第6話 怖いのはつらいから2
「中野森クリニックに向かってください」
「中野森クリニックですね」
あの時みたい。
中野森クリニックのことをさっきみたいに思い出すことは多いけど、行くのはあの時以来か。
公園に置いていく脚立が遠ざかっていく。
『さすがに盗まれないだろ』って大樹は言ってたけど、もし盗まれたらちゃんと弁償するからね。
私もあんな血だらけの脚立を盗む人がいるとは思ってないけど。
「すみません、電話で予約したいんですけど、できるでしょうか?」
そっか、予約まで気が回ってなかった。
診察受付時間には間に合いそうだけど、予約した方が確実だし、何より慌てなくて済む。
「指と膝を切ってしまって、血が止まらないんです。…いえ、初めてではないんですが、前回診てもらったのは九年前でして。…はい、患者の名前は阿羽こさよで、僕は代理です」
私のことなのに、大樹の方がしっかりしてる。
今だって、結局血が止まらなくて、大樹が貸してくれたタオルを使ってる。
「…本当にありがとうございます。失礼します。こさよ、この時間だから順番は変わらないけど予約は取れたし、今回だけは診察受付時間を少しなら過ぎても診てもらえることになった」
「大樹が予約してくれて安心した。ありがとう」
あの時から私は成長してないな…
*
中野森クリニックだ。
「支払いがあるからゆっくり降りていいからな。先に入って座っててくれ」
「ありがとう」
バッグも大樹が持ってくれてるから負担は少ない。
受付の看護師さんと目が合ったけど、会釈だけして椅子に座らせてもらおう。
「予約している阿羽です」
「阿羽さんですね、今日は指と膝でしたね?」
受付の看護師さんが話してるのは大樹だけど、当然私を見ながら話が進む。
「はい」
「マイナンバーカードか資格確認書はお持ちですか?」
あ、バッグの中だ。
「どうする? 俺が出すか?」
片手は切れてるから、大樹にお願いしようかな。
「お願いしていい? 中のファスナーがついたポケットに入ってる」
「わかった」
信頼してるから、大樹にだったらバッグを預けられるよ。
バッグの中!?
「待って!!」
「どうした?」
「やっぱり自分で出す」
「そうか」
大樹は私のミスが原因で脚立と救急箱を持って走って来て、手当てして、病院の付き添いまでしてるんだから、今さらかもしれない。
血も止まらないのにこんなこと考えてたら、それこそ大樹に呆れられるかもしれない。
でもね、大樹にだけはあんなぐちゃぐちゃな中身を見られたくないの。
うぅ、どうしたら大樹に中を見られないで済むかな。
あ、膝の上に置いて、頭で隠せばいいかも。
あった。無事にお財布を出せた。
「……」
大樹? あ、そうか、資格確認書。
お財布の中身こそ片手じゃ出せないや。
「ごめん、開けてもらっていい?」
「わかった」
「待って!!」
「ん?」
お財布の中もぐちゃぐちゃだったんだ。
「自分で出せるから大丈夫」
「そうか?」
お財布をバッグの陰に隠せば大樹からは見えないよね?
それで膝の上に乗るから、片手でも資格確認書を出せる。
大樹は…問診表を書いてる。
私のために書いてくれてるのに、それに隠れて何をやってるんだ。
「大樹、これ」
「ああ、渡してくる」
同じミスを繰り返す自分が嫌になる。
大樹は気に留めてないみたいだけど。
「渡すのが遅くなってすみません」
「いえ、大丈夫ですよ」
大樹に謝らせちゃった。ごめん…
*
「ふう」
自分のベッドに座ったら、すごく気が抜けた。
病院では、看護師さんが見かねたのか順番を先にしてくれた。
先生もすごく丁寧に診てくれて感謝してるけど、他の患者たちには申し訳なく思う。
帰りも大樹がタクシーを呼んでくれて、この足で歩くのはつらいからありがたかった。
家に着いたらすぐお母さんにお金をもらって、大樹に返した。大樹は受け取りたがらなかったけど。
それを見ていた愛菜から、いつもの柔らかい感じで何の気なしに『あはは、お姉ちゃんらしいね』なんて言われてしまった。
大樹にしたら今さらなんだろうけど、大樹の前で言われてなおさら落ち込んでる。
そもそも病院のお金を持ってなかったことに今気づいた。
病院も薬局も大樹が代わりに払ってくれたから問題にならなかったけど、気づかなかったこともショックだ。
大樹は私の部屋まで付き添ってくれて、私に合わせてゆっくり歩いてくれたし、階段でも下で構えてくれていた。
階段から落ちることはないだろうし手すりだってあるけど、大樹がいてくれることは心強かった。
それで、今は部屋に二人きり。
「お疲れ様」
「大樹、迷惑かけてごめんね」
大樹は私を気遣って話しかけてくれたのに、ついうつむいたまま言葉を返してしまった。
「…こさよが猫を助けたんだよ」
「でも私一人じゃ何もできなかった」
「それは誰にだって言えることだろ?」
「どういうこと?」
あ、大樹が笑ってる。
