57話 王妃が来た。
(っあ”ー。ぅおぇぇぇ…。吐きそー。気持ち悪ぅー。
緊張で気持ち悪くなったのか…?
いや、この感じ…ガチでヤバい二日酔いみたいな…。
うぅ…ここで吐いたら一生の恥になる…耐えろー…耐えろー私ーーー!)
アニエスの指先から伝わる、生理的な嫌悪感。
それをリュシアンやアニエスに悟られぬよう、鉄仮面の微笑を張りつかせて耐える。
もはや冷や汗を拭う余裕すらなく、必死に嘔吐感と戦っていた、その時だった。
まるでタイミングを計っていたかのように、部屋の奥にある別の扉が、音もなく左右に開け放たれた。
「あら。ここにいたのね。」
重厚な空気とともに現れたのは、豪奢なドレスの裾を引く、一人の貴婦人。
第一王子リュシアンの生母にして、この国の国母。
ーーー王妃その人であった。
王妃は鋭い眼差しで室内を一瞥する。
「お話中だったかしら?リュシアンの婚約者が来たと聞いたので、顔を見に来てみたのだけれど。」
一見すれば優雅な声。
しかし、その裏には明確なトゲが含まれていた。
王妃は扇で口元を隠しながら、私を射抜くような瞳で告げる。
「ベルドレッド公爵家のお嬢様ともあろう方が、王妃である私に何の挨拶もないのかしら?」
(うぎゃぁー!婚約者の母親なんてラスボスみたいなもんじゃん!
待って待って!今挨拶とか無理!
口を開いたら、淑女として終わる中身が出てきちゃうんだけど…!)
私の目の前が、さらに暗くなった。
「まぁいいわ。緊張して声が出ない令嬢は多いもの。
私の部屋へいらしてくださるかしら。
婚約に至った経緯を、あなたの口から説明してほしいの。
リュシアンは何も話してくれないのですもの。」
「母上!こんな奴と話さずとも私が…!」
「あなたには何度尋ねても、明確な答えがなかったでしょう?
それに、あなたはそこの女と一緒にいたいのでしょう?
好きにしていて構わないわ。
私はこの子を連れて行くから。」
王妃は息子を冷たく一蹴すると、そのまま私を部屋から連れ出した。
歩き出す背中に、強い視線を感じる。
振り返らなくてもわかる。
アニエスが、獲物を逃した猛禽のような目で、瞬きもせずにこちらを見送っているのだ。
(あれ?
アニエスから離れたら、あんなに酷かった気持ち悪さがスッと軽くなった…。
助かった、のか?
でも次は王妃の部屋…。憂鬱…。)
◆
王妃に促されて到着した場所は、重厚な自室…。
ではなく、王妃が特別に造らせたという広大な温室だった。
ガラス張りの天井から柔らかな陽光が差し込み、見たこともない植物が青々と茂っている。
「ここに植えてあるのは、『ソージュ・ロリエ』という魔を退ける効果があるとされる植物なのよ。」
王妃は足を止め、私の方をゆっくりと振り返る。
「どう? 少しは体が楽になったかしら?」
先ほどまでの耐え難い吐き気が嘘のように、呼吸が深く、体も軽くなっていた。
「イザベル様、お身体の具合が悪かったのですか?」
「ええ…少しね…。でも、もう大丈夫よ。」
心配そうに顔を覗き込んできたリルに短く答えた後、私は王妃に向き直った。
「王妃様、お目にかかれて光栄に存じます。
イザベル・ベルドレッドにございます。
この度は、リュシアン殿下との婚約を…。」
先ほど挨拶を欠いたことで、絶対にお怒りだと思った私は、汚名返上とばかりに丁寧な挨拶を試みたのだが…。
「ああ、もういいわ。そういうの。
さっきのはリュシアンと、あの女の前であなたを不自然でなく連れ出すための口実だもの。」
「えっ…と…、それは…どういう…?」
あまりにもあっさりした言葉に、私は思わず拍子抜けしてしまった。
王妃は扇を閉じ、周囲の植物の葉を指先で弾く。
「あの女に触れられたら、男は皆、下僕のように虜になるのよねぇ。
女の場合も、虜になるか、あなたみたいに体調を崩してしまう人を見かけるわね。
もっとも、あの女がそれを自覚して触れてくるのか、それとも無意識なのかは分からないけれど。」
「彼女は…一体…?」
「さぁ?傾国の美女であることは間違いなさそうだけど。」
王妃は自嘲気味に鼻を鳴らす。私はその横顔をじっと見つめ、思わず本音を漏らした。
「王妃様は、どうして私を助けてくださったのですか?」
「……アニエス。あの女が来てから、国王が、国が変わってしまったわ。
リュシアンもそう。
でも、私に出来ることなんて何にもないのよ。
今までもこれからも、この国は王妃であっても女は国政に関わるなって空気なの。
それなのに、国の重鎮たちはあの女の言うことだけはよーく聞く。
本当に…、ムカつくわよねぇ。」
その言葉には、国母としての責任感よりも、一人の人間としての剥き出しの怒りがこもっていた。
「そんな中、婚約を頑なに嫌がっていたリュシアンが、あなたと婚約すると言い出したのよ。
私も国王もとっても驚いたわ!
だって、ベルドレッド家は旧体制派の筆頭だもの。
でもね、国王はあっさりと許したの。
なぜだか分からないけれど。」
王妃は空を仰ぎ、独り言のように続ける。
「国王がベルドレッド家だから良いと言ったのか。
イザベル、あなただから良いと言ったのか。
それとも、もはや誰でも良かったのか…。
正解は分からないけれど、私はこのタイミングでリュシアンと婚約したあなたに、猛烈に興味が湧いたのよ。」
「…そう、だったんですね。」
(そっか、王妃は王妃で、国や息子のことで色々と思い悩んでいたのか。)
「王妃様。まずは助けていただき、ありがとうございます。
そして正直に申し上げます。
私はリュシアン殿下に学院で虐げられておりました。
ですので私は殿下のことが苦手ですし、殿下も私を貶めるためだけに婚約をしたに過ぎないと考えております。」
(よし、言った!
これで冗談でも『お慕いしている』なんて言わなくて済むぞぉ!)
王妃は驚いたように目を見開き、それからコロコロと鈴を転がすように笑った。
「ふふ、あははは! まあ、なんて清々しいのかしら。
王妃に向かって、その息子を『苦手』だと言い切るなんて。
あなた、本当に面白いわね。」
王妃は満足げに頷くと、ふと真剣な表情に戻って私を見つめた。
「いいわ、イザベル。
今の王宮で、自分の足で立ち、自分の目でものを見ている人間はとても貴重なの。
リュシアンが何を企んでいようと、あの女が何を吹き込もうと、あなたあなたのやりたいようにしていいわ。
王妃権限で出来ることは少ないけれど、メイドたちにはあなたの助けになるように伝えておくわ。」
そう言って王妃は、温室の隅に置いてあった小さな籠をリルに手渡した。
中には、さっきのソージュ・ロリエの乾燥させた葉が詰まっている。
「王宮では、それを持ちなさい。
アニエスの毒に当てられそうになったら、その香りを嗅ぐこと。
さあ、そろそろ戻りなさい。
あまり長く引き留めると、あの女が怪しんで、またあなたの頬を撫でにくるわよ。」
(げっ、それは勘弁! おぇーが再発する!)
「ご配慮に感謝いたします。それでは、失礼致します。」
私は今度は心からの敬意を込めて一礼し、温室を後にした。
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