09 ユリウスの本音
2026.10.26 修正
09 ユリウスの本音
「どうぞ」
掠れた声で返事をすると、病室の扉が静かに開いた。入ってきたのは、ユリウスだった。
アストリッドは思わず身体を起こしかけたが、胸の辺りに鈍い痛みを感じ、途中で動きを止めた。
「そのままでいい」
ユリウスはすぐにそう言い、ベッドへ近づいてきた。顔色は悪くない。足取りにも目立った異常はなく、普段と変わらないように見えた。
そのことに安堵しかけて、左手の甲に巻かれた包帯に気づいた。袖に隠れているため、怪我がどこまで及んでいるのかは分からない。けれど、見える範囲では、それほど重い怪我には思えなかった。ユリウスはベッドの横まで来ると、右手で椅子を引き、静かに腰を下ろした。
「アストリッド」
ユリウスは柔らかく微笑んだ。これまで見たことのない表情だった。
「似合ってる」
思いがけない言葉に、アストリッドは瞬きをした。ユリウスの視線を辿り、自分の三つ編みに触れる。
「そうでしょうか」
そう尋ねながらも、指先は髪から離れなかった。母が編んでくれた三つ編みは、横になっていても邪魔にならなかった。
慣れない髪型は少し落ち着かなかった。それでも、似合っていると言われると悪い気はしない。
「いつもはしない髪型だ」
「母が、編みました」
「そうか」
アストリッドはわずかに口元を緩めた。
膝の上に置かれたユリウスの左手へ、そっと目を向けた。包帯から指先だけが出ている。手首がわずかに持ち上がった。けれど、指は一本も動かない。
アストリッドの口元から笑みが消えた。ユリウスの指先は、いつも迷いなく動いていた。魔導具を分解するときも、細い器具を扱うときも、何ひとつ無駄がない。アストリッドは、その指先から目を離せなかった。
「ユリウスさん……」
ユリウスも自分の左手を見下ろした。少し間を置いて、静かに口を開く。
「……非常扉の独立小型炉のコアを破壊したとき、逆流した魔導エネルギーが左腕を通った。左手の甲から、二の腕の外側まで」
アストリッドは息を吸ったが、深く吸い込めなかった。呼吸が浅くなる。
「アストリッド、ゆっくり呼吸して」
ユリウスの声に従い、短く息を吸って、ゆっくりと吐く。何度か繰り返し、ようやく掠れた声で尋ねた。
「治るのですか」
ユリウスは包帯の巻かれた左手へ目を落とした。
「今は、療法士に指を動かしてもらっている。自分で動かせるようになるまでには時間がかかるが、日常生活に必要な動作は、リハビリを続ければ戻る見込みだ」
その言葉に安堵しかけたが、声の調子からすると、まだ続きがあるようだった。
「精密な作業ができるようになるには、それなりに時間がかかる。ただ、治らない怪我ではない」
アストリッドは、ユリウスが膝の上に置いた左手を見つめた。その手が、自分を助けるために傷ついた。
「あのコアを破壊すれば、魔導エネルギーが逆流することは分かっていた」
アストリッドの呼吸が再び浅くなる。魔導エネルギーの逆流がどれほど危険なものかは、アストリッドも知っていた。
左腕だけで止まる保証はない。もし肩を越え、胸まで達していたら。指先が冷たくなる。左手が動かなくなる可能性も、命を失う可能性もあった。
「……どうして、そんな……」
声が震えた。言葉になったのは、それだけだった。ユリウスはアストリッドから目を逸らさなかった。
「君を、死なせたくなかった」
迷いのない声だった。アストリッドは何も言えなかった。そのために、ユリウスは自分の手も命も危険に晒した。
怪我を負わせてしまった。
それなのに。嬉しいと思ってしまった。
視界が滲み、涙が頬を伝った。
自分が代わりに怪我をすることも、回復にかかる時間を短くすることもできない。謝って済むことでもない。それでも、自分にできることがあるなら、何でもしたかった。
「私、なんでもします……」
ユリウスの目が、わずかに見開かれた。それから、困ったように眉を寄せる。
「男に『なんでもします』は、絶対に言ってはいけない」
声はいつもと変わらなかった。けれど、視線がわずかに逸れた。
アストリッドは涙が止まらなくなり、首を横に振った。
「アストリッド。もし僕が……結婚してくれ、と言ったらどうする」
アストリッドは目を見開いた。息が一度止まった。
結婚。ユリウスは確かにそう言った。
結婚してくれと言われたわけではない。もし言ったらどうするのかと尋ねられただけだ。それでも、鼓動は速くなった。
「君は優しいから、断れないだろう」
椅子の脚が小さく鳴った。ユリウスは椅子から立ち上がり、アストリッドが答えるよりも早く、ベッドへ背を向けた。
「ユリウスさん」
名を呼ぶ声は掠れていた。けれど、ユリウスは振り返らない。
「今は休んで」
そう言って、病室を出ていった。扉が閉まる。
アストリッドは、しばらくそこを見つめたまま動けなかった。先ほどまでユリウスが座っていた椅子が、ベッドの横に残されている。
――結婚してくれ、と言ったらどうする。
なぜ、あんなことを言ったのだろう。「なんでもします」と言ったことを注意するためだけなら、ほかにも例はあったはずだ。それなのに、ユリウスが例にしたのは結婚だった。
頭の中でその言葉を繰り返しているうちに、非常口の前でのことを思い出した。深い青色の瞳と視線が合った。ユリウスが顔を近づけた。唇に触れた感触。掠れた声で告げられた言葉。――すまない。
アストリッドは頬に手を当てた。熱い。
あれは、キスだった。ユリウスにキスをされた。改めてそう考えると、頬の熱がさらに増した。
ユリウスが。在学中は常に首席で、卒業してからも研究や仕事ばかりしている、あのユリウスが。自分にキスをした。アストリッドはもう片方の手でも頬を押さえた。
結婚という言葉は、ただの例だったのかもしれない。キスも、あの状況だったからしただけなのかもしれない。そう考えれば説明はつく。けれど、ユリウスは誰にでもあんなことをする人ではない。
アストリッドは目を閉じた。深い青色の瞳も、柔らかく微笑んだ顔も、唇に触れた感触も思い出せた。――君を、死なせたくなかった。その声まで思い出す。
アストリッドは胸元に手を当てた。鼓動がまた速くなっていた。




