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月の下

「ち、長野……さん……」

 我が家の前の細道。

 クラスの知り合いなど誰もいるはずがないその場所に立っているのは、間違いなく長野飛鳥だった。

 荒れた心が行く先に迷って残留する。ただでさえ、たった今全身が沸騰したばかりで思考の整理が全く出来ていないというのに、それに覆い被さるようにこの人物に登場されてはもはや纏まるものも纏まらない。

「ど、どうしてここに……」

「簡単なことよ。あなたにつけられた時、私も後をつけ返したの。わざわざ尾行までして、一体私の何を知りたかったのか単純に興味が湧いたというわけよ」

 長野はさらりととんでもないことを言う。それはすなわち、俺の尾行は本人にさえもバレバレだったということだ。

 しかし違う。俺が聞きたいのは『どうやって来たか』ではない。『なぜここにいるのか』ということだ。

「でも、それだけが理由じゃないわ」

「えっ」

 俺の疑問を潰すように、眼前の女子は凛とした瞳をこちらへ逸らさず向け、ゆっくりと口を開く。

「三島くん。これまであなたは何度か私に会ってきた。時には偶然、時には意図的にね。でもそれは、私があえてやっていたことなのよ」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の脳内に様々なシーンが表示される。図書室や家電量販店、そしてあの日のゲームセンター。

 確かに、これらのシーンに長野が関わっているのは不可解だった。図書室については俺をわざわざ誘った意図が見えなかった。家電量販店にしても、長野とあの場所で出くわすのは不思議だった。

 そして家電量販店以上に違和感があったのがゲームセンター。普段見掛けることのなかった長野がなぜかあの日だけはそこにいた。それらの行為に裏があるなど考えてもみなかった。長野は全て、偶然でなく狙って待ち伏せていたということか。

「な、なんでそんなこと……」

「私はずっと気になっていたの。あなたと目が合ったあの瞬間から、ずっと」

 長野の言葉と同時に一つの光景がやって来る。

 教室の対角線上から細い目でじっとこちらを見詰めていた長野の姿。そして、その長い黒髪。なぜかいつまでも記憶に残っているあの光景。長野が言っているのはあの時のことに他ならなかった。

 しかし分からない。果たして俺の何が気になったと言うのか。俺に興味を惹く要素などあるか。いや、あるはずはない。

「あなたの中には化け物がいる。それをあなたは飼い慣らせていない。あの時私はそう直感したわ。それを確かめるためにあなたへの接触を続けた」

 唐突に、俺のモヤモヤをよそに、長野は意味の伝わりづらい言葉を発した。

 化け物。彼女は何かをそう表現した。

「い、いったい、どういうこと……?」

 冷ややかな声を聞いている内に血の沸騰を冷却することに成功した心身が、また少しずつざわついてくる。一つ呼吸を挟んで、長野は涼やかに宣言した。

「私は、あなたの考えを知りたかった。あなたの内に潜んでいるもの、それは果たして私の想像と合致しているのかどうか……そして今確信したわ。この想像は、きっと正しい」

 その言葉は独特の回りくどさを伴っている。そのためか、混濁した頭ではどうにも真意を汲み取りづらい。

 何かあるのなら教えて欲しかった。わざわざこんなところまで訪れている以上、彼女にとって重要な何かがあるのだろう。過負荷により固まる頭ではもう何も考えられない。早く教えて欲しい。

「三島くん」

 ここにいる理由や互いの尾行に関する一切はもう関心の外といったように、長野は言葉を発した。

「どう。スッキリしたんじゃない?」

「え……?」

 長野の発した問いは、視界の外から曲がり落ちてくるブレーキングボールのようだった。

「ありったけの力で全身を殴打され、かと思えばありったけの力で大切なものを滅茶苦茶にした。それはいわゆる力の解放だわ。とても気持ちの良いものではないかしら?」

 まるでパンチングマシーンを体験した後の感想を聞くかのように長野は言った。その顔はニコリともしていない。普段通り、あくまで淡々としたものだった。

「……まだイマイチ、ピンと来ていないといった顔ね」

 長野は俺の心情をピタリ言い当ててきた。

 その通りだ。スッキリしたかどうかなど、そんなこと分かるはずもない。

 そもそも、今の口振りだと恐らく長野はこの日俺の行動を監視し、あまつさえ家の中を覗くか音を聞くかしていたであろうことが分かる。しかし、それについて異議を申し立てる気にはならない。今はただ、自分の中に疲労感と共に残り続ける胸のつっかえのような感情を制御するので精一杯だ。

