39 大好きな手
2026.10.26 修正
39 大好きな手
診察室で、ユリウスは左手を開いた。それから、ゆっくりと指を曲げる。以前より滑らかに動くようになっていたが、右手と比べれば、まだ少しぎこちない。
「もう一度、握ってみてください」
医師に言われ、ユリウスは指を曲げた。今度は最後まで握る。アストリッドは隣の椅子から、その手を見ていた。
「順調ですね。握る動作はかなり戻っています。日常生活で使う分には、困ることも減ってきたでしょう」
ユリウスが頷く。
「ただ、細かい動作はまだ右手ほど滑らかではありません。無理に力を入れず、今までどおり動かしてください」
アストリッドはもう一度、その左手へ目を向けた。北部供給施設の事故で負傷した手だった。入院していた頃は、思うように動かすこともできなかった。今はもう指を曲げ、手を握ることもできる。
診察のあと、別の部屋へ移った。ユリウスは指示された動作を順番に繰り返した。指を一本ずつ曲げ、開く。小さな器具を持ち上げ、決められた場所へ移す。握る動作はできても、細かく指を動かすときには、まだ少し時間がかかった。
最後の器具を置くと、担当者が記録を付けた。
「今日はここまでです。前回より動きも良くなっています。次回も同じくらいの時期に来てください」
ユリウスが礼を言い、アストリッドも頭を下げた。
部屋を出て廊下を歩きながら、ユリウスは左手を一度開き、また握った。
「どうですか?」
「前より動かしやすい。引っかかる感じも減ってる」
「よかったです」
書類を持つときも、端末を操作するときも、以前より左手を使うようになっている。それでも、完全に元どおりになったわけではない。
「無理はしないでくださいね」
「してないよ」
アストリッドは少しだけユリウスを見つめた。その視線に気づいたユリウスが笑う。
「本当だって」
病院の待合室まで戻ると、二人は空いている椅子に腰を下ろした。会計を待つ間、アストリッドは膝の上に置かれたユリウスの左手を見た。メイソン教授と話した日にも、ユリウスはこの手を見せていた。
アストリッドはそっと手を伸ばし、その左手を両手で包んだ。ユリウスがこちらを見る。アストリッドは指先に触れ、親指で手の甲をゆっくり撫でた。
「痛くありませんか?」
「大丈夫」
アストリッドはそのまま左手へ目を落とした。
「私は、この手が好きです」
ユリウスの視線が止まる。
「私を助けてくれた、大好きな手です」
しばらく返事がなかった。アストリッドが顔を上げると、ユリウスは黙ってこちらを見ていた。やがて小さく息を吐き、視線を逸らす。
「……そういうこと、急に言うのやめて」
「嫌でしたか?」
「嬉しいから、困ってる」
アストリッドの頬が少し緩んだ。
「では、言ってよかったです」
ユリウスは何も答えなかった。アストリッドは包んでいた左手をもう一度撫でた。
「ユリウスさん?」
「……何でもない」
そう答えたユリウスは、なぜか少しだけ視線を逸らした。アストリッドは首を傾げたが、そのまま左手を包んでいた。
やがて会計に呼ばれ、二人は席を立った。手続きを終えて病院の外へ出る。
並んで歩き出したところで、アストリッドはユリウスの左手を取った。ユリウスがそちらを見る。アストリッドはユリウスの指の間へ、自分の指を入れた。一本ずつ絡ませるようにつないでから、きゅっと握る。
ユリウスの足が止まった。アストリッドも足を止め、振り返る。
「痛かったですか?」
「……違う」
ユリウスはつながれた手を見つめていた。アストリッドも同じところを見る。五本の指がしっかり絡んでいる。
「ちゃんと指も動いていますね」
嬉しくなって、もう一度きゅっと握った。
ユリウスが何も言わなくなった。代わりに、何かを堪えるように右手で目元を覆う。
「ユリウスさん?」
「……少し待って」
アストリッドは言われたとおり待った。つないだ手はそのままだった。
しばらくして、ユリウスは右手をゆっくり下ろし、アストリッドを見下ろした。目が合った瞬間、アストリッドの鼓動が速くなった。いつもの穏やかな目つきとは違う。視線を逸らさず、じっと見つめてくる。
アストリッドは思わず瞬きをした。ユリウスは何も言わない。ただ、絡んだままの指へ少しだけ力を込めた。
アストリッドはつながれた手へ目を落とした。まだ少しぎこちなさは残っている。それでも、こうして自分の指を握り返している。
「……本当に、よかったです」
「何が?」
声が少し低く聞こえた。
「ここまで動くようになって」
アストリッドは絡めた指を少し動かした。ユリウスの指もそれについてくる。
「こうして握ることもできます」
もう一度、きゅっと握る。隣から長い息が聞こえた。アストリッドが顔を上げると、ユリウスは何とも言えない表情をしていた。
「ユリウスさん?」
「……帰ろうか」
「はい」
二人はもう一度歩き出した。ユリウスの左手が、アストリッドの指を握り返す。まだ少しぎこちない。けれど、しっかりと力が返ってくる。アストリッドはそれが嬉しくて、つないだ手を見ながら微笑んだ。
「ユリウスさん」
「何?」
「このまま帰りましょう」
絡めた指を示すように、つないだ手を少し持ち上げる。ユリウスが黙った。アストリッドが隣を見る。また、あの目をしていた。
「……うん」
短く答えると、ユリウスは前を向いた。アストリッドもその隣を歩く。指を絡めた左手は、最後まで離れなかった。




