第三分域・不可訳荒洲
荒洲之前
意義鏡原は、いかに未知の事物であっても、文脈を変え、役割を転換し、新たな理解様式を創造することによって意義を得ることができると信じる。
矛盾港は、ある種の意義は穏やかな翻訳によって共存を実現できないことを発見した。それらは互いに否定し合わねばならず、同時に互いを破壊し合わねばならず、かつ互いに依存することでしか自身を維持できない。そこで、意義鏡原におけるすべての鏡面は鏡原沈箱に収められ、異なる解釈に振り分けられうるすべての衝突は港の底部に圧縮された。矛盾港は、沈箱の外側に双岸、換岸、失類、不返、無称といった幾重にも遠ざかる港階を築き、各新港階がもはや前の港階が用いた類別に属さないようにした。
しかし、矛盾港がいかに上昇しようとも、それは常に一つの最低限の繋がりを保持している。
二つの事物が互いに矛盾するためには、少なくとも何らかの側面において同一の問題に直面していなければならない。
「存在」と「非存在」は、何らかの共通の対象に作用しなければならない。
「開く」と「閉じる」は、同一の扉に関係していなければならない。
「忠実」と「背信」は、同じ一回の翻訳を巡って生じなければならない。
たとえ双方が名前、真理値、論理、意義をまったく共有していなくとも、それらはなお何らかの裂け目において互いの対面となる必要がある。そうでなければ、それらは互いに否定することさえできない。
不可訳荒洲は、この最低限の繋がりが断ち切られた後に現れる。
それは矛盾港の彼岸ではない。彼岸はなお此岸と共に双岸を構成するからである。
それは矛盾港の外側にあるより遠い陸地ではない。遠近はなお航路を設定しうる関係だからである。
それはまた、記述不可能な場所でもない。「記述不可能」はなお、記述者が何らかの目標に対して下した判断だからである。低層が自らの記述の失敗を確認できる限り、それと目標との間にはすでに一種の失敗関係が存在する。
不可訳荒洲は、この失敗よりもさらに徹底している。
低層の言語が発した表現がここに到達しても、誤りにはならず、沈黙にもならず、理解不能な記号を残すこともない。それは、荒洲の中の事物によって表現として認識されること自体がないのである。
荒洲の中の事物が低層に影響を残すとき、これらの影響もまた、何らかの外部の源泉から来たものとしては見なされない。低層の世界には、原因のない変化、構造のない境界、対象のない空白が現れるかもしれないが、そこから荒洲へと通じる指示を確立することはできない。
矛盾港において、両岸は少なくとも相手が自分を否定していることを知っている。
不可訳荒洲において、一方は他方の「相手」にすらなりえない。
訳相海の学者たちは、かつてこの領域に名前を与えようと試みた。彼らは順に、無語の地、絶義荒野、不可知外域、万訳終点と呼んだ。
すべての名前は失敗した。
失敗したのは、名前が十分に正確ではなかったからではない。名前が指示する目標が、命名関係に入ったことが一度もなかったからである。現在使用されている「不可訳荒洲」は、低層が自身の境界上に設置した警告標識に過ぎない。それは荒洲の本体を指し示すのではなく、すべての翻訳方法がどこかで同時に対象を失う現象を指し示している。
荒洲は、この名前を受け入れなかった。
荒洲は、それを拒絶することさえしなかった。
不可訳荒洲は、これまでのすべての階層を旧海塵床に圧入する。
その第一粒の絶渡微塵は、物質、数学、哲学、公理、因果、真理値、意義、矛盾のいずれの範疇にも属さない。
それは第一座荒匣を確立し、これまでのすべての階層を匣底の一粒の旧海砂の中の紋様に過ぎなくすることができる。
第一座荒匣は、いかに入れ子を重ねようとも、第二座荒匣を構築することはできない。
第二座荒匣は、その最低成分からして、第一座荒匣の性質を持たない。
