第5話 怖いのはつらいから1
「にゃん…」
きっと登って降りられなくなったんだ。
一人であんな高い所にいて不安そう。
心細くてずっと助けを求めてたのかな。
怖いよね。
少しでも早く安心させてあげたい。
周りには…誰もいない。
今助けられるのは私だけ。
私がやらなきゃ!
今日はスカートじゃなくてパンツでよかった。これなら体を動かせる。
「今行くからね」
木登りの仕方も小学生の時に大樹が教えてくれた。大樹が言ったことを思い出せ。
あの時は教わっても結局できなかったけど、今ならできる。絶対にできる。
木を抱きかかえて、飛びついて足で挟んで、登って、手を移す。
木が手に食い込んで痛い。
手を移して、足を移して、登って。
手を移して、足を移して、登って。
「思ったより待たせちゃうかもしれない」
何度も繰り返しながら、大樹が教えてくれたことを何度も何度も強く思い出す。
手を移して、足を移して、登って。
足が滑る!! 耐えたけど、親指が切れた。痛い。
「もう少しかかるけど、ちゃんと行くからね」
手を移して、足を移して、登って。
切れた傷口が開いた。
「うぅ…」
あの子、震えてる…
猫に近づいてきたから、それが見えるようになった。
「大丈夫、待っててね」
手を移して、足を移して、登って。
「あと少しだからね」
私が枝に立ったりした時の揺れは子猫にとってはすごく大きいだろうから、怖がらせないようにしっかり高く登って、静かに移ろう。
ここまで登れば大丈夫だよね。
そっと枝に足を置いて、揺らさないように座る。
「おいで」
そう、そうやって警戒しながら、ゆっくりでいいんだよ。
私の膝のにおいを嗅いだり、手で軽く触ったりしてる。
この子に安心してほしいから、やさしく話そう。
「大丈夫だよ。おいで」
それが通じたのかな、まだゆっくりだけど、私の膝に乗ってくる。
「おいで」
まずは安心できるように、このまま枝の上でなでなでしよう。
「触るよ」
利き手は血が止まらないから、反対の手で撫でる。
手を、猫に見える位置でゆっくり動かしていけば、触っても驚かせないはず。
「なでなで。よしよし」
風の揺れも大きいな。
「怖かったね」
あ、私の膝に身を預けてくれそう。落ち着いてきたみたい。
よく見たら私、片膝の内側からも血が出てる。
痛いと思ってたけど、血が出てるとは思わなかった。
こんなに高いんだ。実際に登ると、下から見た時よりずっと高く感じるし、地面に置いてきたバッグもすごく小さく思える。
自分から登った私でも地面までが遠くて不安になるんだから、間違って登って一人でいたこの子はすごく不安だったろうな。
「そろそろ降りよっか」
血は止まらないけどこの木なら滑らない。
だから、怪我が痛むだけだから我慢すれば降りられる。
「あ…」
どうやって降りればいいんだろう…
猫を抱っこして片手が塞がったんじゃ、降りられない。
本当にばかだ。どうして最初に気づかなかったの…
病気の衝動性が出たんだろうけど、自尊心が傷つく。
スマホは地面にあるバッグの中。
なくさないようにバッグに入れる癖をつけたのが裏目に出た。
それだって注意欠陥があるせいだから、つくづく自分が嫌になる。
「どうしよう…」
大樹だったら片手でも降りられるんだろうな。
人が通りかかったら、事情を話してスマホを操作してもらうしかないよね。
そういえば!
あった!
拓実と円から連絡が来て、返そうとしてる時にこの子を見つけたから、咄嗟にポケットに入れたんだった。
よかった、これで大樹を呼べる。
「今お迎えを呼ぶね」
*
この子は今も、心の奥底では助からないと思ってる。
大樹は急いでくれてるけど、それでも、ただ待ってるだけだと長く感じるから、この子が不安を感じる時間はきっと長い。
だから少しでも不安が和らぐように、たまになでなでしてあげないと。
まるで走ってるみたいなリズムのカチャカチャっていう音が聞こえる。
来てくれたのかな?
大樹だ。
呼びかけそうになったけど、猫を驚かせちゃうかもしれないから、声は出さないで手を振るだけにしよう。
「お迎えが来たよ」
*
大樹が持ってきた脚立は、伸ばしてはしごにすれば私たちがいる枝までなんとか届く。
「俺が押さえてるから安心して移ってくれ」
切れた傷口は全然血が止まらないから、まずは服でしっかり拭く。
「抱っこするよ」
猫にそう声をかけて、両手で持ち上げて、胸に抱いて片手でしっかり包む。ちょっと血がついちゃうね。
血で手が滑らないように、もう一度手を拭く。
「よし」
そうしたら座ったまま片方の手で脚立を掴んで、片足を掛けて、勢いをつけて脚立に移る。
手と膝が痛むけど『痛いだけだから我慢すればいい』。
大樹は背が高くて力もあるけど、どうしても揺れてしまう。
けど、押さえてるのが大樹だから揺れたって大丈夫って信じられる。
怖くない。
よし、上手く移れた。
このまま確実に、一段一段降りていけばいい。
動くたびに手と膝が痛むけど『痛いだけだから我慢すれば降りられる』。
気を取られないで、集中して、確実に、確実に。
地面だ。
いつもの地面を足で感じたら、すごく安心した。
けど今はそれに浸るよりも先に、この子に安心してほしい。
最後に猫が私から落ちて怪我しないように、低くしゃがまないと。
『痛いだけだから我慢すればいい』。これで最後だ。
猫も地面に着くまで大人しくしてるみたい。
じゃあやさしく降ろしてあげよう。
「うぅ」
立ち上がると怪我が痛む…
猫が向き直って私を見上げてる。
「よかったね。バイバイ」
これ以上この子に関わるのは、きっと良くない。だからバイバイ。
「もう行きな」
軽く『しっしっ』ってしたら、どこかに走っていった。
「大樹、迷惑かけてごめん」
「今はこさよの病院が先だ。タクシー呼ぶからそこのベンチに座ってろ」
「それは悪いよ、一人で行けるから大樹は先に帰って」
「ベンチまで歩けるか?」
「うん…いたっ!」
膝を動かすだけで痛む。
「ゆっくり行こう」
そう言いながら、怪我してない方の腕を持って、私に合わせて一緒にベンチまで付き添ってくれる。
「もう大丈夫だよ。病院は私一人で行ける」
大樹は何も返してくれない。
「指の応急手当てはこれが限界だ」
「そんなことないよ、本当にありがとう…」
大樹がカット綿を切れた親指につけてくれたお陰で、血が垂れるのは防げそうだ。これでタクシーや病院で血をつけないで済む。
「これも持ってろ」
血があふれたら吸えるようにってことだろうけど、大樹のタオルは借りられない。
「自分のがあるから大丈夫」
「いいから持ってろ。タクシーが来るまでに膝も終わらせたい」
有無を言わせない感じでそう言いながら、私のパンツの裾を捲り上げた。
けど、私の怪我が痛まないように、すごく慎重に丁寧に上げてるのが伝わってくる。
私はうつむいてるから、手当てする大樹がよく見える。
すごく真剣…
「よし、できたぞ。タクシーも来たみたいだな」
「ごめん」
ミスと怪我と、何より大樹に迷惑かけて、本当に落ち込むな…




