08 理想の伴侶
夜のフロアは、昼間とは別の静けさを持っていた。
照明は落とされ、点いている島は限られている。
魔導工学課と魔導薬理課の一角だけが、まだ動いていた。
書類の束が片付けられ、端末の画面が一つずつ落ちていく。
「……よし」
ロイが椅子の背にもたれ、短く息を吐く。
「メシ行こうぜ」
唐突だったが、誰も驚かなかった。
むしろ、遅かれ早かれ出る言葉だった。
「今日はさすがに腹減った」
「時間も時間だしな」
オリヴァーが腕時計を見て、ゆるく首を振る。
「すみません。今日はこのまま帰ります」
「珍しいな」
「妻のご飯を食べて、ゆっくり過ごしたいので」
言い方は柔らかいが、迷いはなかった。
ロイが口を開きかけたところで、先にタクトが微笑む。
「オリヴァーはいい旦那さんだね」
オリヴァーは少しだけ照れたように頷いた。
「……ありがとうございます」
「それが一番だ。帰ってあげなさい」
「はい。お先に失礼します」
オリヴァーが軽く頭を下げて島を抜ける。
背中が扉の向こうへ消えると、ロイが小さく息を吐いた。
「いい旦那だよな。ったく」
「君が言うと、褒め言葉かどうか迷うね」
「褒めてんですよ」
タクトは笑って受け流し、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、僕も行こうかな」
「珍しいですね」
「遅くなるって連絡してたから。妻子持ちはね、無断で遅くなるとものすごく怒られるんだよ」
穏やかな口調だが、妙に説得力があった。
ロイが納得したように頷く。
「ユリウスは?」
「行く」
それだけ言って、ユリウスは上着を取った。
ロイは最後に、アストリッドを見る。
アストリッドは、少し迷っているようだった。
「アストリッドは?」
「……」
一瞬、間が空く。
「都合が悪いなら、いいんだぞ?」
「都合というか……家に確認します」
アストリッドは立ち上がり、フロアを出る。
廊下の先で立ち止まり、声を落として電話をかけてきた。
戻ってきたアストリッドは、迷いの取れた顔をしていた。
「大丈夫です。行きます」
「何かあったのか?」
「家の献立を聞いていました。今夜はシチューなので」
「それで?」
「シチューは、翌朝でも食べられます」
「大丈夫じゃないのは?」
「……カニ、ですかね」
「カニなら僕も帰るよ」
タクトが即座にそう言って頷いた。
ロイはまあ確かにと納得し、ユリウスは小さく口許を緩める。
「じゃあ決まりだな」
ロイが先に通路へ出る。
タクト、ユリウス、アストリッドが続いた。
「何か食べたいもの、ある?」
「なんでもいいよ。みんなが食べられるものがいい」
「俺もなんでもいい。温かいなら何でも」
タクトとロイの答えはいつも通りだった。
視線が自然にユリウスへ向く。
ユリウスは歩きながら、少しだけ考える素振りを見せた。
「ホタテ」
「具体的だな」
「いいね、ホタテ」
次に、アストリッドへ視線が移る。
アストリッドは少しだけ迷ってから、素直に言った。
「……エビがあれば」
「海鮮か」
「この時間だと、居酒屋が多いね」
「海鮮で、重くなくて、静かなところ。あるか?」
「この辺りだと店が限られるな」
「……ジョンの実家は?」
ロイがふと思い出したように言った。
昨日の歓迎会の会場。
掘り炬燵のある料亭。
「またか」
「でも、あそこなら遅くてもやってる。たぶん」
「予算の範囲で、いろいろ出してくれるしね」
「省からも近いですよ」
「じゃあ、そこだな」
タクトが携帯端末を取り出し、その場で電話をかけた。
短い確認だけで話は終わる。
「大丈夫だそうだ。今からでも問題ない」
行き先は、結局ジョンの実家の料亭になった。
昨日と同じ場所。
「酒は……まあ、いいか。明日起きれなくなる」
「だろうな」
ユリウスの同意にタクトもアストリッドも頷いた。
夜の通りは人影がまばらだった。
魔導省の周辺は、業務時間を過ぎると一気に静かになる。
街灯の下を歩く足音が、四人分だけ規則正しく続いた。
料亭に辿り着いて暖簾をくぐると、すぐに声がかかった。
「いらっしゃいませ」
昨日と同じ女将だった。
顔を見て、一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく笑う。
「あら、皆さん。今日はお仕事帰りですか」
「ええ。遅くなりまして」
「お疲れさまです。奥、使えますよ」
通されたのは、昨日より少し小さめの個室だった。
こちらも掘り炬燵で居心地が良かった。
上着を預け、席に着く。
自然と並びは昨日と似ていた。
ロイの前にタクトが座るとおしぼりが配られる。
「焼き物と煮物を中心に、あっさりしたもので。ホタテとエビも入れてください」
「かしこまりました」
女将が去ると、部屋に静けさが戻る。
皆が自然と肩の力を抜いた。
料理は思ったより早く運び込まれ始めた。
小鉢、椀物、焼き物。
湯気と香りが部屋に広がる。
「早いですね」
「遅い時間でも、段取りが良いのだろう」
ホタテは焼き物に、エビは小さな炊き合わせに入っていた。
ロイは椀を持ち上げ、一口含んでから目を細めた。
「……うま」
「美味しいね。魔導省の職員がよく使うのも分かるよ」
会話が途切れても、居心地は悪くならない。
ロイはふと、思い出したように呟いた。
「オリヴァーのやつ、今頃嫁といちゃついてんのか……」
「僻まないの。彼は理想的な旦那だね」
「で、アストリッドの理想は?」
「またその話ですか」
「話の流れだろ」
アストリッドは湯呑みを持ち上げて、落ち着くふりをした。
こういう話題は昔から苦手だった。
「……私より、背が高い人がいいです」
「気にしてんの?」
「かなり」
「他には?」
「優しくて、気遣いのできる、穏やかな人がいいです」
言い切った瞬間、ロイが即座に食いついた。
「オリヴァーじゃん」
「既婚者の方は対象外ですよ」
「真面目だな」
「私のことはいいんです」
アストリッドがそう言うと、ロイは箸を止めずに肩をすくめた。
タクトは見かねてロイに水を向ける。
「そう言うロイは理想の嫁、ないの?」
「ありますよ。俺は、朝に優しく起こしてくれる人がいい」
「それは大事な条件だ」
朝に弱いロイには死活問題だった。
ロイがふと顔を上げる。
視線は、黙って食べ進めているユリウスに向いた。
「ユリウス、さっきから黙ってるけどさ。理想の嫁、あるだろう」
「ない」
「ないわけがない」
ロイは引かない。
声は大きくないのに、妙に圧がある。
言い切るロイに、タクトが困ったように笑う。
「追い詰めると余計に言わないよ」
「だって、絶対あるじゃん」
タクトの宥める声にも、ロイは納得しない。
ユリウスは表情を崩さず、言葉を増やす気配がない。
アストリッドは、会話が変な方向へ転がりそうになるのを感じて、黙っていることにした。
こういう時に深入りすると、自分にも火の粉が飛んでくる。
静かな個室には、箸の触れる音と器が置かれる気配だけが残った。