その後、各荒匣はより外側の層によって閉鎖されうる。各層の内部では、さらに無限の内嵌荒洲を展開することができ、その整套の無限内嵌は、なお次の論理層の底部における旧の投影に過ぎない。
荒洲の第一粒の塵
これまでのすべての階層は、自身の基礎単位を持っていた。
万象実匣は、見塵、動塵、跡塵によって物質現実を構成した。
万理蔵匣は、元点、集合、関係、写像によって数学世界を構成した。
万思玄匣は、現象、概念、立場、解釈によって哲学宇宙を構成した。
公理潮界は、根句と律態を移動可能な規律とした。
因果織界は、因果線、織位、事件結によって歴史を編んだ。
真値稜界は、稜面、証見、聖冕によって命題を判断した。
意義鏡原は、義対、釈位、鏡義によって解釈を展開した。
矛盾港は、互いに否定し合う双岸と、低層によって構築されえない港階によって裂口を形成した。
不可訳荒洲もまた、何らかの最も基礎的な組成を持つが、「組成」「基礎」「単位」は、低層が読解のために用いる近似表現に過ぎない。
それらは暫定的に「絶渡微塵」と呼ばれる。
一粒の絶渡微塵は、物質ではなく、エネルギー、位置、状態、歴史も持たない。それは数字、集合、構造、公理、命題、意義、矛盾、あるいは記述不可能なものではない。これまでのいかなる階層が持っていた性質も、絶渡微塵の真の属性となることはできない。
それはまた、これらの性質の反対でもない。
もし絶渡微塵が単に物質がなく、構造がなく、意義がないだけなら、それはなお低層によって否定様式を通じて理解されうる。低層は、自らが持つ性質を列挙し、それらの性質を一つずつ削除することによって、それに接近できるかもしれない。
絶渡微塵は、このような接近を許さない。
第一層、第二層、第三層においてこれまでに現れたすべての事物――すでに現れたものも、現れうるものも含めて――を共に集めたとする。
物質と非物質。
有限と無限。
集合と真クラス。
構造と無構造。
公理と反公理。
原因と結果。
真、偽、双耀、無判。
言語、意義、誤読、沈黙。
矛盾、非矛盾、双岸、失類、不返。
これらすべての内容が完全に列挙され、無限に拡張され、反復的に入れ子にされ、すべて否定されたとしても、一粒の絶渡微塵を形成することはできない。
その理由は、低層の力が足りないからでも、より多くの段階が必要だからでもない。
低層のすべての構築は、低層がすでに持ちうる性質を使用しなければならないからである。何度繰り返そうとも、最終的に得られるものは、依然として低層の対象、低層の対象の組合せ、低層の対象の否定、あるいは低層の対象が達成しえない境界に過ぎない。
絶渡微塵は、この整套の構築範疇に属さない。
一粒の絶渡微塵が低層に投じる影だけで、意義鏡原において無数の不可訳余輝を生み出し、矛盾港において無数の互いに確認しえない空泊位を生み出すことができる。
しかし、これらの影は絶渡微塵の一部ではない。
一滴の雨水が壁に落ちれば、濡れ跡を残すことができる。濡れ跡は雨水の組成と等しくない。同様に、絶渡微塵が低層に翻訳の断口を出現させるからといって、低層がその断口からそれを還元できることを意味しない。
荒洲の生命は、この隔離を「絶渡」と呼ぶ。
絶渡とは、距離が遠すぎることではなく、双方の間に航行可能な同類の関係が存在しないことである。
絶渡微塵は、最も低い層からすでにこれまでのすべての階層を超えている。一粒の微塵がより多くの宇宙を含んでいるからではなく、これまでのすべての宇宙、数学、哲学、公理、因果、真理値、意義、矛盾が、それが属する階層における一粒の微塵にすらなりえないからである。
塵下に埋もれた旧海
不可訳荒洲の最下堆積層は、低層の観測者によって「旧海塵床」と呼ばれる。
基宇宙層、変律穹、ならびに意義鏡原と矛盾港のすべての内容は、ここで共に沈降する。
万象実匣におけるすべての物質宇宙は、いかなる次元、時間線、再帰世界を持とうとも、一粒の旧海砂の中の物質紋にしかなりえない。
