07 アストリッド救出
2026.10.26 修正
07 アストリッド救出
扉の隙間から差し込む光の幅が、少しずつ広がっていく。
『そのまま押せ!』
ロイの声に重なって、金属の擦れる音が響いた。厚い扉が低く軋む。人の指が入るほどだった隙間は、やがて身体を横向きにすれば通れる幅になった。
防護服を着た人影が、その隙間へ身体を滑り込ませる。白い靄に遮られ、顔は見えない。アストリッドは床に倒れたまま、近づいてくる足音を聞いていた。名前を呼ばれたような気がしたが、誰の声かは分からなかった。
人影が目の前で膝をつく。背中と膝の下に腕が差し入れられ、身体が床から持ち上がった。上体は防護服の胸元へ強く引き寄せられた。
腕も脚も感覚が薄い。防護服越しに、背中と膝下を支えられていることだけが分かった。
抱き上げた人物が、アストリッドを支えたまま扉の方へ歩き始めた。
『もう少しだ! そのまま開けろ!』
金属が大きく軋み、扉がさらに押し開かれていく。開口部から白い靄が制御室へ流れ出した。
『靄が出てくるぞ!』
『あと少しだ。そのまま押せ!』
アストリッドは抱えられたまま、扉の隙間を通った。防護服が扉の縁に触れた。身体を支える腕に、わずかに力がこもった気がした。そのまま制御室へ運び出された。
『閉めるぞ! 反対へ押せ!』
背後で再び金属の軋む音が響いた。そのまま点検区画の外へ運ばれていく。
「アストリッド」
頭のすぐ上から名前を呼ばれた。視界には、防護服に覆われた胸元しか映っていない。その声で、自分を抱き上げているのがユリウスだと分かった。
「もう大丈夫だ」
静かな声だった。けれど、防護服越しに伝わる呼吸は荒い。歩くたびに胸元が大きく上下し、ときおり身体を抱き直すような動きが伝わってきた。
アストリッドは頷こうとした。首に力が入らない。返事をしようとしても、喉から掠れた息が漏れただけだった。ユリウスはそれ以上、応答を求めなかった。
背後から足音が近づく。
「アストリッド!」
ロイだった。すぐそばまで来たところで、息を呑む音がした。
「ユリウス、お前……」
「いいから、先行してくれ」
ロイは一瞬黙った。足音が前方へ遠ざかり、通路の扉が開いた。ユリウスはアストリッドを抱えたまま、足を止めずに進んだ。
「足元に段差がある。気をつけろ」
ユリウスは短く応じた。歩調を緩めないまま段差を越える。その拍子に、アストリッドの身体がわずかに揺れた。背中と膝下は、腕に支えられたままだった。
次の扉へ向かう途中で、前方からロイが通信する声がした。
「救急車を手配してくれ。二台だ」
二台。アストリッドはその言葉を頭の中で繰り返した。なぜ二台必要なのか考えようとしたが、そこから先が続かなかった。
目を開けていることさえ難しい。視界が揺れ、暗くなりかける。
「アストリッド、目を閉じるな」
耳元でユリウスの声がした。アストリッドはまぶたを持ち上げる。そのたび、背中を支える右腕に力がこもった。
前方で非常口の扉が開いた。扉の向こうから空気が流れ込んだ。ユリウスはアストリッドを抱いたまま外へ出た。
非常口の前の舗装面で足を止める。そのままゆっくりとしゃがみ込み、アストリッドを膝の上へ抱えた。右腕が背中を支え、上体を起こす。膝下を支えていた左腕が抜かれ、アストリッドの膝の上に置かれた。
「ユリウス!」
ロイが駆け寄る。
「マスクを外して、フードを下ろしてくれ」
ロイは二人のそばに膝をついた。アストリッドの防護マスクを外し、続けて防護服のフードを下ろす。
冷たい空気が顔に触れた。喉の痛みは消えない。それでも、こもっていた熱が少しだけ引いていく。
次に、ユリウスの防護マスクが外され、防護服のフードも下ろされた。深い青色の瞳が現れる。顔色は悪く、額には汗が浮かんでいた。呼吸は荒い。それでも、右腕はアストリッドの背中を支え続けている。
『ロイさん、ブルーノさんに報告して応援を要請しました。ブルーノさんがこちらへ向かっています』
通信越しにオリヴァーの声が入った。
「分かった。二人が搬送されたら戻る」
二人。また、その言葉が耳に残る。
ユリウスの左腕は、アストリッドの膝の上に置かれたままだった。手首から先には、力が入っていないように見えた。なぜ力が入らないのか、考えようとしても分からない。
ユリウスを見上げると、目が合った。言葉はなかった。ユリウスが大きく息を吐く。
次の瞬間、ユリウスの顔が近づいた。唇に、柔らかなものが触れた。ほんの一瞬だった。何が起きたのか分からないまま、アストリッドはユリウスを見つめた。ユリウスが顔を離す。
「すまない」
掠れた声だった。遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。
一台目の車両が非常口の前で停まり、続いて二台目も敷地へ入ってきた。後部扉が開き、救急隊員が担架を下ろす。
「媒質を吸入しています。呼吸器症状と四肢の痺れ、意識の低下があります」
ロイが駆け寄りながら説明する。
「区画内では過剰励起が起きていました。防護マスクは着用していましたが、高濃度の媒質を遮断しきれていません」
救急隊員の一人が、アストリッドの前に膝をつく。
「聞こえますか?」
返事をしようとしたが、唇がわずかに動いただけだった。救急隊員が顔を覗き込んだ。呼吸を確かめる声が聞こえた。
「すぐに搬送します。担架へ」
ユリウスがアストリッドを抱え直そうとした。左前腕を再び膝下へ差し入れる。
「無理するな!」
ロイが声を上げる。救急隊員も手を差し出した。
「こちらで運びます」
「いい」
ユリウスは短く答えた。右腕と胸で上体を支え、左前腕で膝下を受ける。一度、身体が揺れた。それでも立ち上がる。
担架までのわずかな距離を、ゆっくりと進んだ。担架の脇まで来ると、ユリウスは慎重に腰を落とした。アストリッドの身体を担架へ下ろし、左腕を膝下から抜く。背中と頭が担架に触れるまで、右腕は上体を支えたままだった。
救急隊員が身体を固定する。アストリッドは担架の上からユリウスを見上げた。彼はその場に立ったまま、左腕を押さえている。防護服の左袖が黒く変色していた。左手は力なく垂れ、指先は動いていない。
救急隊員の一人が、二台目の救急車へ向かって声を上げた。
「こちらにも負傷者だ!」
ユリウスが口を開いた。声になる前に身体が傾く。倒れる寸前で片膝をついた。そのまま支えきれず、地面へ崩れ落ちる。
「ユリウス!」
ロイの声が響いた。




