06 制御不能
2026.10.26 修正
06 制御不能
媒質濃度測定器の数値が、基準値を超えた。表示はそこで止まらず、細かく揺れながら上昇を続けている。
「媒質濃度が基準値を超えました」
報告した途端、喉の奥に強い痛みが生じた。咳が漏れる。測定器を支える指先にも、冷たい痺れが広がっていく。
『アストリッド?』
ロイの声がすぐに返ってくる。
「喉の痛みと、指先に痺れがあります」
『もう症状が出てるのか』
「今です。媒質濃度が基準値を超えた直後からです」
防護マスクの縁を指でなぞり、浮きがないことを確かめる。それでも息を吸うたび、喉への刺激は強くなった。
過剰励起によって変質した媒質を、吸収缶が処理しきれていない可能性がある。視界の端で、吸収缶の有効時間が更新される。
「吸収缶の有効時間も減っています」
『あとどれくらいだ?』
「残り三十分です。……二十分になりました」
残り時間は急速に減り続けている。
扉の向こうで足音がした。
『扉の操作盤はどれだ?』
ユリウスの声だった。
『これです』
金属の留め具を外すような音がした。しばらく、通信越しに解析端末を操作する音だけが聞こえた。
『何が起きてる?』
『扉の魔導回路が、開放信号を受け付けていません』
『さっきの異常で故障したのか?』
『断定はできない』
短い間を置き、ユリウスが続ける。
『扉の駆動用魔導炉の出力が強すぎる。魔導回路が制御できる範囲を完全に超えている』
非常扉は独立した小型魔導炉で動き、その出力を魔導回路で調整している。
『閉鎖方向へ出力を送り続けています』
オリヴァーが報告する。
『開放信号を送っても切り替わりません』
『扉の駆動炉を停止させられないのか?』
『停止信号も受け付けていない』
『オリヴァー、出力を別系統へ逃がせるか?』
『やってみます』
複数の器具が触れ合う音がした。
『点検区画の補助回路に接続します。扉へ流れている出力の一部を移せれば、魔導回路で制御できる範囲まで下げられます』
『接続先の容量は?』
『容量は足ります。現在は使用されていない回路です』
『頼む』
アストリッドは測定器を両手で持ち直した。痺れは手のひらまで広がり、指に力を入れにくくなっている。
白い靄は区画全体に広がり始めていた。
『接続します』
短い作動音が響く。扉は動かなかった。
『出力は下がったか?』
『変わりません。補助回路との接続はできていますが、扉側の魔導回路が信号を受け付けていません』
『出力を移す信号そのものを受け付けていないのか?』
『はい』
器具の触れ合う音がした。
『経路を変えます』
『やってくれ』
アストリッドは壁に手をつこうと、一歩踏み出した。その瞬間、膝から力が抜ける。壁に手をついたが、腕にも十分な力が入らない。
「ロイさん」
掠れた声が漏れた。
『どうした?』
「痺れが……両手に広がっています」
『足は動くか?』
答えようと息を吸う。喉の痛みが増し、咳が込み上げた。
「脚に、力が……」
膝が折れた。壁に背を擦りながら、床へ崩れ落ちる。
測定器が手から離れ、硬い音を立てた。
『アストリッド!』
「大丈夫、です」
声がほとんど出なかった。
『大丈夫じゃない。無理に話すな』
防護マスクの表示が点滅する。吸収缶の有効時間は、すでに数分まで減っていた。
『別経路も反応しません』
『扉側の魔導回路が、こちらから送る操作信号をすべて受け付けていません』
『別系統への追加接続は可能か?』
『過剰な出力が流れ込んだ場合、接続先まで制御不能になります』
アストリッドは床に手をつき、身体を支えようとした。腕に力が入らない。上体が傾き、肩から床へ倒れ込む。
白い靄が床付近まで広がり、目の前が見えにくくなっていた。
『アストリッド、聞こえるか?』
「聞こえ……」
それ以上、声が続かなかった。呼吸が浅くなる。通信越しの声も、次第にはっきり聞き取れなくなる。
『返事をしろ、アストリッド』
まぶたが閉じかける。
そのとき、通信越しにユリウスの声が響いた。
『アストリッド! 目を閉じるな! 聞こえているなら、そのまま意識を保て!』
普段の静かな口調とは違う。アストリッドはまぶたを持ち上げた。
返事はできない。それでも、その声は聞こえていた。
『ロイ、状態は?』
『もう話すのも難しい。立てない。吸収缶も残りわずかだ』
少しの間、返事がなかった。
『もう猶予がない』
続けて、ユリウスが指示を出した。
『オリヴァー、補助回路との接続をすべて解除しろ。ロイは人手を集めろ』
『何をするつもりだ?』
『扉の駆動炉のコアを破壊する』
『現在の出力でコアを破壊すれば、魔導エネルギーが逆流します』
『分かっている』
『危険すぎます。別の方法を――』
『もう試している時間はない』
ユリウスの声に迷いはなかった。
『コアを破壊すれば、扉の駆動部へ流れている出力は止まる。閉鎖を維持している力がなくなれば、あとは手動で動かせる』
『この扉を人力で開けるのか?』
『一人では無理だ。だから人手を集めてくれ。コアを破壊したら、全員で扉を動かす』
『分かった』
『オリヴァーは出力を監視しろ。コアの反応が消えたら、すぐに知らせろ』
『承知しました』
『絶縁手袋を、この場にあるだけ集めてくれ』
金属の触れ合う音が続き、複数の足音が遠ざかっていく。
アストリッドは倒れたまま、通信の音を聞いていた。やがて足音が戻ってくる。
『これで全部です』
『分かった』
短い物音のあと、ユリウスの声が響いた。
『全員、駆動炉から離れろ』
足音が一斉に遠ざかる。次の瞬間、激しい衝撃音がした。甲高い放電音に通信の雑音が重なり、すべての声が途切れた。
雑音の中から、オリヴァーの声が聞こえた。
『出力低下! 駆動炉、停止しました!』
『開けろ!』
複数の足音が扉へ集まる。
『レールに沿って横へ押すぞ』
扉の向こうから、かすかな物音がした。
『一度で動かなくても手を離すな。力を合わせるぞ』
『せーの!』
声が重なる。厚い扉が低く軋んだ。だが、動かない。
『もう一度だ!』
再び、複数の声が上がる。金属の擦れる音が長く響き、閉ざされた扉が細かく震えた。
『動いた。そのまま押せ!』
扉の端に、細い隙間が開く。そこから白い光が差し込んだ。