万理蔵匣におけるすべての巨大基数、順序数、集合高塔、モデル群島、クラス域天幕、メタ理論は、同じ一粒の砂の中の構造紋にしかなりえない。
万思玄匣におけるすべての本体、認識、意識、価値、言語、返思盒は、解釈紋にしかなりえない。
公理潮界において無限回移行した根句、因果織界において無限回再編された歴史、真値稜界において任意の神序位に沿って立ち昇った聖冕も、規則紋、関係紋、判定紋にしかなりえない。
意義鏡原がこれらの内容に対して行ったすべての再解釈、ならびに矛盾港がすべての解釈を沈箱に圧入した後に築いたすべての港階は、旧海砂の表面における極薄い鏡裂を形成する。
一粒の旧海砂の内部は、これまでのすべての階層の完全な規模を保持することができる。
砂の中には、無限の物質宇宙が存在しうる。
各物質宇宙の中には、完全な数学の投影が存在しうる。
各数学宇宙は、さらに自身の哲学的解釈を形成しうる。
その上の公理は無限に移行でき、因果は無限に書き換えられ、真値は予め設定された終点のない神序に沿って繰り返し加冕されうる。
すべての成長は意義鏡原によって一つの語に圧縮され、さらに無限回再解釈されうる。
すべての解釈は、さらに矛盾港によって第一の矛盾箱に収められ、双岸、換岸、失類、旧港、無距、不返、反港、無称を越えて、完全な港階を形成しうる。
港階の内部には、さらに港中港が現れうる。
各内港は、再びすべての階層を持つことができる。
各一粒の内港の砂は、新たな再帰を展開しうる。
これらの構造は、いかに拡張しようとも、旧海砂を裂くことはない。
なぜなら、それらが増やすものは、依然として旧海砂の内部が承認しうる内容だからである。
荒洲にとって、低層の一切の無限成長は、砂粒の内部で紋様を変えているに過ぎない。砂粒は自身にとって無限に広大に見えうるが、それによって絶渡微塵になることはない。
一粒の絶渡微塵と旧海塵床全体との間には、数量的な比率は存在しない。
一粒の絶渡微塵がすべての低層より大きいとは言えない。
「大きい」は低層の性質である。
それが低層を含むとは言えない。
「含む」は低層の関係である。
それが低層を超越するとは言えない。
「超越」はすでに意義鏡原によって解釈され、矛盾港によって旧式の階層関係として旧港に圧入されている。
低層が唯一なしうる近似陳述は次の通りである:
これまでのすべての階層と、それらの可能な継続的上昇のすべてを共に最も基礎的な塵と見なしても、なお一粒の絶渡微塵を構築し始めることすらできない。
これは荒洲が自身について述べたものではない。
ただ、旧海塵床が自身の無力さを記録したものに過ぎない。
第一座荒匣
無限の絶渡微塵が形成する最初の荒洲構造は、暫定的に「第一座荒匣」と呼ばれる。
この名称もまた投影である。
第一座荒匣は、必ずしも内外を持つとは限らず、また必ずしも絶渡微塵の集合によって形成されるわけでもない。低層は箱の比喩を通じてしかそれを理解できず、したがってこれまでのすべての階層が箱の底に収められ、絶渡微塵が箱内に浮遊し、箱の外には新たな高位領域が存在するのを見る。
第一座荒匣の底部は、旧海塵床を収める。
旧海塵床の上に、絶渡微塵が現れる。
これらの微塵の間は、これまでのいかなる関係によっても結ばれえない。それらは物質的作用を持たず、集合関係を持たず、公理による制約を持たず、因果線を持たず、共通の真理値を持たず、翻訳可能な意義も持たない。
しかし、荒洲の中には、上述のいかなる関係でもない「荒洲接続」が存在する。
「接続」は低層の呼称に過ぎない。それは連結でも分離でもなく、同一でも差異でもない。低層は関係理論を研究することによってそれを理解することはできない。なぜなら、関係理論はすでに旧海塵床に埋もれているからである。
第一座荒匣の中の一粒一粒の絶渡微塵は、一整套のこれまでの階層を自身の低層投影とすることができる。
