58話 胃に穴が開くからやめてくれ。
温室を出て、リュシアンの待つ部屋へと戻る廊下。
王妃から手渡されたソージュ・ロリエの清涼な香りが、私の波立った心を不思議と鎮めてくれる。
(気付かれないように、ドレスの中に忍ばせておこう…。)
一抹の不安どころか、爆弾を抱えているような心地でドアを開ける。
「お戻りになられましたか。意外と早かったですね。」
部屋に入るなり、獲物を待ち構えていたかのようなアニエスが声をかけてきた。
その隣では、リュシアンがこれ見よがしにふんぞり返っている。
「母上になんの告げ口をした!?
私に対する不満でも並べてきたのか?」
開口一番、それだ。
保身のことしか頭にないのか、それとも母親に弱みを握られるのがそんなに怖いのか。
たとえ愛のない政略結婚だとしても、普通なら嘘でも「急に母上が呼び立てて申し訳ない」とか「何か厳しいことを言われなかったか?」という気遣いの一言くらい出るだろう。
常識的に考えて。
(…。
こいつに常識を求めてはいけない。
これは人間ではない。
人の言葉を話すだけの、何か別の生き物。
慈悲の心も、道徳心も、一粒の良心すら持ち合わせていない。
これは人間の形をした虫ケラ…。)
私は心の中でお経のようにその事実を繰り返し唱え、荒波のように逆巻く感情を無理やり沈める。
もはや、目の前の『虫』に対してまともに憤るなど、時間の無駄でしかない。
私は吐き出したい溜め息を喉の奥で深く飲み込み、冷徹なまでに冷静な声で答えた。
「告げ口だなんて、とんでもございません。
ただ、正直にお話ししただけです。
私は殿下のことを慕って婚約したわけではございません、と。」
一瞬、部屋が静まり返った。
リュシアンは、まるで自分の耳を疑うかのように目を見開き、顔を真っ赤にして立ち上がる。
「き、貴様ぁ…!
自分が何を言ったのか分かっているのか!?
この私が…この私がお前を婚約者にしてやったのだぞ!
本来なら、泣いて喜んで感謝し、この私を神のごとく崇めるべき立場だろう!」
(わぁすごい。期待を裏切らない。)
予想通りの『ありがたがれ』発言。
その突き抜けた傲慢さは、もはや一種の才能とすら言えるかもしれない。
(そもそも、あんたが勝手に婚約を押しつけてきたんでしょ!)
喉元まで出かかったツッコミを飲み込むのは、なかなかに骨が折れる。
「あら、リュシアン様、落ち着いて。」
怒髪天を突く勢いの殿下とは対照的に、アニエスは口元を扇で隠し、クスクスと楽しげに笑った。
だが、その瞳の奥は一ミリも笑っていない。
底無しの沼を覗き込んでいるような、どろりとした気味悪さが漂っている。
「イザベル様は、とても面白い方なんですね。
殿下、貴族の婚約なんてそんなものですわ。
愛などなく、利害だけで結ばれる。
それが普通で、当たり前の関係なのですから。」
アニエスは流れるような所作でリュシアンの肩に触れ、彼を宥める。
殿下は鼻息を荒くしながらも、アニエスの手に触れられると、牙を抜かれた子犬のように大人しくなった。
「ふんっ!
まあいい、そんな軽口を叩いていられるのも今のうちだ。
貴様には明日から、王妃教育を受けてもらうからな!
私が、この世で最も厳格で恐ろしい教育係をつけてやる。
泣いて許しを乞う姿が目に浮かぶようだ。
わはははは!」
リュシアンは、いかにも「これからお前をイビってやる」と言わんばかりの、三流悪役のような顔で高笑いした。
(はぁ…。やっぱりそうなるよね。
ま、新たな知識を得る良い機会だとポジティブに捉えてやるしかない。
…体罰さえなければ、だけど。)
私が「もし体罰系の家庭教師だったら、どんな手を使って仕返ししてやろうか?」と、脳内で緻密な報復作戦を練り始めた、その時だった。
「いいえ。教育係なら、私がやらせていただきますわ。」
アニエスが、まるで毒を含んだ花が開くような微笑みと共に、さらりと言い放った。
(はっ!? 絶対に無理…!一番無理!それは想定外だって!!)
心の絶叫が、今にも口から漏れ出しそうになる。
殿下の家庭教師が、なぜ未来の王妃の教育まで兼任するのか。
意味がわからない。
王妃様から頂いたソージュ・ロリエがなければ、今この瞬間ですら脱兎のごとく逃げ出したいレベルなのだ。
もし毎日の教育係がこの女になったら、王妃様のソージュ・ロリエを根こそぎ刈り尽くしても足りやしない。
(無理! 死ぬ! ストレスで私の胃が死ぬからやめてくれ!)
なんとかして、この提案を叩き潰さなければ………!!
婚約の話って何だか「悪役令嬢」って感じがしますね。
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