第三話 ……月へ行った娘は、どうなった
王の生誕祭。
大広間には、国じゅうの貴族が集まっていた。
黄金の柱。噴水。楽師。
そして玉座の右手、当然のような顔で立つダルウィーシュ卿と、真珠を飾ったザイナブ様。
「百夜も生き延びた花嫁がいると聞いた」
「余興に、その物語とやらを聞かせてもらおうではないか」
嘲笑がさざなみのように広がると、ザイナブ様が扇の陰で笑った。
私は広間の中央に進み出て、深く礼をした。
「では——遠い国の、王妃さまのお話を」
私は静かに語り始めた。
あるところに、賢い王妃がいた。
王妃は帳簿を読むのが好きだった。
ある日、王妃は気づいた。
国庫の金が、塩坑と隊商路を通って、ひとりの男の蔵に流れこんでいることに。
王妃は王に手紙を書くと、その三日後には姦通の罪で殺された。
広間から、ざわめきが消えた。
男は、王に香を贈った。
夜ごと記憶を焼く香と一緒に、男は王の耳もとで言葉を。
「妻は必ず裏切る」と。
王は夜を失い、朝ごとに憎しみだけを拾って生きるようになった。
そして男は、王に花嫁を娶らせ続けた。
国じゅうの名家の娘が、ひとりずつ消えていった。
最後にひとりだけ、娘が残るように。
——ただ一人。男の、娘だけが。
「でたらめを!」
叫んだのはダルウィーシュ卿だった。
「衛兵、この女を——」
「まだ終わっておりません」
私は袖から羊皮紙を取り出し、掲げた。
「これは香の仕入れ帳の写し。三年分、ひと月も欠けることなく。注文者の署名は——ザイナブ様。そして届け先は、すべて陛下の寝所」
広間がざわついた。
「受け取ったのは、毎夜香を焚いていたダルウィーシュ卿付きの小姓です」
「そんなはずないわ!」
今度こそ、ざわめきが爆ぜると、ザイナブ様の声が高く裏返った。
「あの帳簿も書簡も、記録庫ごと焼いたのよ!灰になったはずでしょう!」
——誰も、何も言わなかった。
私は、ゆっくり微笑んだ。
前世で読んだどの本にも書いてあったのを思い出す。
悪役は、いつも自分で喋る。
「ザイナブ様。わたくし、記録庫が焼けたなどと、ひと言も申し上げておりませんが」
彼女の顔から、色という色が抜けていく。
真珠の飾りが、かちかちと鳴っていた。
「陛下。今夜、香を断たせてくださいませ。そうすれば、あなたはご自分の三年を、ご自分で取り戻せます」
私は玉座を振り返った。
「……嘘か真か、わたくしではなく、あなたご自身に裁いていただきたいのです」
王は動かないまま、灰の目が私を見ると立ち上がった。
「その物語の続きは」
「あなたが決めてくださいませ」
「——香を、断て」
三年分が戻ってくる夜は、ひどいものだった。
王は寝台の上でうずくまり、震え、噛み殺した声で呻き続けた。
彼はそれを、ひとつも忘れなかった。
ライラー様の名前を何度も呼び、九百九十九人の名前もひとつずつ思い出しているようだった。
私は一晩じゅう、その手を握っていた。
握り返す力が、少しずつ人間のものになっていくと、夜が明けるころ王は掠れた声で言った。
「……月へ行った娘は、どうなった」
私は泣きながら笑ってしまった。
「覚えてらしたんですか」
「一夜目から、全部だ」
「月まで、覚えてたんですね」
「百夜分、全部だ。桃から子どもが出てきた夜も」
「そこまで覚えなくていいです」
王の口元が、ほんの少し緩んだ。
ダルウィーシュ卿は、国庫横領と王妃殺害、そして王への毒香投与の罪で裁かれた。
全財産は没収、爵位は剥奪。
そして——彼が私腹を肥やすために人を使い潰し続けた、西方の塩坑へ。
死ぬまで、そこで働くことになった。
自分が搾り取った鉱で、自分が塩を掘るのだ。
彼は最後まで叫んでいたけれど、誰も聞いていなかった。
ザイナブ様は貴族籍を失い、宮廷を追われた。
彼女の処遇を、王は私に決めさせた。
「殺しません。あの方には、記録庫に入っていただきます」
焼かれた記録は、写しや断片から復元しなければならない。
その膨大な作業を、彼女には生涯をかけてそれをやってもらう。
自分が灰にしたものを、一文字ずつ、手で書き戻してもらう。
真珠の飾りも、孔雀羽の扇もない部屋で。
連行されるとき、彼女は私を睨んで言った。
「……なぜ殺さないの」
「殺したら、忘れられてしまうでしょう。あなたには覚えていてほしいんです。あなたが消そうとした名前を、ぜんぶ。九百九十九人分、書き写しながら」
私が微笑んで見せると、彼女はそこで初めて泣いた。
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