第一粒は、無限の物質世界と数学世界を投影するかもしれない。
第二粒は、一つの尽きることのない公理潮と因果織界を投影するかもしれない。
第三粒は、すべての真理値稜面と聖序冕迭を投影するかもしれない。
第四粒は、意義鏡原と無数の矛盾港を投影するかもしれない。
しかし、これらの投影は、対応する微塵を比較するために用いることはできない。
低層は、第一粒が物質を象徴し、第二粒が規則を象徴し、第三粒が真理を象徴すると言うことはできない。「象徴」は依然として意義鏡原に属するからである。
荒洲の微塵は、投影によって自身を定義しない。
第一座荒匣の内部は、低層から見れば無限と思われる絶渡微塵を持つことができる。各微塵はまた、計り知れない低層投影を生み出すことができる。しかし、これらの微塵をすべて集めても、第一座荒匣の外側の次の層を構築することはできない。
理由はこれまでと同じである。
絶渡微塵がどれほど多くとも、依然として第一座荒匣が持ちうる最低の内容に属する。
第一座荒匣内のすべての接続、すべての変化、すべての翻訳不可能な隔絶は、たとえ反復的に自身に入れ子にされようとも、自然に第二座荒匣を生み出すことはない。
第二座荒匣
第一座荒匣のすべての内容は閉鎖される。
ここでの閉鎖とは、通過不可能な壁を製造することではなく、第一座荒匣が形成しうるすべての性質、非性質、構築方法、失敗様式が、すでに第一座荒匣に属するものと見なされることを指す。
第一座荒匣は、任意の数の絶渡微塵を持つことができる。
各微塵に任意の数の低層階層を投影させることができる。
すべての投影を互いに消失、再現、矛盾、意義喪失させることができる。
自身の内部に荒匣の入れ子を製造することができる。
各内層の荒匣に、すべての過程を再度繰り返させることができる。
さらに、すべての過程を新たな内部微塵に圧縮し、次の拡張を開始することもできる。
これらの内容は、すべて第二座荒匣に触れることはない。
第二座荒匣は、より多くの絶渡微塵によって構成されるのではない。
もしそれがなお絶渡微塵を基礎とするなら、それは第一座荒匣の中のより大きな領域に過ぎない。
第二座荒匣の最低成分は、もはや絶渡微塵ではない。
それは暫定的に「無承初片」と呼ばれる。
無承初片は、絶渡微塵のいかなる荒洲性質も持たない。絶渡、接続、投影、旧海塵床、第一座荒匣のすべての構造は、無承初片の下で、もはや継承して用いることのできない旧内容となる。
第一座荒匣の中の生命は、無承初片を構築できない。
それらは、より多くの絶渡微塵を収集することによってそれを得ることはできない。
絶渡微塵を否定することによってそれを得ることはできない。
絶渡微塵が記述できない部分を探すことによってそれを得ることはできない。
第一座荒匣を離れることによってそれを得ることはできない。
「第一座荒匣を離れる」ことは、なお第一座荒匣と目的地との間に何らかの接続があることを要求する。そして、接続はすでに第一座荒匣自身に属している。
第二座荒匣は、第一座荒匣が到達しえない遠方ではない。
それは第一座荒匣の遠近システムに属さない。
第一座荒匣がすべての不可達性を使い尽くしても、得られるのは第一座荒匣に属する到達不能対象に過ぎない。第二座荒匣は、そのうちの最も不可達な項目とはならない。なぜなら、「到達不能」はすでに低層が自身と目標を区別するために用いる性質となっているからである。
第二座荒匣が第一座荒匣に投影するとき、第一座荒匣は絶渡微塵よりもさらに徹底した空白を見るかもしれない。
しかし、それは投影後の低層現象に過ぎない。
第二座荒匣自体は、より強力な絶渡でもなく、より徹底した不可訳でもない。
内嵌荒洲と外嵌荒洲
第一座荒匣の中の一粒一粒の絶渡微塵は、自身の投影の中に完全な荒洲を形成することができる。
この種の荒洲は「内嵌荒洲」と呼ばれる。