「落ち込む必要はないって言ってるんだよ」
「わからない…」
「あの木は誰だって猫を抱えては降りられない。だから猫を助けるにははしごを押さえる人が必要だった」
「大樹でも?」
「ああ。抱えるのがバッグだったら片手で降りられるかもしれないけど、猫を助けるにははしごが必要だよ」
そうなんだ。私は大樹はなんでもできるって思い込んでたみたい。
けど。
「ごめん、でもそうじゃないの」
「そうだよな」
私の怪我してない方の腕に、大樹はそっと触れてくれた。
「あの子が怖いのはつらいから早く楽になってほしいって思ったら、あの、周りが見えなくなって、えっと…」
うぅ、『衝動性』って大樹の前で言いたくないけど、良い言い方が思いつかない。
「こさよ、それ以上は言わなくていい」
「ありがとう…」
私が言いよどむ理由をわかって、また私が傷つかないようにしてくれる。
今だって、私の前にしゃがんだままで、私のために話してくれてる。
迷惑をかけたばっかりなのに、大樹はそうしてくれる。
ありがたい分、そんな大樹に迷惑かけたことが申し訳ない。
「こさよ自身が納得できないのはわかってるけどな、こさよが早く行ったから、がんばったから、あの猫は安心していられたんだ。それは大事なことだよ」
「でも大樹に迷惑かけたことには変わりないよ」
「猫を助けるなら俺だって手伝いたいから、力になれてよかったって思ってる」
「もっと冷静に考えられればよかった」
冷静に考えられる私だったらよかった。
「そう…だな」
大樹が少し悲しそうな笑顔をしてる。
「私は成長してないんだね」
学習もしてない。
「すごくしてるぞ」
「…ごめん、私はどうしてもそんな風に思えないの」
「わかってる」
「ごめんね…」
「こさよは木登りだってできるようになった。一生懸命さが猫に届いて、安心させられて、助けられた。それは立派な成長だよ」
「うん…」
「いつまでもその服でいるのもなんだな」
そういえば血だらけだったんだ。
クローゼットに部屋着がある。
「部屋着ならゆとりがあっていいと思う」
「こさよさえよければ俺が出すぞ」
「お願い」
「ここだな」
!! 私は何度同じミスをするんだ。
「待って!!」
「ああ」
「やっぱり自分で出す」
「わかった」
大樹は扉から手を離してくれた。よかった。
扉がほんの少し引かれただけだから、中は見えてないよね? 大丈夫そうだ。
足が痛いからゆっくりしか歩けない。
大樹は道を空けて、今は私を見守ってる。
「その、後ろ向いてて?」
「デリカシーがなかったな」
「そんなことないよ。大樹が気遣ってくれて、本当にうれしいんだから」
「いや女子に無神経だったろ」
「ううん、本当に私がいけないの」
部屋は毎朝大樹に見られてもいいようにきれいにしてるけど、クローゼットの中もぐちゃぐちゃなんだ。
こんな散らかったクローゼットを見て幻滅されたくない。
私になんて興味ないのはわかってるけど、大樹にだけは見られたくないの。
…『女子に』? 大樹は私を女子って見てるってこと?
何を期待してるんだ、ただ女子ってだけで、女と見てるわけじゃない。
はあ…
*
「はあ…」
衝動性で失敗して、怪我して、大樹に迷惑かけて、注意欠陥で何度も同じミスをして、本当に何をやってるんだ。
また病気の特性を大樹に見せちゃった。
落ち込むし、傷つく。
何よりやっぱり大樹に申し訳ない。
大樹は全力で私を助けようとしてくれたのに、感謝より罪悪感が先に来る。
「はあ…」
大樹はああ言ってくれたけど、失敗したことが気になってばっかり。
猫を助けられてよかった。安心した。うれしかった。
けど自分を褒められはしないし、すごいことをしたとも思えない。
私が失敗したのは事実。
せっかく人が、それも大樹が私を気遣ってくれたけど、私がだめだから気を遣わせるし、迷惑をかけるんだ。
そういえば、円は前に『好きな人と今日はあんまり上手に話せなかったなって切なくなるのも楽しいよね』って言ってたっけ。
そう思えるのは自己肯定感が高いからなんだろうな。
私は自分を肯定的に捉えるなんてできない。
それは私の病気のせいなのかな? それともアダルトチルドレンのせいかな?
それとも私自身の問題?
私は一生そうなのかな。
本当に、悲しいな…
「はあ…」
ため息ももう何度目かわからない。
窓をノックされてる。なんの用だろう。
起き上がるにも膝が痛くて、時間がかかってしまう。
早く開ける方がいいけど、きっと大樹はゆっくりでいいって言ってくれるから、ちょっとだけ大樹のやさしさに甘えよう。
カーテンを開けたら大樹の姿が見えた。
「なに?」
「さっき『成長』って言ってたろ?」
「うん」
「この間こさよに向いてそうなバイトがあってさ、これ見てくれよ」
「バイト?」
私に向ていそうな? なんだろう、見てみよう。
「知り合いが誰もいないバイトに挑戦してみたらどうかと思ったんだ」




