爆発
それからどれほどの時が経ったか分からない。地に伏して随分と時間が過ぎたような感覚があったが、実はそれほどでもないのかも知れない。とにかく痛みが癒えたので、自宅へと引き返すことにした。
正直なところ、きっとアザだらけであろうこの顔を莉子や母さんには見られたくない。別に心配させたくない、というわけではない。きっとあの二人は必要以上に気に掛けて、あれこれ訊ねてくるに違いないのだ。
しかし、もはや限界まで空いた腹は俺のウジウジした心を置き去りにして家へ向かおうとする。ことここへ至っても本能というものが素直に働くことに思わず薄ら笑いを浮かべてしまう。いつでも正直な欲求に俺は黙って従うだけだった。
帰路で目にする夜の光は、これまでと様相が違った。どの光も少し抽象的な気がした。それはきっと、目がちゃんと開かずにぼやけた景色が映っているからだろう。街自体は今夜も活気に満ちているようだった。
その雰囲気はどこか安らぎをくれる。この賑やかな街の中に、もしかしたら俺のようにはぐれてしまった者がいるかも知れないと思うと心が落ち着く。そう、きっと俺だけじゃないだろう。こんなに苦しいのは。
やがて街は背後へと回り、その代わりに我が家の姿が見えてくる。その佇まいは、懐かしささえ感じられた。
慣れた手つきで玄関にあがる。もう何百何千と行ってきた行為だ。そして、その瞬間に騒々しい足音が聞こえてくるのも耳に馴染んだものだった。
ただ帰って来ただけではここまで慌てない。こうなるのは常に、何かを悟られた時だけだ。この肉親の察しの良さは本当に謎だと思う。
「ちょ、虎太郎……アンタ……どうしたのその顔……!」
真の焦りがヒシヒシと伝わってくる声と共に、目の前に母さんの顔が現れた。かすんだ目でもそれはハッキリと分かる。
「大変……早くあがんなさい、ソファーに横になって!」
そのまま母さんは俺を担ぎ上げリビングへと直行した。高校生の男子が母とはいえまだ比較的年の若い女性に担がれているなど端から見たら何とも情けない姿に映るだろう。それに俺の体はただ腹が減っているだけで普通に動く状態でもある。
だが俺は素直にされるがままになった。どうせ家の中だ。誰も見ていない。普段は考えられない、甘えたい気持ちが今はあったのだ。
「一体何が起きたらこんなことになるのよ、まったくもう……」
愚痴っぽく呟きながらも、その手際はさすがの一言だった。いつの間に取り出したのか、消毒液を患部に掛ける。
「痛った……!」
その染みようは想像を絶するものだった。電気が通ったように全身に痺れが走る。
「痛いのは当然よ。我慢なさい」
慣れた手つきで患部にガーゼを被せていく。たちどころに顔面全体が異物に覆われた。
「さて、と……一体何があったの?」
母さんが声色を変えた。まっすぐにこちらを見据えているのが分かる。
「……別に、なんでも」
「アンタ、こんなすごいアザがなんでもないことあるわけないでしょ。階段から転げ落ちたってこうはならないわよ」
母さんは憤怒と憐れみが混じったような、感情の正体がどれなのか良く分からない色で声を発する。
言いたくない。率直にそう思った。ゲームセンターで暴漢に襲撃されたなどと正直に打ち明けるのははばかられる。相手が台風のように現れ、こちらは完全なる被害者であるというのならばまだ教えても良い。
しかし今回の件は、相手が台風のように現れたのはその通りだとしても、その原因はこちらにある。そんなことを報告出来るはずもなかった。
ましてやその遠因である儀我とのことなど、絶対に触れられたくない。適当に応対していてはいずれそこに当たる可能性がある。かといって都合良く言い訳など閃かない。だから俺はだんまりを決め込むことにした。
母さんは黙って俺を見詰め続ける。無言の圧力を掛けてくる。
「……教えなさい」
圧力は声に変わる。教えてやるもんか。俯いて無言を貫く。
「言いなさい」
黙る。黙り続ける。