「三島くんが今日やったことは、疑いの余地なく正しいものだわ。それで良いのよ。イライラすることがあったらスッキリする必要があるの。これこそが私があなたに伝えたかったことよ。あなたはたった今、それを実践してみせた」

 伝えたかったこと。長野は今、そう言った。

 あの日のゲームセンターの情景が思い出される。イライラした時には感情を出すべきだ――彼女が行動で示したメッセージは今でも脳裏に焼きついている。それは奇しくも、俺がされたこと、俺がしたことと全く同じことだった。

「感情を行動で示せば自ずと冷静になれるものよ。そして新たな気持ちで新たな一歩を踏み出すことが出来る。何よりも、感情に異常をきたした時には心の中で圧迫させないことが大切なの」

 長野はこれまで交わしてきたどの会話よりも饒舌だった。月を見上げる彼女の長い髪と長い睫毛が月光に照らされる。ここはほとんど家の前だというのに、まるで幻想的な空間にいるかのような感覚がもたらされた。

「そう。あなたは今日、自らを覆う厚い殻を破ったの。だから自信を持って良いわ。次第に感覚を掴めてくるはずだから、そんな浮かない顔はしなくて良いのよ」

「えっ……」

 認識がなかった。長野によると、俺はどうやら浮かない顔をしているようだった。

「そんな顔、してるかな……」

「ええ、しているわ。少なくとも私から見る限りではね」

「そ、そうなんだ……」

 浮かない顔、というのは正しいのだろう。今の気持ちは沈んでいるわけではないが浮かれているわけでもない。かつてないほど混沌としている。そんな時にする表情ならば『浮かない顔』という表現でも問題ないはずだ。

 しかし、それとは関係ないところでの驚きがあった。長野が他人の表情を読み取っている。

 あの長野がこちらの内面に踏み込んでくるなど、予想だにしないものだ。こんな時間に、こんな場所に現れているところからして、今、目の前にいる長野は明らかに普段とどこか様子が違う。

「……何か疑問に思っていることがあるなら、聞くわ」

 更に長野は不気味にもこれまででは考えられない会話を受ける姿勢を見せたが、俺の頭は疑問を言語化する段階にすら至っていない。脳内で必死に適切な言葉を組み上げようと試行錯誤を繰り返すばかりだ。

 しかし、脳が戸惑いを見せるその一方で、一つの直感があった。この長野こそ、俺が話してみたかった長野だ。

「……僕は、不思議だ」

 まず一言、何とか絞り出すことに成功した。これで錆は取れた。後に続けとばかりにどんどん抽出していく。

「その、不思議っていうのは……長野さんは、なんであんなことが出来るのか、って……」

「不思議、って。それこそ不思議なことを聞くのね。さっき三島くんが見せてくれたことこそが、まさしくそれよ。イライラの発散を可能としている理由なんてもう三島くんは分かっているのではないかしら」

「そ、それが……分からないんだ……」

「なぜ」

「……僕には、なんていうかその……残ってない」

 能力の低い頭脳がようやく出力してくれた単語は、意味の伝わりづらいものかも知れない。

 しかし、残っていないのは本当だった。

 長野が『スッキリ』という言葉で表現した解放後の余韻。言うなれば満足感のようなものなのだろう。それが今、俺には残っていない。今まさにイライラの解放を行ったばかりだというのに。

 俺の中にあるのは、罪悪感だけだった。

 脇目も振らずに家を出たあの瞬間、莉子や母さんの悲鳴のような声はハッキリと耳に届いた。その声は俺が二人を傷つけた証だ。そして、今頃家では散らかされた物品の後片づけが行われているかも知れない。それらを思うとどうしてもやり切れなかった。

「そう。三島くんはまだ完全にこの快感を掌握出来ていないようね」

 長野はゆっくりと俺に近づき、あっさりと懐へ侵入した。

 そこからおもむろに、その細く長い指で俺のボコボコになった輪郭をなぞった。無駄や力みのない、艶めかしささえ感じる挙動。震えることすら出来ずにただ息を呑む。

「良い、三島くん。この行為はもはや義務。必ずしなければならないことなの。この思いを偽っていては……いつか壊れてしまうわ」

 感触があるのかないのか曖昧な強さでなぞっていた指先を、まるで液体をすくうように顔から引く。それと同時にその凛とした瞳を俺のそれにピタリと合わせ、長野はゆっくりと口を開いた。

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