69話 濃密なる一年の終わりに
クロエ・スペンサー先生の教え方は、とても丁寧で分かりやすかった。
「暗記超人」の異名は伊達ではなく、彼女の頭の中には図書室が丸ごと入っているのではないかと思うほどだ。
幅広い分野の知識を、私の進捗に合わせて噛み砕いて提供してくれる。
一方で、クロエ先生が苦手とする「立ち振る舞い」や「王妃としての心構え」といった実技面については、王妃様が直々に指導してくださることになった。
「良いこと?イザベル。
王妃とは国そのものの品格!
背筋一つで民を従わせ、視線一つで敵を射抜くのよ。」
「…はい。精進いたします。」
(死んでも王妃にはならん。)
相変わらず圧の強い指導ではあったが、前任のジュディアのような悪意に満ちたものではない。
おかげで私の王妃教育は、予想外に順調な滑り出しを見せた。
◆
学院の生活も、いつの間にか日常を取り戻していた。
私にダル絡みしてきたルダリオは最近は大人しくしている。
(何より何より。
プンスコ・ヴァカダリーくんは何もせず、大人しく座っていることが、きっと周囲の、ひいては世界のためになるのだわ)
私の中では、最早ルダリオ・ダルダリーという人物の名前は薄れかけていた。
こうして私の初等部一年生という、あまりにも濃密な時間が幕を閉じようとしていた。
一ヶ月の長期休暇を終えれば、私は二年生に進級する。
目立たずに平和に過ごしたい、と思っていた入学前を懐かしむ。
まさか、この一年で殿下の婚約者になって王妃教育まで受ける羽目になってしまうとは。
(この一年の中身は数年分くらいの密度があった気がする。
はー。なんか疲れた。もっと穏やかに暮らしたい。)
独り庭園のベンチに座っていると、急に一年間の疲れがドッと押し寄せてきた。
目を瞑り、深呼吸を繰り返す。
そんな私に声をかけてくる者がいた。
「イザベル様。ここにいたんですね。探しました。」
そこに立っていたのは、休暇が明ければ最高学年となるクレス・アルケイデスだった。
「…あら、クレス様。
何だかお久しぶりですね。
どうされたのですか?」
その眼差しは、真剣そのものだ。
「放課後、時間は空いてませんか?
お話ししたいことがあります。」
クレスの問いかけは、どこか切実さを孕んでいた。
幸い今日は、終業式を兼ねた諸行事のみで授業が早く終わるため、王宮へ向かうまでには十分な空き時間があった。
「王妃教育までの間でしたら空いていますわ。
ただ、殿下との婚約は継続中ですので、男性と二人きりではあらぬ噂を立てられかねません。
メリッサを同伴させても構いませんか?」
「メリッサ…あぁ、イザベル様のご友人の。
ええ、大丈夫です。では放課後、ここに来てもらえますか?」
手渡されたのは、校舎の端にある、昔使われていて今は封鎖されているはずの場所。
―――通称『開かずの教室』が記されたメモだった。
(えっ、ここって確か出るって噂が…。
不気味だから生徒が近づかないようにしている場所じゃない?
最近は幽霊がどうとかって話も聞くし…。)
一旦、大きく深呼吸をする。
(落ち着け私。精神年齢合計四十二歳の私だぞ?
前世と今世、二つの人生を渡り歩き、今まで鍛え上げてきたこの不屈の精神。
それさえあれば、お化けなんか怖くないさ。
それに、メ…メリッサがいれば幽霊も何とかなるはず…!
っていうか、OKした後にこんな場所を提示してくるなんて卑怯じゃない!?)
教室に戻り、私は隣席のメリッサにメモを見せて同行を頼んだ。
すると彼女は、メモを一目見るなり「あー、これ。今日集まるんですね。了解でーす。」と、軽い調子で頷いた。
(今日集まる?お化けの集会でもあるの?
メリッサ、もしかして何か知っているの?)
もしかして、メリッサは霊感でもあるのだろうか。
それとも、幽霊と事前にアポイントメントでも取っているのか。
「ねぇ、この場所幽霊の噂があるんだけど、何の集会なの?」とは、公爵令嬢…いや、合計四十二歳のプライドが邪魔をして聞きづらい。
どう切り出そうか悩んでいるうちに、無情にも約束の放課後は訪れ、私たちは目的地に着いてしまっていた。
校舎の隅、埃っぽく薄暗い廊下の突き当たり。
そこには、クレスが一人で教室の扉の前に立って待っていた。
(あ、いた。
…………足がちゃんと地面に着いてる。
いや、幽霊だなんて思ってなかったけどね。一応確認しただけよ。)
誰に聞かれたわけでもないが、心の中で必死の言い訳をする。
「来てくれてありがとうございます。
今日はどうしても、あなたに参加してほしくて。」
「参加?クレス様とお話しするのではないのですか?」
「もちろん、話をします。―――『私たち』と。」
クレスが扉を開けた。
そこには、教室の席が全て埋まり、後ろには立っている者までいた。
ざっと五十人ほどだろうか。
「イザベル様だ……!」
「本当に来てくださったんだ!」
教室内が一気に熱を帯びたように盛り上がる。
「…これは、どういうことですか?」
私は状況が読み込めず、クレスを振り返った。
「突然、このような形で出迎えることになり申し訳ありません。
ですがイザベル様、私を含め、ここにいる者たちは『革新派』に異議を唱える者たちの集まりです!」
クレスは一歩前に出て、力強く言葉を紡いだ。
「私たちは国王陛下の方針である『多様性の尊重』や『異種族との共生』に、限界を感じているのです。
アルケイデス伯爵領にある『虹の広場』は、最悪なものでした。
イザベル様のおかげで改善の方向へ進めることはできましたが…、それでも広場自体を失くすことはできません。
それが、この国の政策を担う者たちの意向だからです。
私は考えました。
どうすれば国を変えられるのか。
自分が今できることは何か、と。」
クレスは教室を見渡す。
その瞳には、彼が一年かけて築いてきた絆への自負が見えた。
「私はまず、同志を集めようと思いました。
ここにいる皆は同じ思いを持ち、私と同じ考えを持つ者たちなのです。
旧体制派の学生はもちろん、実家の立地や事情で中立派を装っている者。
そして、ここには平民の出身者も多くいます。
彼らの方が、今の国の体制に対して思うところがあるようですからね。」
話をまとめると、クレスは着実にこの学院内での「反・革新派」の派閥強化に努めていたということだ。
特に平民出身の生徒たちは、虹の広場の惨状を肌で知っている。
最近では広場に収まらなくなった異種族が領内に住み着き、犯罪が増加しているという話も聞く。
「クレス様、お話をしてもよろしいでしょうか!」
「私も!」
「ぜひ僕からも報告が!」
待たされていた生徒たちが、イザベルを前にして次々に声を上げる。
「ああ、私ばかり喋ってすまない。
イザベル様、彼らの話を聞いていただけますか?」
「…えぇ。
聞かせてください。
あなたたちが何を見て、何を思っているのかを。」
最近暑くて脳みそが溶けてきました。
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