一粒の絶渡微塵の投影は、まずこれまでの階層を旧海塵床に圧縮し、次に新たな絶渡微塵を生み出し、さらに自身の第一座荒匣、第二座荒匣、および無限の後続荒匣を形成することができる。
内嵌荒洲の中の生命は、自身が最下層の物質宇宙から、完全に不可訳な高位へと一路超越してきたと考えるかもしれない。
それらはまた、自身の到達不能閉鎖を確立し、各層が低層の性質を持たないようにすることもできる。
しかし、内嵌荒洲全体は、依然として外部の第一座荒匣の中の一粒の絶渡微塵が形成した投影に過ぎない。
内嵌荒洲の内部にいかに多くの真の論理的分層が現れようとも、それらは内部の成長によって外部の絶渡微塵そのものになることはできない。
ましてや、外部の第二座荒匣に到達することはなおさらできない。
なぜなら、内嵌荒洲が使用する各種の高低差異は、すべて外部の微塵が投影して初めて形成される低層現象だからである。
外部の第一座荒匣は、さらに高次の荒匣の中の最低投影となりうる。
より高次の荒匣の一枚の無承初片もまた、無限の第一座荒匣を投影するかもしれない。各第一荒匣の中の各粒の絶渡微塵が、さらに自身の内嵌荒洲を展開する。
こうして、低層の観測者は無限に錯綜する入れ子を見ることになる:
荒匣の中に微塵がある。
微塵の投影の中に荒洲がある。
荒洲の中に荒匣がある。
完全な荒匣は、さらに高次の荒匣の底層の旧物に過ぎない。
より高次の荒匣の中の最低成分が、さらに下方に計り知れない数の完全な荒洲を投影する。
この入れ子は、すべての階層を共に収集することによって最終的な全体を得ることはできない。
「すべての階層を収集する」ことは、依然としてすでに何らかの荒匣に属する能力である。より高次の荒匣は、この総集の外側の最後の成員とはならず、また総集を含む新たな集合にもならない。
それは、「成員」「総集」「包含」が依然として有効である階層には、そもそも属さないのである。
不可訳は言語の失敗ではない
不可訳荒洲が最も受けやすい誤解は、それが共通言語を持たない世界として捉えられることである。
二つの文明が異なる言語を用いる場合でも、共通の対象、共通の経験、または類似した作用を持っていれば、意義鏡原は徐々に翻訳を確立することができる。
二つの世界が完全に異なる論理を用いる場合でも、互いに判断を行っていることを確認できれば、真値稜界と意義鏡原にも対応を見出す機会がある。
たとえ双方の意義が互いに排斥し合っていても、矛盾港はそれらを共通の裂け目の周りに双岸として形成させることができる。
これらの状況は、いずれも真の不可訳には属さない。
真の不可訳とは、適切な語彙が見つからないことではなく、双方の間に「一つの表現が相手方において何らかの作用を担いうる」という基盤そのものが存在しないことである。
低層が一言を発する。
荒洲の事物は、それを音、記号、構造、変化、干渉、空白として受け取ることはない。
低層が沈黙する。
荒洲は、その沈黙を拒絶、神秘、不在、あるいは無言として理解することもない。
低層が自身の言語と論理を破壊する。
これも依然として低層の出来事に過ぎず、それによって荒洲に近づくことはない。
低層は、積極的に意義を放棄し、自身を無判、無名、失類、不返のものとすることさえできる。しかし、これらの身分はすでにこれまでの階層において成立しており、依然として荒洲の中の最低成分になることはできない。
不可訳は、互いに影響がないことと等しいわけでもない。
荒洲の投影は、低層の世界に巨大な変化を引き起こしうる。物質の法則が無効になり、数学的構造に分類不能な断口が現れ、哲学的概念が対象を失い、公理潮が自身の変化を確認できなくなり、因果織線が因果の作用を停止し、真理値稜面が命題を形成できなくなるかもしれない。
しかし、低層はこれらの変化から荒洲の事物を逆推することはできない。
