08 病室での目覚め
2026.10.26 修正
08 病室での目覚め
事故から四日目の朝、アストリッドは集中治療室から一般病棟の個室へ移された。容体は安定していたが、事故後の記憶はまだ曖昧だった。家族が見舞いに来ていたことも、あとから聞かされて初めて知った。どのように病院へ運ばれたのかは、ほとんど覚えていない。
時折、目を覚ました記憶はあった。看護師に名前を呼ばれたこと。水を含ませてもらったこと。誰かがベッドのそばにいたこと。けれど、それぞれがいつのことだったのかは分からなかった。
事故現場のことも、途中から記憶が途切れている。閉じた扉。白い靄。通信越しに聞こえていた声。そのあとのことは、はっきりと思い出せなかった。
五日目も、目を覚まして水を飲み、看護師の問いかけに頷く程度で、ほとんど眠って過ごした。午後には酸素マスクを外して自分の力で呼吸できるようになったものの、わずかな動作だけでも疲れ、しばらくするとまた眠ってしまった。
六日目の朝、看護師の介助でシャワーを浴びることになった。ベッドから起き上がる。両脚を床へ下ろし、看護師に腕を支えてもらいながら立つ。それだけで息が上がった。
「急がなくて大丈夫ですよ」
看護師に言われ、アストリッドは頷いた。
「はい」
自分では、もう少し動けると思っていた。一人では立っていることもできず、身体を洗う間も看護師に支えてもらわなければならなかった。
腕を上げる。髪に触れる。それだけの動作にも時間がかかる。
温かい湯が肌を流れていく。久しぶりに全身を洗えたことは気持ちよかったが、病室へ戻る頃には腕を持ち上げる力も残っていなかった。看護師にベッドまで連れていってもらう。
「少し休んでください。髪はあとで乾かしましょうか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
そう答えたものの、髪を乾かすためにもう一度腕を上げる気にはなれなかった。看護師が病室を出ていく。アストリッドはベッドに腰掛けたまま、湿った髪を胸の前へ寄せた。
髪は背中の半ばまで伸びている。普段は仕事の妨げにならないよう、後ろで一つに結ぶだけだった。髪型にこだわったことはほとんどない。
そのまま休もうかと思ったところで、病室の扉が開いた。
「アストリッド」
母が入ってきた。ベッドのそばまで歩み寄り、アストリッドの顔を覗き込む。
「昨日より元気そうね」
アストリッドは昨日のことを思い返した。母が来ていた記憶はなかった。
「昨日も来ていたんですか?」
「来たわ。ほとんど眠っていたけれど」
「すみません」
「謝ることじゃないでしょう」
母はすぐに答えた。それから、胸の前にある濡れた髪に目を留める。
「シャワーを浴びたのね」
「はい」
「疲れたでしょう」
「思っていたより」
正直に答えると、母は少しだけ表情を緩めた。
「乾かしてあげる」
アストリッドが頷くと、母はベッド脇の椅子を洗面台の前へ運んだ。
「座って」
アストリッドは母の腕を借りてベッドから降りた。立ち上がっただけで脚に力が入りにくくなる。母の腕をつかみ、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
「大丈夫?」
「はい」
そう答えたあと、アストリッドは一度呼吸を整えた。
椅子が低くて洗面台の鏡は見えない。髪にタオルが当てられ、水気が拭き取られる。続いてドライヤーの温かな風が当たった。自分では何もする必要がなかった。アストリッドは膝の上に手を置いた。母の指が、少しずつ髪を分けていく。
子どもの頃にも、こうして座っていた。初等部へ入学する前は、毎朝母が髪を整えていた。寝癖が残っていれば直され、長くなれば結ばれた。当時のアストリッドは、その間も本を読もうとして何度か叱られたことがある。
六歳で寮生活を始めてからは、身支度をすべて自分でするようになった。朝起きて、制服を着て、髪を結ぶ。それが当たり前になった。母に髪を乾かしてもらうことも、結んでもらうことも、それ以来なかった。
ドライヤーが止まったあとも、母は手櫛で髪を整えていた。
「結んでもいいかしら」
「好きにしてください」
答えると、ベッド横の引き出しが開く音がした。髪を梳かれ、規則的に引かれる感触が続く。編んでもらっているのだと分かった。アストリッドはされるまま座っていた。
母は編み終えた髪を肩越しに胸の前へ置いた。
「できたわ。似合ってる」
アストリッドは三つ編みに触れた。
「自分では、よく分かりません」
「そう言うと思った」
母の指で編まれた髪は、自分で一つに結ぶときよりきれいにまとまっている。アストリッドは解かずに、そのままにしておいた。
母の腕を借りてベッドへ戻る。横になると、身体の疲れがよく分かった。シャワーを浴び、髪を乾かしてもらっただけだった。それでも、今日は昨日よりできることが増えている。
アストリッドは自分の手を見た。手を握る。開く。痺れはもう残っていない。動きも問題なかった。
次に足先を動かす。こちらも動く。力が戻るまでには時間がかかるだろう。
「お兄ちゃんは今日も仕事帰りに行くって言ってたけど」
母の言葉に、アストリッドは手を布団の上へ戻した。
「そうですか」
「疲れているなら、今日は来ないように言っておくわ」
アストリッドは少し考えた。兄の顔を見れば安心すると思う。けれど、今はもう眠かった。
「お願いします」
「分かったわ」
母は椅子へ腰を下ろした。
「ゆっくり休んで」
「はい」
母の声を聞きながら目を閉じる。
次に目を開けたときには、病室は静かだった。窓から差し込む光の位置が変わっている。母の座っていた椅子は元の場所へ戻されていた。眠っている間に帰ったらしい。
アストリッドは胸元の三つ編みに触れた。まだ身体は重い。けれど、昨日までよりは頭がはっきりしていた。
コップへ手を伸ばした。自分で持ち上げ、少しずつ水を飲んでから元の場所へ戻す。朝よりは身体が動くようになっていた。
アストリッドは枕へ背を預けた。廊下から足音が近づいてくる。やがて病室の前で止まり、扉が控えめに叩かれた。




