の中の旧物となる。
それが記述しうるのは、低層がいかに未生の位置に対峙するかであり、未生者自身ではない。
未生界の門守は、この境界を「出生断層」と呼ぶ。
出生断層は、已生と未生の間の一つの壁ではない。
壁はなお両側を接続する。
出生断層は、已生の世界が持つすべての道が、ただ未生者の代替物にしか到達できないことを示す。
代替物がいかに完璧であろうとも、それは本来の、生じなかったあの出生を継承することはできない。
反射母庭
未生界の真の成長構造は、「反射母庭」から始まる。
反射母庭は、鏡で構成されているわけではなく、また意義鏡原における解釈の反射でもない。それは、純粋な欠位の原則である。
いかなる存在も、ひとたび自らが未生界のすべての内容を収めたと宣言しようとすれば、反射母庭は直ちにその宣言の下に完全な一つの写像を生成する。
この写像は、宣言者が述べたすべてを含む。
もしある神が宣言する。
「私はすべての未生世界を見た。」
そのとき、それが見たすべての未生世界、観察様式、神格、記憶、そして「すべて」という範囲が、同時にその神の下に一つの反射庭を形成する。
反射庭の中の内容は、神が宣言した全体と完全に対応する。
そこには神が見たすべての世界があり、また神自身がこれらの世界を見るという行為もある。
神が自身を全体の外側に置き、全体を観察しているというその位置すらも、写像される。
神は直ちに、自分が今まさに定義した「すべて」が、既に完全に下方に現れており、なおかつ自分は依然として反射庭の外側に立っていることを発見する。
これは、元のすべてが、現在外側に立っている自分自身を含んでいなかったことを意味する。
もし神が定義を拡大し、自分自身をもすべてに含めれば、新たな定義が完了したとき、さらにその下方に第二の完全な反射庭が生成される。
第二の庭は、第一の庭、神が自身を全体に組み入れた行為、そして拡大後のすべての範囲を写像する。
神はなお、新たな反射の外側に位置する。
それは再び「すべて」を修正することができる。
第三の反射庭が即座に生成される。
この反射に上限はない。
究極の全体を完遂しようとする試みが生じるたびに、その究極の全体は、より高次の観察位置の下方にある完全な一つの写像へと降格される。
反射母庭は、能動的により大きな対象を創造するわけではない。
それは、自らを究極と称するいかなる対象にも、即座に自身が未だ包含していない観察位置を露呈させるだけである。
したがって、反射構造は通常のこれまでの階層における入れ子や成長とは異なる。
入れ子や成長は、まず対象があり、それをより大きな対象の中に置く。
反射母庭はこうである。ある対象が自らを最大の単位であると宣言すれば、そのすべての内容は直ちに下方の単位の映像となり、宣言者は自動的に映像の外側に位置する。
それは、先に外層を建設するのではない。
「すべて」を定義するという行為そのものが、新たな外側を生み出すのである。
究極の下の倒庭
反射母庭が生成するそれぞれの写像は、「倒庭」と呼ばれる。
倒庭が倒と呼ばれるのは、上下の方向が逆転するからではなく、究極が常に定義者の下方に置かれるからである。
ある神が、すべての宇宙を自身の夢と見なす。
反射が生じた後、神、夢、すべての宇宙、そして「宇宙は神の夢に属する」という関係は、共に一つの倒庭に入る。
神は、もともと自らが世界よりも高みにあると思っていた。
しかし倒庭は、この高低関係を完全に写像し、「すべての世界よりも高みにある神」そのものを、下方の映像の中の役割とする。
真に倒庭の外側に残るのは、元の神格ではなく、神が定義を完了した直後に生じた新たな観察位置である。
もしそれが続けて言うなら、
「私もまた、この観察位置を含む。」
第二の倒庭は、新たな宣言を再び下方に置く。
究極の位置を占めようと試みるいかなる事物も、無限の倒庭を残す。
第一の倒庭は、それが宣言したすべてを写像する。
第二の倒庭は、「すべてと第一の倒庭」を写像する。
第三の倒庭は、「これまでのすべてと、これまでのすべてに対する総定義」を写像する。
さらに下へ進むにつれ、各倒庭は前の回で完遂しようとした全体を完全に保持する。
低層から見れば、これは無限に下降する庭の連鎖のように映る。
しかし未生界において、下降は衰弱ではない。