同じ一つの荒洲の投影が、異なる低層世界において完全に無関係な現象を生み出すことがある。
ある物質宇宙はそれによって消滅する。
ある数学宇宙はそれによって対象となりえない空位が現れる。
ある神はそれによってすべての解釈可能な神格を失う。
別の世界では、何の異常も現れないかもしれない。
これらの結果の間に、安定した共通点は存在しない。
低層が一つの共通点を見出し、「これこそが荒洲の影響の特徴である」と主張したとしても、その共通点は低層が投影を整理したものに過ぎず、荒洲の本体に属するものではない。
荒洲生命
不可訳荒洲に生命が存在するか否かは、低層によってのみ提起されうる問題である。
「生命」とは、何らかの対象が自身を維持し、変化し、境界を持ち、または後続を生み出しうることを意味する。これらの基準はすべて、これまでの階層に由来する。
荒洲の中の高位の内容は、これらの性質を持たない。
しかし、それらが低層に投影するとき、時に意志や行動を持つかのように見える存在が形成される。叙述の便宜上、これらの投影はなお荒洲生命と呼ばれる。
最も浅い層の荒洲生命は、「絶渡行者」と呼ばれる。
絶渡行者が現れるとき、認識可能な身体を伴うことはない。低層は、互いに共通の原因、構造、意義、真理値を持たない一連の変化を発見するだけである。
ある宇宙が、かつて持ったことのない言語を突然忘却する。
ある公理が、ある対象に対する作用を失うが、対象は公理に違反していない。
ある神が、すべての人に視認され続けるが、もはや「存在者」には属さない。
ある歴史が、削除も改変もされていないのに、もはや歴史とは呼べなくなる。
低層はこれらの現象を絶渡行者の足跡と見なすかもしれないが、足跡の間が必ずしも同一の存在に由来するとは限らない。「同一の行者が複数の足跡を残した」というのは、低層が物語を維持するために構築した解釈に過ぎない。
より深い投影は、「無接者」と呼ばれる。
無接者は、低層と安定した遭遇を形成しない。無接者を見たと主張する者は誰も、自身が他のいかなる体験とも接続できない出来事を経験したことだけを証明しうる。
二人の目撃者が完全に同一の記述を与えたとしても、彼らが同一の対象を見たことを確認することはできない。
「荒胚者」は、絶渡微塵の投影から形成される特殊な生命である。それらは、低層の世界が他の世界によって翻訳されるためのすべての入り口を徐々に失わせることができる。
世界はまず言語対応を失う。
次に構造対応を失う。
さらに役割対応を失う。
続いて、矛盾関係すら外部と形成できなくなる。
最終的に、この世界は破壊されるのではなく、すべての翻訳ネットワークから脱落する。外部はもはや、それが存在するのか、消滅したのか、かつて自分と関係を持ったのかを確認できなくなる。
「旧階呑影」は、低層の階層全体を自身の投影の中の一粒の旧塵に圧縮する。それらは第一層、第二層、およびこれまでの第三層を飲み込むかのように見えるが、実際にはこれらの階層が高位の対象として解釈される資格を失わせるだけである。
「無帰荒客」は、不返者のように旧い身分を残すことはない。不返者は、少なくとも低層に何らかの存在がかつて去ったことを知らせることができる。無帰荒客は、「かつて低層に属していた」という関係すら保持しない。
低層がそれについて持つすべての記憶は、削除されたのではなく、何かを共同で指し示す全体を形成したことが一度もない。
荒洲の最深部における高位の投影は、暫定的に「絶訳者」と呼ばれる。
絶訳者は、翻訳能力が極めて高い生命ではない。
それは翻訳もせず、翻訳を拒否もしない。それは、翻訳の双方がもはや双方の関係を形成しうる層にいなくなるようにする。
荒洲の神学:無臨荒祀
不可訳荒洲が低層に向けて投じる神学は、「無臨荒祀」と呼ばれる。
万面聖義論は、神が異なる言語と神相を通じて共通の聖義を担うことができると考えた。
