30 結婚指輪
2026.10.26 修正
30 結婚指輪
アストリッドは本部の机で、周辺の測定結果を地図に書き込んでいた。中和処理を終えた場所から記録が届き、エミールが地点と時刻を確かめている。
テントの入口に、見覚えのある女性が立った。総務省との合同会議で、ユリウスを何度も誘っていた職員だった。手には資料と端末を持っている。
「お疲れさまです。避難区域の見直しについて、確認に来ました」
タクトが地図を女性の方へ向けた。
「今、処理後の測定結果を集めています。こちらは確認が済みました」
「南西側もですか?」
「道路沿いまでは。住宅の間は、追加の結果を待っています」
女性は自分の資料を開き、地図と見比べた。
「この道路を境に、帰宅できる区域を分ける案が出ています。ただ、同じ通りの両側で対応が変わるので、住民への説明が必要になります」
「確認が済んでいない側は、まだ待ってもらいたいです。新しい値が出れば、こちらから伝えます」
アストリッドは測定地点の一覧を机へ置いた。
「地点ごとの確認状況はこちらです。処理が終わった時刻と、その後の測定時刻を付けています」
「ありがとうございます。自治体に渡す資料にも、時刻を入れます」
女性は一覧を受け取り、未確認の地点へ印を付けた。
「次の連絡では、この範囲の結果を優先していただけますか。今夜の避難所の利用人数にも関わりますので」
「分かりました。調整します」
タクトが通信端末を取り、測定を続けている職員へ連絡した。女性も端末を操作し、少し離れたところで自治体の担当者へ話している。
アストリッドは机に戻り、エミールと届いた記録を照合した。少し離れた机では、ユリウスが設備図を広げ、ブルーノに見せている。消防の担当者も一緒に見ていた。
「局長、現場で確認を終えた箇所はこちらです。回収した部材と運転記録は、今夜も確認を進めます」
ユリウスは左手で図面の端を押さえ、調査中の建屋を示した。
「現地の未確認箇所は、明日、発電所の担当者と順に調べます。損傷した壁も残っていますので、敷地内の立入規制は継続が必要です」
「分かった。関係する機関にも、その予定で伝えてくれ」
「はい」
通話を終えた女性が、そちらへ目を向けた。ユリウスが図面を閉じるのを見て、隣の机へ歩み寄る。
「ルーメン課長」
ユリウスが顔を上げた。女性は、図面を持つ左手へ視線を落とす。薬指の辺りを見てから、再び顔を見た。
「ご結婚されていたんですか」
「はい」
女性は一度瞬いた。
「存じませんでした。いつご結婚されたんですか」
「先月です」
ユリウスの口元が、わずかに緩んだ。先ほど設備図を説明していたときとは、声の調子も違う。アストリッドは一覧を持ったまま、その横顔を見た。
自分との結婚について答えている。普段どおりの短い返事なのに、顔が熱くなった。アストリッドは紙へ視線を落とした。
「先月……」
女性の声が聞こえた。
「そうでしたか。それで、会議を二度続けてお休みだったんですね。ご結婚の準備や、新婚旅行もありますものね」
ユリウスは何も答えず、机の上の資料を揃えた。
「お相手とは、どちらで知り合われたんですか」
「王立学院です」
「学院にいらした頃からのお知り合いなんですね」
女性は指輪から目を上げた。口元の笑みが薄くなり、次の言葉が出るまで少し間が空いた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ユリウスが微笑んだ。女性は資料を持ち直し、一礼してタクトの机へ戻った。タクトも通信を終え、女性の資料へ目を向ける。
「追加の結果が届き次第、そちらへ連絡します」
「お願いします。連絡先はこちらです」
女性は連絡先を示し、住民への周知に使う地図をタクトと確かめた。
先ほどまで、こちらへも向いていた視線が、今は資料と端末に向けられている。アストリッドが追加の記録を差し出すと、女性は受け取り、測定地点だけを確認した。
「この地点が最後ですね」
「はい。結果が届き次第、お伝えします」
「お願いします」
女性は本部を出て、自治体の担当者のいるテントへ向かった。
アストリッドは空いた机の端で、手元の紙を揃えた。ユリウスが資料を抱えて、その横へ来た。
「訂正しなくてよかったのですか」
声を落として尋ねると、ユリウスがこちらを見た。
「聞かれたのは、結婚した時期だからね」
「そうですが」
「知り合ったのも学院だろう?」
それは間違っていない。けれど、学院にいた頃は、ユリウスと結婚する日が来るとは思っていなかった。
アストリッドはその左手を見た。図面を押さえていた指には、今も指輪がある。
ユリウスは資料を鞄へ入れ、小さな声で続けた。
「僕たちのことを詳しく話す必要はないよ。君への態度は、僕も見ているから」
アストリッドは顔を上げた。
ユリウスは手を止め、こちらを見ている。会議であの女性に質問を重ねられたときも、隣で聞いていた。自分への態度にも気づいていたのだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ユリウスがまた口元を緩めた。アストリッドも笑みを返し、紙を机へ置いた。
「アストリッド、追加の結果が来た」
ロイに呼ばれ、二人とも顔を向ける。エミールが端末の画面をこちらへ向けた。
「南西側の残りの地点です。いずれも基準値を下回っています」
アストリッドは測定時刻と地点を確かめた。処理後の再測定が済み、地図上に残っていた未確認の印を消せる。
一覧を更新すると、タクトが資料をまとめ、消防の担当者と話していたブルーノへ向き直った。
「局長、周辺の結果は揃いました。自治体側に避難区域の見直しを進めてもらいます。確認のための測定は、このあとも続けます」
「ああ。その結果も知らせてくれ」
タクトは測定地点と時刻を付けた一覧を渡した。ブルーノが目を通す間、消防の担当者も地図で範囲を確かめている。
テントの外で投光器が灯った。入口から見える道路では、警察官が車両を誘導している。アストリッドは次の記録用の用紙を取り出した。
ユリウスは鞄を持ち上げ、オリヴァーのいる机へ戻った。二人は回収した部材の写真を開いた。アストリッドもロイとエミールのもとへ向かう。交代する職員に渡す記録には、次に測定する地点と時刻を書き添えた。