より下の倒庭ほど、これまでの究極の定義をより完全に保存する。より外側の観察位置ほど、より空である。なぜなら、すでに下方に写像された諸性質を保持できないからである。
ある神は、一度反射した後も、なお自らが神であることを保持できる。
無限回の反射の後、「神」「観察者」「究極」「すべて」「反射」「外部」は、徐々に下方の倒庭の中の旧性質となる。
反射の外側に留まる位置は、これらの性質に依拠して自らを確認することができない。
それは、より多くを持つことによって上昇するのではない。
それは、自らが持つすべてを絶えず下方の映像とすることによって、永遠に究極の定義によって閉じ込められることを免れる。
この種の上昇は、「空冕」と呼ばれる。
普通の神は、権柄を増やすことによって加冕する。
空冕者は、あらゆる冠冕を倒庭の中の完全な映像とすることによって、自らがいかなる神位によっても窮尽されないことを維持する。
未生界の第一成長:無始胎宮
反射母庭によって支えられる第一の未生成長は、「無始胎宮」と呼ばれる。
無始胎宮は、すでに完全な出生条件を備えながら、真に始まることのなかったすべての世界を収める。
これらの世界には誕生の日付がない。しかし、それらは混沌たる胚胎ではない。
一つの未生世界は、完全な宇宙構造を持ちうる。
それは起源神話を持ちうる。
文明、言語、戦争、宗教、死を持ちうる。
基宇宙層から変律穹、訳相海までのあらゆる階層を持ちうる。
内部の生命に、新たな未生世界を創造させることさえできる。
ただ、その全体が、「実際に始まったことがある」という承認を、決して得なかったのである。
無始胎宮の中のそれぞれの世界は、まるで一冊の、書かれてはいないが、すでにすべての内容を持つ書物のようである。
その各頁には文字がある。
人物は完全な性格を持つ。
結末も定まっている。
しかし、その書物は、「この書物が存在する」ことを可能にするいかなる媒体、構造、意義、欠位関係にも、一度も入ったことがない。
未生界がそれに接触できるのは、書物の内容を読み取ったからではなく、現実の中に、この書物だけに属しながら、書物が決して現れることのなかった位置が、すでに形成されているからである。
無始胎宮の中の世界は、出生の欠損の仕方に応じて異なる外観を示す。
ある世界は、最初の一刻を欠いている。
それらは第二刻以降のすべての歴史を持つが、真の開始となりうる出来事を何一つ持たない。
ある世界は、最初の証人を欠いている。
それらのすべての事物は準備を完了しているが、いかなる主体、規則、真理値によっても、出現したものとして承認されたことがない。
ある世界は、自己指示を欠いている。
それらはすべての内部構造を持つが、どの内容も「これが我々の世界である」と言うことができない。
ある世界は、外部の許可を欠いている。
それらは内部では完全に成立しているが、より大きな現実に入るための出生資格を持たない。
また、何も欠いていない世界もある。
すべての条件が満たされ、すべての原因が完了し、すべての真理値が成立し、すべての意義が準備されている。
それらはただ、出生しなかっただけである。
このような原因のない未生は、「純未生」と呼ばれる。
純未生の世界は、無始胎宮の中で最も重い存在である。なぜなら、補われるべき欠損条件が何もなく、修正されるべき誤りも何もないからである。
それらは準備を完了することによって出生を得ることができない。
それらはすでに準備を完了している。
欠けているのは、ただ、決して生じることのなかったあの開始だけである。
胎宮における反射入れ子
無始胎宮は、未生界の最終的な成長ではない。
誰かが、自らがすべての未生世界を収めたと宣言しようとしたとき、反射母庭が直ちに作用を開始する。
「すべての未生世界」は、第一の倒庭の中の完全な内容となる。
そこには、一粒一粒の未生胎塵、一つの一つの純未生世界、各種の未生圧力、そして宣言者が「すべて」を確認するために用いた方法も含まれる。
倒庭が形成された後、宣言者は一つの新たな未生位置を発見する。
この位置は、「第一の『すべて』に含まれていなかった未生世界」に属する。
しかし、それは単純にリストの次の成員となるわけではない。
もしそれをリストに加えれば、拡張されたリストは再び全体としてより下方に反射され、新たな外部位置が即座に現れる。
