11 二人の薬指
2026.10.26 修正
11 二人の薬指
事故から九日目。アストリッドはユリウスの病室を訪れていた。
午後の日差しが窓から差し込み、病室のテレビには旅番組が映っている。音量は小さい。二人は窓際のソファに並んで座っていた。アストリッドは画面を見ていたが、番組の内容はほとんど覚えていなかった。
ユリウスは左手を、アストリッドの右手にそっと重ねていた。リハビリのおかげで、親指と人差し指がごくわずかに動くようになっていた。重ねられた手を意識すると、頬が少し熱くなった。
ユリウスの親指がゆっくりと動き、アストリッドの爪へ触れた。アストリッドも自分の爪へ視線を落とす。少し伸びていた。普段なら、これほど伸びる前に切っている。
魔導薬学では薬剤や媒質に触れることが多い。手袋は着けるが、爪は短く清潔に保つよう教えられていた。
「爪が伸びてきました」
ユリウスもアストリッドの指先を見た。
「そうだな」
「退院したら切らなければなりません」
「退院してからなのか」
「今は爪切りを持っていませんので」
母に頼めば持ってきてもらえる。けれど、退院までにどうしても切らなければならないほどではなかった。
それに、まだ身体の怠さも残っている。細かな作業を続けると、思った以上に疲れてしまう。
ユリウスはもう一度、親指でアストリッドの爪をなぞった。親指が爪の先で止まる。
「整えてもいいだろうか」
アストリッドは瞬きをした。
「私の爪を、ですか」
「僕は右手なら使える。左手も添えるだけなら問題ない」
「ですが」
「切らせてもらえないか」
ユリウスはそう言いながら、アストリッドの爪を見ている。
「それに、君はいつも深く切りすぎる」
「そうでしょうか」
「爪の形を見れば分かる。指先を傷める切り方だ」
アストリッドは、白い部分をできるだけ残さず切るのが普通だと思っていた。
「魔導先端工学の最初の授業で教わるんだ。精密な作業をするためにも、まずは自分の指先を整えろ、と」
ユリウスの爪は短すぎない程度に整えられ、角も滑らかだった。怪我をした左手の爪も、変わらず丁寧に整えられている。
ユリウスに爪を切ってもらう。少し恥ずかしかった。家族にさえ、幼い頃を除けば頼んだことはない。
「お願いします」
「任せて」
ユリウスは立ち上がると、ベッド脇の引き出しから爪切りと爪やすりを取り出し、再びソファへ戻った。先ほどより少し近い位置に腰を下ろす。
ユリウスは右手でアストリッドの左手を取り、自分の左手の上へそっと載せた。それから右手で爪切りを持った。
一本ずつ長さを確かめ、慎重に刃を入れていく。小さな音が病室に響く。深く切り込まず、指先を守る程度の長さを残して整える。アストリッドは黙って見ていた。自分なら、もっと短く切る。
すべて切り終えると、ユリウスは爪やすりを手に取った。爪の角に当て、引っ掛かりがなくなるまで整えていく。アストリッドも、爪切りについているやすりを使うことはあった。けれど、こうして専用のやすりで一本ずつ整えたことはなかった。
ユリウスは爪を一本整えるたびに、形を見て、指の腹で触れて確かめた。最後の指を整え終えると、指先に息を吹きかけた。削れた細かな粉が払われる。
アストリッドの肩が小さく跳ねた。ユリウスの手が止まる。
「……すまない」
「いえ。驚いただけです」
頬が熱い。指先に息が触れただけなのに、鼓動が速くなる。
ユリウスもわずかに視線を逸らした。それから整えた爪を見直し、小さく頷く。
「これでいいだろう」
アストリッドは左手を見つめた。いつもより少し長く残された爪。それでも角は滑らかで、きれいに揃っていた。
「もう片方も」
「……お願いします」
アストリッドは右手を差し出した。ユリウスは静かに受け取る。一拍置いてから、左手のときと同じように爪を整えていく。
最後の指を整え終えると、ユリウスの手が一瞬だけ止まった。それから、小さく息を吹きかける。今度は先ほどより少し控えめだった。削れた粉が指先から払われる。
アストリッドは今度は肩を跳ねさせなかった。ただ、頬はまた少し熱くなった。ユリウスは整えた爪を確認した。
「上手にできたと思う」
アストリッドは両手を見比べる。どちらも長さが揃い、角は滑らかだった。自分なら、ここまで丁寧には整えない。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
見慣れない長さだったが、指先に違和感はなかった。ユリウスが静かに言った。
「また伸びたら、整えさせてほしい」
アストリッドは顔を上げた。一度、自分の指先を見る。
「お願いします」
ユリウスは小さく笑った。アストリッドも微笑みを返した。
ユリウスは右手で、整え終えたアストリッドの左手をもう一度そっと取った。親指が、人差し指から中指へ、整えた爪を順に確認していく。薬指まで来ると、その動きが止まった。
ユリウスの親指が、薬指の第一関節を越え、ゆっくりと付け根まで動いた。彼の視線も、薬指に向いていた。
「退院したら、婚約指輪と結婚指輪を買いに行こう」
アストリッドは瞬きをした。指輪。自分の薬指に指輪があるところなど、これまで考えたこともなかった。
「はい」
返事をすると、ユリウスの親指がもう一度、薬指の付け根に触れた。まだ何もない場所だった。アストリッドも、自分の薬指へ視線を落とした。
「家族に話すのは、退院してからにしよう」
「そうですね。落ち着いてからの方がいいと思います」
アストリッドは、ふと思い出した。
「明日、ロイさんとオリヴァーさんが来るのでしたね」
「ああ。家族に話すまでは、二人にも黙っておこう」
「分かりました」
退院するまでは、二人だけの秘密だった。