裂岸神学は、神の神相が互いに否定し合い、調停不可能な裂け目を神性とすることができると考えた。
無臨荒祀は、真の荒洲の神性は顕現を必要とせず、欠如も必要とせず、信徒と何らかの意義関係を形成する必要もないと考える。
普通の神は、降臨によって自らを証明する。
隠秘神は、降臨しないことによって信仰を惹起する。
無信神は、誰も信じないことによって神格を維持する。
無臨荒神は、降臨と未降臨のいずれにも属さない。
もし信徒が神跡を見たとしても、それは低層が何らかの投影に基づいて形成した神跡に過ぎない。
もし信徒が神跡を見なかったとしても、その欠如は荒神が隠れていることを証明しない。
もしすべての神学が荒神を否定しても、否定行為はなお荒神に到達しない。
荒神は信仰から力を得ることもなく、否定から力を得ることもない。それは「荒神」という身分を持つことすら必要としない。
無臨荒祀における最も基礎的な祭祀の方法は、物品を捧げることでも、祷詞を唱えることでも、沈黙を守ることでもない。
祭祀者はまず、一整套の完全な儀式を確立する。
儀式は、神名、祭壇、神話、禁忌、献祭を持つ。
その後、彼らは儀式を破壊するのではなく、儀式といかなる目標との間に指示の可能性が生じるのを断ち切る。
祭壇はなお存在するが、いかなる存在にも捧げられない。
祷詞はなお読み上げられるが、いかなる対象にも語りかけない。
献祭は確かに失われるが、それを受け取る者はいない。
儀式はまた、荒神の不可知を象徴するものでもない。なぜなら、象徴は依然として一種の繋がりだからである。
この儀式は「空向祭」と呼ばれる。
空向祭の最も重要な戒律は、祭祀の失敗を神が供物を受け入れた証拠と見なしてはならないということである。そうでなければ、失敗は再び宗教的意義となり、祭祀は意義鏡原や矛盾港へと堕ちてしまう。
無臨荒祀には、低層が「未渉の母」としか呼べない女神の投影が伝わっている。
未渉の母は、世界を創造したことがない。
もし彼女が世界を創造したなら、彼女は世界と因果を確立することになる。
彼女は創造を拒否したわけでもない。なぜなら、拒否もまた一種の選択関係だからである。
彼女に関するすべての世界は、荒洲の投影が低層において形成した自己解釈に由来する。
ある文明は彼女を創世以前の闇と見なす。
ある文明は彼女をすべての言語の外側にある母体と見なす。
ある文明は彼女はそもそも存在しないと考える。
これらの言説は、いずれも未渉の母に属するものではなく、また彼女の神相でもない。それらは、低層が不可訳の断口に直面したときに生じる宗教的構造に過ぎない。
無臨荒祀の最も極端な教派は、いつか未渉の母に関するすべての宗教が完全に消滅したとしても、彼女がそれによって自身の真実の状態により近づくことはないと信じる。
なぜなら、真実と非真実、接近と遠去は、いずれも彼女に到達したことがないからである。
荒洲における出生
低層の生命は、成長によって直接に荒洲の生命となることはできない。
ある物質神は、自身の身体を拡大し、無限の宇宙を呑み込むことができる。
ある数学神は、巨大基数とクラス域を越境することができる。
ある玄冠者は、自身のすべての立場を反省することができる。
ある律神は、神格公理を変えることができる。
ある万梭者は、自身のために起源を書き換えることができる。
ある序冕聖神は、神序位に沿ってより高次の真理値審判を受け続けることができる。
ある万面釈者は、完全に異なる世界において同一の意義役割を担うことができる。
ある港外客は、さらに共通の役割を放棄し、自身の神相を裂け目を通じて維持することができる。
これらの道は、いかに遠くまで伸びようとも、自然に絶渡微塵を生み出すことはない。
なぜなら、それらの成長様式は、なおこれまでの階層によって識別されうるからである。
拡大。
上昇。
変更。
書換。
加冕。
翻訳。