やがて母さんも何も言わなくなった。沈黙の時間が続く。永遠にも感じるこの時間。
「……分かったわ」
しかし、やがて観念したように母さんは溜め息をついた。肩をすくめて言葉を続ける。
「アンタにもいろいろあるんでしょう。思春期だしね」
別に何もねえよ――と危うく言葉として表に出してしまいそうだったが、また話がこじれるので辛うじて止めた。
「でもね虎太郎。こんな体になるのを母さんは黙って見てられないの。もうこんな風にならないって、それだけ誓って?」
母さんは、慈しみの感情を前面に押し出してそう言った。
「……大丈夫だよ。これはレアなことだから心配いらないって」
俺は曲がった背を心で伸ばして答えた。儀我は今のところ肉体的な仕打ちはしてこない。今回のような件を今後回避するには、俺がいたずらに相手を煽るようなことをしなければ良いだけだ。
それに、どうしようもなければゲームは辞めてやっても良い。イライラしか生み出さないゲームなんだ。続けていたら心に毒だ。そう、こうなるくらいなら辞めた方がマシだ。
大好きなゲームだったけど。
「……そう。分かったわ」
母さんは、納得してくれたようだった。何も聞かない母さんの気持ちが、消毒液と共に傷口へと染みるようだった。
「あれ、おにーちゃん帰ってきてたの」
安堵の気持ちが心を覆い尽くそうとしたその時、無邪気さをそのまま形にしたような声が静まり返ったリビングに響く。莉子が自室から現れたようだった。
リビングのドアに立つ莉子と目が合う。その瞬間、表情がにわかにひきつっていくのが分かった。
「……ど、どうしたのそのカオ!?」
大袈裟にうろたえながら駆け寄ってくる。その勢いに思わず後ずさった。今患部に触れられると絶対に痛い。
「お、お前、絶対に触るなよ……うっかりタッチとかやったら許さねーぞ……」
「おにーちゃん、なんでそんなことに……」
莉子の声にはリビングに入ってきた時の元気がない。俺の必死のからかいにも無反応だ。雰囲気が随分としおらしい。
意外だった。普段は調子良く攻め立ててくる妹がこんなにも落ち込むとは。それほど今の俺の姿がおぞましいのか。それとも日常では全く感じられないきょうだい愛というやつか。だとすれば、怪我のひとつでもした甲斐があるというものかも知れない。痛いことは間違いないが。
莉子は黙り込んでしまった。再び訪れる無音の空白。
この静寂に乗じてこのまま部屋に戻って一人になれば落ち着けそうな気がしてきた。ゆっくりと傷を癒し、今日の行いについて振り返ってみるのも良いかも知れない。
「……莉子、どうしたの?」
しかしそれは実行には移せなかった。母さんの声で、ようやく俺も異変に気づいた。
莉子は小刻みに震えていた。その俯き加減から表情は見えないが、唇を引き締めているのが分かった。
瞬間、莉子はキッと顔を上げた。数滴の雫が飛散するのが見えた。
「分かった……アイツらでしょ。絶対アイツらのしわざだ!」
唐突に言い放った言葉は、すぐには理解出来なかった。
「ど、どうした……落ち着けよ」
辛うじて言葉を絞り出す。莉子の言う『アイツら』について該当する人物を脳内でクローズアップするが、咄嗟に思いつくのは俺を追い込んでいるあの連中くらいしかいない。
「あたし見たんだよ……あのヤンキー連中がおにーちゃんをパシリにしてるところ」
その言葉を聞いた瞬間、呼吸が止まった。
反射的に母さんの顔色をうかがう。母さんはまだ話の要点が掴めていないようだった。
しかし俺には分かった。莉子は儀我達がこの傷を作ったと思い込んでいるのだ。それは違う。俺の中に鎮座している根本的な原因はあえて見ない。とにかく今、この状況は否定が求められる。少々苦しくても否定していかなければならない。
「ち、違うんだ莉子。何を見たかは知らんが、あれは別にパシリとかそういうんじゃなくてだな。それにこの傷は連中とは別で……」
「ちがくないよ!」