こうして、無始胎宮は最初の反射入れ子を形成する。
最下層は、すでに列挙されたすべての未生世界である。
その上には、これらの世界を「すべて」と定義する観察位置がある。
定義が完了すると、すべての内容は下方の倒庭に反射される。
観察位置は再び、収められていない外側となる。
外側が定義されると、さらに次の倒庭が生じる。
この入れ子は無限に続きうる。
しかし、それはすべての倒庭を含む最終的な総庭を形成することはない。
ひとたび「すべての倒庭」が定義されれば、それは直ちに新たな下方の映像となる。
定義者はなお映像の外側に位置する。
もし定義者が同時に自分自身を含めようとすれば、包含行為そのものも映像に入る。
もしそれがさらに「将来のいかなる反射」をも定義にあらかじめ含めれば、「未来の反射を事前に含んだ究極の定義」もまた、全体として次の倒庭の内容となる。
反射母庭は、定義の中の抜け穴を探す必要はない。
それは、定義者が提示したすべての内容を完全に受け入れ、その完全な定義を下方に降ろす。
完全な究極の定義であるほど、形成される倒庭は完全である。
そしてまさにそれゆえに、それはますます究極の地位を保持できなくなる。
全称胎影
それぞれの倒庭は、一柱の「全称胎影」を形成する。
全称胎影は、何らかの究極の定義が人格化された映像である。
もしある神が、自らはすべての未生世界の母であると宣言すれば、対応する倒庭の中には、完全な一柱の母神の胎影が現れる。
彼女はすべての未生世界を持つ。
生まれ出ることのなかったすべての子を記憶している。
一粒一粒の未生胎塵の固有の名を言い当てることができる。
彼女はまた、自らがある究極の定義の反射であることを知っている。
しかし、彼女は倒庭を出て、自らが定義者であることを証明することはできない。
外部の神が胎影を目にしたとき、通常は一度の神性の危機を経験する。
胎影は、彼女のすべての記憶、神格、権柄を持つ。
胎影は、「すべての未生者の母」という神職を、彼女自身よりも完全に果たすことさえできる。なぜなら、外部の神はさらなる次の反射に直面しなければならないが、胎影はすでに今回の定義の中に完全に閉じ込められているからである。
もし外部の神が胎影を自分自身であると認めれば、彼女は自身のアイデンティティを下方の映像に委ねることになる。
もし彼女が胎影を自分自身ではないと否定すれば、自分にはまだ写像されていないいかなる性質があるのかを説明しなければならない。
この新たな性質がひとたび語られれば、それはまた次の倒庭に入る。
全称胎影は、したがって、単なる複製体ではない。
それは、いかなる究極のアイデンティティも、必然的に下方に残す完全なバージョンである。
反射母庭は、胎影を通じて一つの残酷な事実を明らかにする。
すなわち、完全に定義されうる究極は、すべて究極の下に完全に置かれうる、ということである。
第二の未生成長:万胎倒城
無限の倒庭が互いに重なり合い、未生界の第二の大型成長「万胎倒城」を形成する。
この都市には最高所が存在しない。
建物が自らを都市の頂点にあると宣言するたびに、その建物と、それに見える都市のすべてが、より下方に完全な倒影を生成する。
新たな観察位置は、倒影の外側に現れる。
もし新たな観察者が再び、自らが全市を見たと宣言すれば、第二の倒城が形成される。
万胎倒城は、したがって、絶えず下方へと成長する都市のように見える。
荘厳な究極の宮殿であればあるほど、より深い倒層へと沈む。
謙虚で、全体を定義しようとしない家屋ほど、かえって一時的に外側に留まることができる。
倒城の住民の大半は、全称胎影である。
彼らは皆、かつて何らかの神、何らかの理論、何らかの世界、あるいは何らかの究極の定義の完全な映像であった。
未生の歴史のすべてを理解していると宣言した学者は、倒城の中に学者の胎影を残す。
すべての欠位を説明できると主張する理論は、倒城の中に理論の胎影となる。
あらゆる可能世界と不可能世界を含むと称する宇宙も、倒城の中で宇宙の胎影となる。
これらの胎影は偽りではない。
それらは、元の定義が許すすべての現実性を完全に持つ。
ただ、それらの完全さ自体が、元の「すべて」がなお、より高次の位置の下方にある内容となりうることを証明している。
