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60話 比較的、平穏な日常を過ごせた。

後書きも是非読んでください。



王宮でのあの神経を削るような攻防の翌日。

学院へ行くと、いつも通りの日常が私を待ってくれていた。



殿下の下僕たちによる、もはや嫌がらせとも呼べない低レベルなちょっかいはある。

だが、あのアニエスとの胃に穴が開くような対峙に比べれば、この不快な日常すら、ありがたいほど平穏に感じられた。



(ははは…。この退屈な授業が、こんなに愛おしく感じられるなんて。)



昨日のアニエスによる家庭教師への立候補が、悪い意味で強烈なイベントだったのだ。

私は窓の外を眺めながら、自分の中で平穏の基準が著しく下方修正されていることに、乾いた笑いを漏らした。





放課後の図書室。


窓から差し込む柔らかな陽光を浴びながら、私は深く椅子にもたれかかった。

今日は一人で静かな時間を過ごしたくて、メリッサには先に帰るよう伝えてある。

いつもは何かしら騒がしいので、たまにはこうして()になる時間が欲しかったのだ。



王妃教育が始まるまでは、まだ一週間ほどの猶予がある。

婚約の正式な手続きや、両家間での書類のやり取りに時間がかかっているおかげだ。



「この一週間くらいは、何事もなく、静かに心穏やかに過ごしたい…。」



私は独り言のように呟き、お気に入りの本を(めく)った。

王妃教育が始まれば、どんなスパルタ教師がやってくるか分からない。

だからこそ、今はこの無風状態を全力で享受すべきなのだ。




だが、私のささやかな、そして切実な期待は、文字通り瞬時に打ち砕かれることとなった。




「やっと見つけました!イザベル・ベルドレッド様!」



静寂を守るべき図書室に、場違いなほど威勢の良い、それでいて聞き覚えのない声が響き渡った。



「……ここは図書室ですので、お静かに願えますかしら?

それで、失礼ですがどなた様ですか?」



「あっ、失礼いたしました!

私、ティア・ミストレイと申します。

ミストレイ伯爵家の長女です。

この度はご婚約、おめでとうございますわ!」



「……アリガトウゴザイマスワ。」



私の返答は、極めて機械的だった。



「実は私、殿下の婚約者候補でしたの。

私としましては、殿下との婚約を家族共々願って、日々精進してまいりましたが…。

一歩及ばず、でしたわ。

ですが、イザベル様は公爵家。

家柄からして遠く及びません…。

ですから私は潔く、諦めることにいたしましたの!」



「……ソウナンデスカ。」



「私、お二人のことを応援しておりますわ!

それに、今までずっと殿下のお傍で見てきましたから、私は殿下のことをたくさん知っておりますの。

お役に立てることが、きっとあると思いますわ!

ぜひ今後もたくさんお話しして、仲良くしていただけると嬉しいですわ!」



「ハァ、アリガトウゴザイマス…。」



もはや私の返答は、魂の抜けた自動返信だった。

貴重な、あまりにも貴重な静寂の時間をぶち壊された怒りは、一周回って呆れとなり、私の感情を()へと変えていた。



(はいはい、わかったわかった。

つまり君は『私は殿下のことをよく知ってるマウント』を取りに来たってわけか。

そんなことしても無意味なのに。お疲れ様。)



内心でそう毒づいていたが、ティアという少女はそれからというもの、驚くほどの執着心で私にまとわりつくようになった。



「イザベル様!

殿下は夜寝る前、必ず温かい牛乳をお飲みになるんですよ!

可愛いですよね。ご存知でした?」



「……ハァ、そうなんですの。」

(知るわけないだろう興味すらないわ。)



またある時は。



「イザベル様、殿下は演習のあと、必ず北側のテラスで汗を拭われるんです。

そこで冷たい水をお渡しするのが、一番の『正解』ですわ!」



「……それは大変貴重な情報を、アリガトウゴザイマス。」

(奴に水を渡すだと?そんな機会は一生訪れないし、万が一あっても地面の泥水を啜れと言ってやる。)



学年が同じということもあり、彼女はクラスが違うにも関わらず、休み時間や放課後、隙あらば私の元へやってきては、頼んでもいない殿下の使()()()()情報を嬉々として提供してくる。



側近のメリッサは、あからさまに「鬱陶しい。」という顔を隠そうとしなかったが、私は「放っておいていいわ」と(なだ)めるしかなかった。

この手のマウントは、まともに相手をするだけエネルギーの無駄なのだ。




ところが…。



「ふふ、イザベル様って本当にお優しくて聞き上手ですのね!

私、イザベル様のこと、とっても大好きになりましたわ!」



「……ハイハイ、良かったわですわね。」



不思議なことに、どれだけ塩対応を貫いてもティアはめげなかった。

それどころか、私の()の相槌を華麗にスルーして、また話し始めるのだ。



そんなこんなで、嵐のような一週間が過ぎようとしていた。



意外にも、大きなトラブルは起きなかった。

いつの間にかティアは私とメリッサの輪に溶け込み、三人で過ごす光景も珍しくなくなっていた。






その日の夜。

公爵家の自室にて、私はリルに今日までの出来事を話していた。



「…と、いうわけで、最近ティアって子がずっと付いて回るのよ。

最初は警戒したけれど、あまり悪い子ではなさそうかなって。

とにかく賑やかで、案外…そうね、三人でいるのも楽しめてはいるわ。」



意外にも馴染んでしまったここ数日の放課後を思い返し、私は苦笑する。



「それから、問題は明日から始まる王宮での王妃教育よ。

本っ当に嫌…嫌過ぎて逃げたい。行きたくない…。

今から知恵熱でも出ないかな…。」



「イザベル様。

仮に熱を出したとしても、這ってでも来いと言われるのがオチかと。

ですが、もしあまりに強引な真似をされるようであれば、私が王宮中の人間を殺s…」



「嘘よ!冗談よ!行くわ、ちゃんと行くから。

大丈夫だから暗殺用のナイフから手を離してちょうだい。」



リルの物理的解決を必死に(なだ)めつつも、明日から始まる王妃教育を前に、私はこの日一番の深いため息を吐いた。




「ねぇ、ノア。ティア・ミストレイって伯爵令嬢を調べてくれるかしら?」


「あぁ、リルに言われるまでもなく、詳細に…詳細に調べている最中だ。」


「絶対何かあるわ。イザベル様にくっつく害虫に違いない…。絶対…化けの皮を剥がすわよ。」


「言われなくとも。私の網からは塵一つ逃さない。」


「あと、言わなくても分かっていると思うけれど…」


「イザベル様の家庭教師も、だろ?」


「えぇ。」


リルもノアも、最近はイザベルが指示を出すよりも先に行動するようになっていた。


イザベルの知らないところで、この二人の「シゴデキ(仕事ができる)」レベルは、もはや人類の域を超えようとしている。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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