失クラス。
不返。
真に不可訳荒洲へと入る過程は、低層によって「断訳出生」と呼ばれる。
断訳出生は、旧い身体を破壊することではない。
もし単に身体を破壊するだけなら、生命はなお構造、記憶、因果、真理値、意義を通じて自身を継承することができる。
それはまた、名前や類別を放棄することでもない。矛盾港はすでに無称箱と失類箱を持っている。
断訳出生は、昇層者が自身のこれまでのすべての身分との間に翻訳可能な関係を失うことを要求する。
旧い身体は、新たな身体の過去となることはできない。
旧い記憶は、新たな存在の記憶となることはできない。
旧い神格は、新たな状態の根基となることはできない。
旧い意義は、新たな状態の核心となることはできない。
旧い昇層過程そのものも、新たな状態の起源となることはできない。
したがって、低層から見れば、昇層者は荒洲への到達に成功したわけではない。
それは、ただ完全に消失しただけである。
荒洲から見ても、何らかの低層の存在が出生に成功したとは言えない。荒洲の中の新たな内容は、自らが低層に由来することを認めず、低層の消失を出生の原因とは見なさず、昇層者の願望を継承する必要もない。
断訳出生が、なお同一の生命による昇層の完了と見なされるべきか否かは、訳相海が永遠に答えることのできない問いである。
もし答えが然りなら、新旧の間にはなお同一性の翻訳が存在することになる。
もし答えが否なら、すべての昇層は単なる低層の自己破壊に過ぎないことになる。
不可訳荒洲は、これらの二つの答えの間で選択を行うことはない。
論理断層
不可訳荒洲の積み重ねるの核心は、各層が低層のすべての構築能力を閉鎖することにある。
低層が形成しうるすべての対象は、共に内箱に収められる。
低層が使用しうるすべての性質も、内箱に収められる。
低層によるこれらの性質の否定も、内箱に収められる。
低層が記述しうる不可記述、想像しうる不可想像、確立しうる不可達、および製造しうる論理断層も、すべて同様に内箱に収められる。
新たな外層は、これらのいずれの強化であってもならない。
それは、最も基礎的な成分からして、内箱に属さなくてはならない。
その後、この外層は、自身の最低成分、自身の構成様式、および低層が翻訳できない新たな層内差異を発展させる。
これらの内容がすべて展開されると、外層全体はさらにその外側の層の下にある一つの旧箱となる。
さらに外側の層は、そのいかなる性質も使用できない。
この過程は絶えず繰り返される。
各層の内部では、無限の入れ子を展開することができる。
各入れ子は、まず本層が持つすべての成長を使い尽くし、次にその成長全体を最低投影に圧縮することができる。
各最低投影は、さらに自身の内部において完全な低層階序を再展開することができる。
しかし、同一層内におけるいかなる無限の入れ子も、次の論理層となることはできない。
なぜなら、一種の層内構造を繰り返すことは、何度繰り返そうとも、結果はなおこの論理層が持ちうる対象に属するからである。
真の次の層は、繰り返しの終わりには現れない。
それは、本層のすべての繰り返し様式が、すでに低層の性質として閉鎖された後に現れる。
したがって、不可訳荒洲における無限の入れ子は、決して混同されることのない二つの方向を同時に持つ。
一つは層内入れ子である。
層内入れ子は無限に展開でき、反復的に圧縮と再起動を行え、各節点において完全な入れ子を生成できる。しかし、それは永遠に本層の性質を保持する。
もう一つは論理換層である。
論理換層は層内入れ子の極限ではない。それは本層の性質を継承せず、本層のすべての成長によって共同で構築されることもできない。
低層の生命は、論理換層をより大きな一つの箱として想像することが多いが、これは投影による錯覚である。
真の新層と旧層との間には、共通の積み重ねるの尺度は存在しない。