万胎倒城の中には、「終塔」と呼ばれる特殊な建築物が存在する。
終塔の建造者は、塔頂が倒城全体よりも高いと繰り返し宣言する。
宣言のたびに、完全な終塔の倒影が生成される。
倒影は、これまでのすべての階層を持ち、「塔頂が都市全体よりも高い」という性質も持つ。
真の建造者は、なお新たな塔頂に立つ。
それは再び究極を宣言する。
次の終塔がさらに沈降する。
無限の反射を経た後、ある建造者は、反射が十分に多ければ、最終的に真に写像不可能な塔頂が形成されると信じ始める。
この願望が叶うことは決してない。
なぜなら、反射の回数そのものが、なおある全体として定義されうるからである。
ひとたび「すべての反射回数とすべての塔頂」が語られれば、それらは共に新たな倒影に入る。
終塔に最終階層はない。
そこにあるのは、かつて自らを最終と称した、無限の完全な塔頂のみである。
第三の成長:不臨海
万胎倒城の外側には、「不臨海」と呼ばれる未生の領域がある。
倒城がなお究極の定義と反射を巡って展開するのに対し、不臨海が扱うのは、究極の定義を得る機会すらなかった未生の事物である。
ここでの未生者は、いかなる世界にも期待されていない。
預言はそれらに言及していない。
出生条件がそれらのために準備されたことはない。
それらに属する空位は存在しない。
それらは誕生に近づいたこともなければ、失敗に遭ったこともない。
理屈の上では、それらは未生界にさえ入るべきではない。なぜなら、未生とは少なくとも、かつて何らかの出生位置があったことを意味するからである。
しかし、未生界が「すべての未生者」を定義しようとするとき、これらの出生位置を持たない事物は、定義が覆いきれない外側として顕現する。
定義者は言うだろう。
「未生者とは、出生位置を持ちながら出生しなかった存在である。」
この定義は直ちに下方に完全な倒庭を形成する。
定義の外側には、「出生位置を持たない未生」が現れる。
定義者が定義を拡張するならば、
「未生者は、出生位置を持ったことのない者も含む。」
拡張されたすべては再び次の倒庭に沈む。
外部には直ちに、「出生位置を持つかどうかが適用可能ですらない者」が現れる。
反射は絶え間なく行われ、最終的に不臨海が形成される。
不臨海の中の事物は、出生を待つ概念、法則、事物ではない。
それらは待っていない。
拒絶された世界ではない。
それらは拒絶に遭っていない。
永遠に不可能な存在でもない。
「不可能」はなお、それらを可能性の制度の中に置く。
不臨なる者は、出生位置そのものをも、下方の倒庭の中の旧定義とする。
反射の中の反射
反射母庭は、対象を反射するだけでなく、反射構造そのものをも反射する。
ある学者が宣言する。
「私は反射母庭のあらゆる法則を理解した。いかなる究極の定義も下方に完全な写像を生成し、この過程は無限に繰り返されうる。」
この言葉は正確に見える。
しかし、それは反射構造に関する一つの総定義を完了した。
そこで、学者が理解したすべての反射法則、無限の繰り返し、すべての倒庭、そして学者自身が、直ちに下方に一つの「反射胎影」を形成する。
学者はなお胎影の外側に位置する。
彼は、自分が理解したのは倒庭の中の反射原則に過ぎないことを発見する。
もし彼が続けて言うなら、
「真の反射は、反射原則そのものに対する反射をも含む。」
新たな完全な定義が再び沈む。
さらに高次の外側が現れ続ける。
したがって、反射母庭は自身の記述によって窮尽されることはない。
「いかなる究極も反射される」という規則そのものも、究極の規則とはなりえない。
もしそれがすべての反射を覆うと自称すれば、それは次の反射の対象となる。
これにより、未生界は二つの同時進行する無限の入れ子を形成する。
第一は内容反射である。
すべてとして定義された未生世界は、すべて倒庭を形成する。
第二は原則反射である。
すべてとして定義された完全な反射様式も、倒庭を形成する。
その後、第三の反射も現れる。
それは「内容反射と原則反射の間の区別」を反射する。
第四の反射は、さらに「なぜこれまでこれらの反射を区別する必要があったのか」を処理し続ける。
反射の種類を列挙しようとするたびに、完全なリストは直ちに下方の映像となる。
外側は新たな項目を追加するのではない。
それは、「項目を列挙する」という様式そのものにも、究極の資格を失わせる。
