40 懐中時計
2026.10.26 修正
40 懐中時計
休日の朝、アストリッドは部屋の机に向かうユリウスの隣に立っていた。机の上には、開いた小さな工具箱と、アストリッドの懐中時計が置かれていた。祖母の形見で、ずっと大切に使っているものだ。
「最近、時間を合わせてもずれてしまうんです」
「中を見てみよう」
「お願いします」
ユリウスは小さな工具を手に取った。左手で懐中時計を押さえ、右手で作業を始める。以前より、左手はずっと動くようになっていた。日常生活で困ることもほとんどない。それでも、こうした細かな作業になると、まだ少し動きが遅い。アストリッドは黙ってその手元を見ていた。
ユリウスは慎重に蓋を開け、中を確認すると小さく笑った。
「さすがに、あのときほど汚れてないね」
アストリッドはその言葉に顔を上げた。
「覚えてないかな。僕が中を見るの、二度目なんだけど」
ユリウスは時計から目を離さないまま言った。アストリッドはしばらくその横顔を見つめ、それから机の上の懐中時計へ視線を戻した。
「覚えていますよ」
今度はユリウスが顔を上げた。
「覚えてるの?」
「もちろんです」
アストリッドは少し笑った。
「初等部一年のときです」
ユリウスが手にしていた工具を机へ置いた。
「本当に覚えてるんだ」
「忘れるわけがありません」
あの日、懐中時計は突然動かなくなった。祖母の形見だった。何度見ても、針は動かない。どうすればいいのか分からず、アストリッドは廊下の端で懐中時計を握りしめていた。
泣かないようにしていた。けれど、きっと泣きそうな顔をしていたのだと思う。
そこへ声をかけてきたのが、ユリウスだった。
「どうしたの?」
その頃はまだ、名前も知らない上級生だった。アストリッドは懐中時計を見せた。
「動かなくなってしまって……」
声まで震えていたことを覚えている。ユリウスはアストリッドの手の中を覗き込んだ。
「ちょっと見せて」
言われるまま、懐中時計を渡した。するとユリウスは、ポケットから小さな工具箱を取り出した。アストリッドは驚いた。学校で工具を持ち歩いている人がいるなど、思ってもみなかった。
ユリウスはマイナスドライバーで蓋を開けると、中に溜まっていた細かな汚れを先端で取り除いていった。最後に、ふっと息を吹きかける。小さな汚れが飛んだ。
蓋を閉め、ネジを回す。それから時刻を合わせ、最後にカチリと押した。止まっていた秒針が動き始めた。
あのときの嬉しさを、アストリッドは今でも覚えている。
「動いた……!」
思わず声を上げた。
「ありがとうございます!」
ユリウスは懐中時計を返しながら言った。
「応急処置だから、時計屋でちゃんと見てもらって」
アストリッドは両手で時計を受け取った。針は動いている。耳を近づければ、小さな音も聞こえた。
「何かお礼をしたいです」
「ちょっと掃除しただけだよ。大したことじゃない」
「でも……」
何か渡せるものはないかと探した。けれど、初等部一年のアストリッドが持っていたものなど、ほとんどない。ポケットに入っていたのは、三つの飴だった。
桃色。黄色。紫色。
大玉の飴を三つ、手のひらに並べた。
「これしかありません」
ユリウスはその手を見た。
「じゃあ、一つもらおうかな」
少し迷って、紫色の飴を取る。
「僕、ぶどうが好きなんだ」
紫色の飴を見ていたユリウスが、アストリッドへ視線を移した。目が合った。
「君の瞳と同じだね」
アストリッドは何も言えなくなった。ただ、手のひらに残った二つの飴を見つめた。きっと顔も赤くなっていた。
それでも、このまま別れてしまうのは嫌だった。
「あの」
「何?」
「お名前を聞いてもいいですか?」
上級生は少し意外そうな顔をした。
「ユリウス・ルーメン」
アストリッドはその名前を、心の中でもう一度繰り返した。忘れないように。
「私は――」
「アストリッド・シルヴェルだろう」
今度はアストリッドが驚いた。
「どうして知っているんですか?」
「新入生代表だったから。覚えてる」
それが、二人が初めて話した日だった。
机には、先ほどユリウスが置いたマイナスドライバーがあった。
「僕は、君が覚えてないと思ってた」
「どうしてですか?」
「三学年離れてたから」
初等部では階が違い、顔を合わせることはほとんどなかった。中等部、高等部へ進めば、校舎も違う。研究院でアストリッドが一年、ユリウスが四年として在学期間が重なるまで、二人が言葉を交わすことはなかった。
「でも、私は覚えていました」
あの日、ユリウスの名前を知った。その後、いつも首席の上級生だと知り、いつしか憧れるようになった。
「前に話しましたよね。ユリウスさんの背中を追いかけていたって」
「うん」
「私は、憧れていたからだと思っていたんです」
アストリッドは机の上の懐中時計を見る。
「でも、その頃から気になっていたんですね」
あの日、名前を知りたいと思った。それからユリウスが首席だと知り、自分も首席を目指すようになった。
「もしかすると、あれが私の初恋だったのかもしれません」
ユリウスが黙った。しばらくして、ゆっくり口を開く。
「僕も、君のことは覚えてたよ」
三学年離れていたため、話す機会はほとんどなかった。それでも。
「たまに君を見かけると、目で追っていた。あのときの子だって。研究院で久しぶりに見かけたときも、すぐ分かったよ」
「どうしてですか?」
ユリウスが少し笑った。
「紫色の目をした、懐中時計の子だったから」
アストリッドは懐中時計へ視線を落とした。知らなかった。ずっと、自分だけがユリウスを見ていたのだと思っていた。
「……もしかして僕も、あれが初恋だったのかな」
アストリッドは顔を上げた。ユリウスも、今まで気づいていなかったらしい。ただ、覚えていた。見かければ目で追った。何年経っても忘れなかった。アストリッドも、その気持ちが何だったのか、今まで考えたことがなかった。
「私たち、気づいていなかったんですね」
「そうみたいだ」
ユリウスが笑った。けれど、その笑みが途中で止まる。視線がアストリッドの左手へ落ちた。薬指には、結婚指輪がある。ユリウスは自分の左手を見る。そこにも、同じ指輪がある。
「今になって初恋だったって気づいた相手が、僕の妻だったんだ」
アストリッドも、自分の薬指へ視線を落とした。顔を上げると、ユリウスがじっとこちらを見ていた。
「ユリウスさん?」
椅子が動いた。ユリウスが立ち上がる。次の瞬間、強く抱きしめられた。
アストリッドも、その背中へ腕を回す。学生の頃から、何度も見てきた背中だった。今は、その背中に腕を回すことができる。
「愛してる」
抱きしめる腕に力がこもった。
「私も、愛してます」
ユリウスが少しだけ身体を離した。頬に手が触れる。そのまま唇が重なった。
一度離れる。すぐに、もう一度。今度は長かった。
ようやく唇が離れ、アストリッドが息をつく。けれど、また口づけられる。
「ユリウスさん……」
名前を呼んでも、ほんの少し離れるだけだった。また唇が重なる。離れて、また重なる。
次の口づけが来る前に、アストリッドはわずかに顔を逸らした。
「ユリウスさん、待ってください」
ユリウスの動きが止まった。ほんの少しだけ。
「……無理だ」
すぐに、また唇を重ねられた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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現在、アストリッドとユリウスの物語の続編も執筆中です。
続編でも、二人の物語を楽しんでいただけるよう、執筆を進めています。