俺の言葉が終了するのを待たず、莉子は手にしていた参考書を激しく床に叩きつけた。
「全然ちがくないよ……アイツらがおにーちゃんをいじめてることぐらい、アイツらが隠してるつもりでもあたしには分かるんだからっ!」
莉子はハッキリと口に出した。
言い放った。明確に『いじめ』と。
今度こそ母さんは、顔色を変えた。
「虎太郎、あんた、やっぱりいじめに遭ってるの……?」
その単語は言わないでいて欲しかった。
自覚はあった。しかしこれまでは、誰とも話をすることはなかったから自分の中で適当に理由をつけて耐えられた。
しかし、今、俺は他人から事実を明示されてしまった。
火でも点けられたように顔が熱い。こんな感覚になるなど、知らなかった。
「アイツらおにーちゃんが何も言わないからっていいようにこき使って……あたしずっと気にしてたんだよ」
莉子の目からは数滴どころではない液体が流れ落ちていた。
「落ち着けよ……そんなオオゲサなもんじゃないって……」
「違うよ。オオゲサなもんだよ。おにーちゃんあんなに辛そうにしてたんだもん。自分が辛かったら、誰がなんて思っててもそれはいじめなんだよ!」
「だから違うって……」
「ちがわない!」
「そう言えば、アンタまさか……」
母さんがきょうだいの不毛なやり取りを遮る。その目は何かを察したような鋭さを持っていた。
「私の財布からお金が減ってたの、アンタじゃないでしょうね」
心臓の鼓動がスピードを上げる。母さんは容赦のない視線を俺に浴びせ続ける。
「ち、違うし……」
「本当?」
「しつけえな……」
「虎太郎。私達家族なんだよ。家族相手に隠し事してどうすんの」
「だから、違うって……」
声は次第に震えていく。母の第六感から逃げ切れるはずもない。もう恐らく自白を待っているだけだろう。
「アイツらがおにーちゃんをせびったんだ。もう犯罪だよ、立派な犯罪!」
「まてまて、勝手に決めつけんなよ……」
「そうじゃなかったらなんだっていうのよ!」
莉子のボルテージは最高潮になっている。
無念。その感情だけが俺の中にあった。
俺が必死にいじめはないと自己を肯定しても、周りがそう思っていないのであればそれはただの徒労でしかない。これ以上の無念は、ない。
それに、実際の問題として金はその名目で使い込まれたのだ。俺のみぞ知るこの秘密は決して明かしたくない。
体が震える。今まで生きてきた中で一番の震えだった。拳を握っても振り上げる先がない。それでも、この無念を、怨念を、叩きつけたい衝動に駆られる。
やがて莉子は、これまでで一番大きな、まるで悲鳴のような大声で俺の耳を突き刺した。
「大体、おにーちゃんもおにーちゃんだよ! あんなヤツらの言うことなんか聞かないでテキトーにやっつけちゃえばいいのに!」
その時、俺の心は信じられないほど沸騰し。
次の瞬間にはもう思考することが出来なくなっていた。
簡単に言うな。
そんなことが出来ればとうにやっている。
簡単な問題だと思うな――外野のクセに。
「うっせーよ!!!!」
リビングの机が激しい音を立てて浮き上がる。どうやらそれは俺が蹴り上げたものらしい。瞬間の光景は、やたらスローモーションに感じた。
「きゃっ――!」
「ちょっとアンタ……!」
莉子と母さんの悲鳴が聞こえる。しかし、そんなことはどうでも良かった。
「黙れよ……黙れよ、どいつもこいつもさあ!」
体の痛みも関係なく、沸き上がる衝動を抑えられず、リビングの装飾品をただ投げ飛ばし、ただ蹴り飛ばし、ただ無心で荒らした。
莉子と母さんが顔を引きつらせる。だが、もはやそれに気を向けることもしない。
払う。蹴る。投げる。
荒らすだけ荒らして、リビングを飛び出した。
「ちょっ……待ちなさい、虎太郎!」
「おにーちゃん!」
母さんの気丈な声と莉子の泣き声が耳に入る。それでも俺は止まらなかった。家を飛び出て、どこに向かうでもなく駆け出す。
しかし、その歩みは強引に止められた。