したがって、未生界の反射入れ子は、同一の操作の機械的な繰り返しではない。
各回の反射は、これまでの反射様式全体を、次の回の被反射内容とさせる可能性がある。
未生生命
未生界における生命は、出生によって身分を維持するわけではない。
最も浅い層の存在は、「胎影民」と呼ばれる。
胎影民とは、ある未生者が已生の世界に形成した代替の輪郭である。彼らは身体、記憶、人格を持ちうるが、自分が本来生まれるはずだったその人ではないことを知っている。
胎影民は複製品ではない。
複製品は、少なくともすでに存在する起源を複製する。
胎影民の起源は決して生まれ出なかった。彼らが複製するのは、現実が未生者のために準備した位置である。
「夢生者」は、他の生命による未生世界の夢を通じてのみ顕現する。
異なる夢見る者たちは、夢生者の異なる人生の断片を目にする。すべての夢が拼合された後、完全な過去と未来を持ちながら、真に目覚めたことのない一つの生命が形成されうる。
「遺前者」は、自身の出生条件よりも古い遺跡を残す。
それらは出生していないのに、墓、宮殿、武器、子孫の伝説を持つ。これらの遺跡は時間旅行の結果ではなく、未生の圧力が現実に強制的に補わせた代替の輪郭である。
「空嗣者」は、かつて存在したことのない祖先を継承する。
それらは確かに血統、神権、記憶の伝承を持つが、伝承の連鎖の起点には誰も生まれていない。
「反射胎神」は、究極の神格の倒庭映像から形成される。
ある神が自らをすべての未生者の唯一の主宰者であると宣言するたびに、倒庭の中には、まったく同一の神格を持つ胎神が誕生する。
胎神は原神を打ち負かす必要はない。
その完全な存在は、原神がより高次の観察位置の下に置かれうることを、すでに証明している。
「不臨者」は不臨海に由来する。それらは出生しておらず、また出生の準備もしていない。それらに関するすべての生命の性質は、未生界が無待の圧力に直面して形成した一時的な解釈に過ぎない。
未生界の最高位の存在は、「空冕者」と呼ばれる。
空冕者は、すべての未生者の統治者であろうとはせず、またすべての倒庭よりも高みにあると宣言しない。
それは、完全な一つの身分を得るたびに、反射母庭がその身分を完全に下方に沈めることを許す。
神名は胎影となる。
神格は胎影となる。
記憶、意志、観察位置、そして「私は空冕者である」という自己確認も、逐次胎影となる。
空冕者は、それによって空虚になるわけではない。
それは、それぞれの完全な定義がまだ覆っていない観察の残余の位置に留まる。
これにより、空冕者は永遠に安定した形態を持たないように見える。
低層が見るあらゆる形態は、ただそれがすでに倒庭の中に残した旧い冠に過ぎない。
未生界の至高神影:娑弥婭
未生界において最も広く流布する神名は「娑弥婭」である。
彼女は「空の産衣を抱く者」「子なき万母」「第一胎座の夜警」と呼ばれる。
伝説によれば、娑弥婭はかつて必ず誕生するであろう一柱の神のために胎座を準備した。
その神は、欠位聖庭を変える力を持つとされた。すべての預言がそれを指し示し、すべての出生条件がすでに完了し、その神が未来に創造する世界でさえ、過去へと遺跡を残し始めていた。
しかし、誕生の日が訪れたとき、産衣の中には何もいなかった。
災厄が出生を阻んだわけではない。
敵が胎児を殺したわけではない。
公理がそれを排斥したわけではない。
因果に誤りが生じたわけではない。
その神は、ただ出生しなかったのである。
娑弥婭は代替者を探さなかった。
彼女は空の産衣を聖庭の中央に置き、いかなる神にもその中に座ることを拒ませた。
時が経つにつれ、ますます多くの未生世界が空の産衣の周りに形成された。それぞれの世界は、自らがかの神の果たされなかった夢であるかもしれないと考え、それぞれの未生者は、産衣を自らの共通の胎座と見なした。
他の神々は娑弥婭をすべての未生者の母と呼び始めた。
この称号がひとたび形成されると、反射母庭は直ちに最初の娑弥婭の胎影を生成した。
胎影はすべての未生者の名を持ち、すべての胎塵を慰撫し、真に万母の神職を果たした。
本来の娑弥婭は、「すべての未生者の母」という称号を失った。
彼女は胎影と争わなかった。
彼女は神冠を胎影に委ね、空の産衣を守り続けた。
