10 アストリッドの返事
2026.10.26 修正
10 アストリッドの返事
翌日、母が帰ったあと、アストリッドはすぐに病室を出た。隣のユリウスの病室へ、ゆっくりと歩いていく。
今日も髪は三つ編みにされている。鏡を見たとき、昨日ユリウスに言われた言葉を思い出した。――似合ってる。それだけで頬が熱くなり、俯いた。
けれど、今は髪型を気にしている場合ではない。一晩考えて、答えは一つしかなかった。助けてもらったからではない。左手に怪我を負わせた責任を感じているからでもない。ユリウスが、自分との結婚を口にしたことが嬉しかった。その気持ちを、今度こそ伝えなければならない。
病室の前まで来ると、鼓動が速くなった。アストリッドは一度呼吸を整え、扉を叩いた。
「はい」
扉の向こうから、短い返事があった。その声を聞いて、鼓動がさらに速くなる。アストリッドは扉を開けた。
部屋の造りは、自分の病室とは左右が反対だった。手前にベッドがあり、窓際にはソファと小さなテーブルが置かれている。壁際にはテレビと水回りが並んでいた。
ユリウスは窓際のソファに座り、タブレット端末を見ていた。画面には、魔導回路の図面らしきものが映っている。左手には何も持たず、右手だけで操作していた。ユリウスは顔を上げ、アストリッドの姿を認めると、わずかに目を見開いた。
「アストリッド、歩いてきたのか」
「はい」
ユリウスはすぐに立ち上がった。眉がわずかに寄っている。
「無理はしていないか」
「大丈夫です」
そう答えたものの、病室まで歩いてきただけで少し疲れを感じていた。ユリウスはアストリッドの顔色を確かめるように見つめた。
「座って」
アストリッドは言われるまま、窓際のソファへ向かった。腰を下ろすと、思っていた以上に力が抜ける。
ユリウスはそれを見届けてから、少し距離を空けて右隣に座った。肩が触れるほどではない。それでも、ベッドの横に置かれた椅子で話した昨日より、ずっと近くに感じる。
アストリッドは膝の上で両手を重ねた。伝えたいことは決まっているのに、言葉が出てこなかった。ユリウスもすぐには口を開かなかった。小さなテーブルの上にタブレット端末を置き、右手を膝へ戻す。左手は、膝の上に力なく置かれたままだった。
アストリッドの視線に気づいたのか、ユリウスが静かに言った。
「君を助けられなかったら、僕は一生後悔しただろうから」
アストリッドは息を詰めた。言葉を返せなかった。ユリウスは前を向いたまま、わずかに息を吐いた。
「昨日のことだが」
アストリッドの指先に力が入る。ユリウスは少し間を置いた。
「あのような形で言うべきではなかった」
低く落ち着いた声だった。言葉の間が、いつもより長い。
「君はまだ体調も戻っていない。僕の左手のこともある。君が責任を感じていると分かっていながら、答え難いことを言った」
ユリウスがこちらを見る。
「それに、非常口でのことも」
その言葉で、唇に触れた感触を思い出した。
頬が急に熱くなる。ユリウスが膝の上で右手を軽く握った。
「あのときは、君を助けられて……昂っていた」
ユリウスが視線を逸らした。
「軽率だった。すまない」
「謝らないでください」
ユリウスはわずかに目を見開いた。アストリッドは俯いた。
「……嬉しかったんです」
「嬉しかったのか」
ユリウスはそれ以上、何も言わなかった。アストリッドを見つめている。
言い方を間違えただろうか。それとも、本当に例として結婚を口にしただけだったのだろうか。
やがて、ユリウスは静かに立ち上がった。アストリッドもつられて顔を上げる。ユリウスが正面へ回ってきた。何をするのか分からずに見つめていると、その場に片膝をついた。アストリッドは息を止めた。
ユリウスが、膝の上に置かれたアストリッドの左手を取った。右手だけで慎重に包み、持ち上げる。深い青色の瞳が、まっすぐにアストリッドを見上げる。
「僕と、結婚してください」
静かな声だった。アストリッドの頬が熱くなった。それでも、口元が緩むのを止められなかった。小さく頷く。
「はい」
ユリウスの表情が、わずかに緩んだ。それから、握っていたアストリッドの手を、ゆっくりと自分の顔へ近づける。手の甲に、唇の柔らかな感触があった。
非常口で唇に触れられたときとは違う。手の甲には、唇の温もりが残っていた。ユリウスは唇を離しても、手を放さなかった。
「一生、大事にする」
低く、確かな声だった。アストリッドの目に涙が滲んだ。嬉しかった。
「私も、大事にします」
そう言うと、ユリウスがわずかに目を見開いた。やがて、小さく笑った。
ユリウスはアストリッドの手を放して立ち上がると、先ほどと同じ距離を空けて隣へ腰を下ろした。何を話せばいいのか分からない。ユリウスも黙ったまま、正面を向いている。
アストリッドは三つ編みの先に触れた。ユリウスがその手元を見る。
「可愛い」
アストリッドは俯いた。頬だけでなく、耳まで熱い。手の甲には、まだユリウスの唇の感触が残っていた。
病室には空調の音が響き、廊下を通り過ぎる足音が遠く聞こえた。窓から差し込む午後の光が、二人の足元まで届いている。
婚約した。その事実を思い返すたび、鼓動が速くなる。
嬉しい。けれど、これからどうすればいいのかは、まだ何も分からなかった。