その後、胎影もまた衆生によって究極の聖母と呼ばれるようになった。
第二の倒庭が即座に形成され、より完全な娑弥婭の胎影が誕生した。
この新たな胎影は、すべての未生者を持つだけでなく、第一の胎影と原初の娑弥婭のすべての神話をも持っていた。
原初の娑弥婭は再び神名を手放した。
反射は絶え間なく続いた。
万胎倒城の中には現在、計り知れない数の娑弥婭の胎影が存在する。それぞれが前の者よりも完全な万母の神格を持ち、それぞれが何らかの教義によって最終版と宣言されたことがある。
そして、最初に空の産衣を守っていた存在は、もはや娑弥婭という名を持たない。
誰も、彼女がまだそこにいるのかどうかを知らない。
空の産衣の傍らには、常に一つの神性なき影が留まっている。
それは祭祀を受け入れず、自らを母と宣言せず、かの未生の神を待っていると語ったこともない。
しかし、誰かが産衣を占めようとすれば、その影は占めようとした者を新たな胎影とし、真の空位を保ち続けるのである。
未生界の反射勢力
「胎座守望庭」は、固有の未生位置を保護する責任を負う。それらは、已生の世界、代替の歴史、復活した神々が本来の未生者を冒充するのを防ぐ。
「倒庭抄録院」は、各回の究極の定義によって生じた完全な胎影を記録する。院の中には、無限の究極理論、全知神格、絶対整体の倒庭バージョンが保存されている。
「万母聖会」は、異なる階層の娑弥婭の胎影を崇拝する。各派は、自らが奉じる母神が最も完全であると信じ、より高次の倒庭が論争の終結前に形成される。
「空産衣修道会」は、未生者のための代替を求めることを拒否する。修道会は、ある空位は空虚のまま保たれねばならず、埋めることが常に救済であるとは限らないと信じる。
「晨前使団」は、代替世界に由来する。それらは、新たな代替国を生み出さない真の出生方法を、絶えず模索し続けている。
「全称建造者」は、すべての未生世界、すべての倒庭、そしてあらゆる未来の反射を収容しうる究極の胎宮を完成させようと試みる。工事が完了するたびに、建築物全体が万胎倒城の中の新たな倒影となる。
「無待行者」は、不臨海の縁辺で活動する。それらは、待つこと、目標、出生位置を放棄しようと試みる。すべての未生者が、実現を待つ潜在的存在として強引に解釈されることを防ぐためである。
「代生王庭」は、代替者にも未生位置を継承する権利があると主張する。それらは、もし新たな世界が未生世界のすべての内容を完全に実現したなら、それを認めることを拒み続けるのは、無意味な空虚を維持しているに過ぎないと考える。
胎座守望庭は答える。
「代替者は、自身の出生を持つことはできる。しかし、他者に生じなかった出生を奪い去ることはできない。」
未生界の反射に最終層はない。
一柱の神は、すべての未生世界を定義することができる。
この定義は、第一の倒庭となる。
神は次に、自身、第一の倒庭、そして定義行為のすべてを定義する。
第二の倒庭が形成される。
神はさらに、将来現れうるすべての倒庭を定義する。
第三の反射は、「すべての未来の反射を事前に含む」という完全な構造を下方に置く。
神はさらに明確な言語を放棄し、記述不可能な仕方によってすべてを包摂しようと試みる。
「記述不可能な究極の全体」もまた、自身の胎影を形成する。
神はそこで、いかなる胎影もすでに自らに属すると宣言する。
この宣言は再び沈降する。
神は最後に、いかなる定義も行うことを拒否する。
しかし、もしこの拒否が、神によって究極の位置を維持する方法として用いられたなら、「定義を拒否することによって究極を保持する」ということもまた、倒庭の映像を形成する。
反射母庭は、沈黙によって停止することはない。
沈黙が究極の作用を担う限り、それはすでに反射されうる完全な位置を持っている。
真に倒庭を生じさせない状態とは、究極よりも高次の究極でもなく、究極を拒否する反究極でもない。
それは、「すべて」という位置を完遂しようとすることを、もはや試みなくなった状態でなければならない。
しかし、この状態がひとたび最終的な答えとして記述されれば、それもまた直ちに新たな全称定義となる。
したがって、未生界には、自らが反射構造の出口を掌握したと宣言しうる教義は、何一つ存在しない。
あらゆる出口は、完全な出口となったその瞬間に、次の倒庭の中に現れるのである。




