25 悪いようにはしない
2026.10.26 修正
25 悪いようにはしない
その日、アストリッドは何度もユリウスに話そうとした。仕事を終えて帰る車の中でも、夕食をとっている間も、どう言えばいいのか考えていた。風呂に入っているときも、髪を乾かしている間も、まだ考えていた。
嫌だったなら、嫌だったと言えばいい。ロイにはそう言われた。けれど、実際にユリウスを前にすると、何から話せばいいのか分からなくなる。
結局、寝る前になった。
先に風呂を済ませていたユリウスは、ソファでくつろぎながら端末で何かを読んでいた。アストリッドはその隣に座った。ユリウスが端末から顔を上げる。
「どうしたの?」
「少し、話してもいいですか」
「もちろん」
ユリウスは端末を閉じて、テーブルに置いた。もう言うしかない。
「昨日の合同会議のことなんですが」
「昨日?」
「会議が終わったあと、総務省の方に誘われていたでしょう」
ユリウスはすぐに思い当たったらしい。
「ユリウスさんが誘われているのを見るのが、嫌でした」
「すぐに断ったよ。また誘われても断るけど」
「それは分かっています」
ユリウスは戸惑った表情を見せた。
「じゃあ、何が嫌だったの?」
アストリッドは、昨日から何度も考えたことを言葉にする。
「あの方がユリウスさんに好意を持っていて、それで何度も誘っていることです。ユリウスさんが応じるとは思っていません。昨日も断っていましたし、これからも断ると思っています」
ユリウスは黙って聞いている。アストリッドはそこで一度言葉を切った。
「でも、それとは別に、嫌なんです」
ユリウスは、まだよく分かっていない顔をしている。アストリッドは少し迷ってから続けた。
「自分でも昨日まで、どうしたらいいのか分かりませんでした。それで今日、セシリアとロイさんに相談したんです」
「ロイに?」
「セシリアにもです」
「何て言われたの?」
「妬いているだけだと言われました」
ユリウスが一度瞬いた。それから、アストリッドの顔をじっと見る。
「……妬いてる? アストリッドが?」
「そうだと思います」
ユリウスはしばらく黙っていた。やがて、口元を緩めた。アストリッドは眉を寄せる。
「どうして嬉しそうなんですか」
「嬉しいから」
「私は昨日からずっと困っていたんですが」
「それはごめん。でも、アストリッドが妬いてくれたんだと思ったら、嬉しい」
「私は妬きたかったわけではありません」
「分かってるよ」
ユリウスはアストリッドの手を取った。そのまま指を絡める。
「それを僕に言ってくれたのも嬉しい」
「ロイさんに、言えばいいと言われたので」
「ロイに言われないと、言ってくれなかった?」
「どう言えばいいのか分からなかったんです。今日も一日考えていました」
「一日?」
「相談したあとから、帰りの車でも、夕食のときも。お風呂でも考えていました」
そこまで言ってから、アストリッドは付け加えた。
「髪を乾かしているときもです」
ユリウスの笑みがさらに深くなった。
「どうしてまた嬉しそうになるんですか」
「ずっと僕のことを考えてたんだろう?」
「そういう意味で考えていたわけではありません」
「僕に何て言おうか考えてたんだから、同じだよ」
「違うと思います」
ユリウスはつないだ手を軽く引いた。アストリッドの身体が近づく。そのまま肩を抱かれ、頬に口づけられた。
「ユリウスさん、さっきからずいぶん機嫌がいいですね」
「すごくいい」
「私は嫌だったという話をしているんですよ」
「分かってる。アストリッドがかわいいから」
「かわいくありません。困っていたんです」
「それがかわいい」
「ユリウスさん」
返事の代わりに、また頬に口づけられた。今度は額にも口づけられる。アストリッドはユリウスを見る。
「もしかして、楽しんでいませんか」
「少し」
「少しですか?」
「かなり」
素直に言われた。アストリッドは何も言えず、まだ笑っているユリウスを見た。
「アストリッドが僕を好きなのは知ってるよ。僕もアストリッドが好きだし、それは分かってるだろう?」
「分かっています」
「でも、妬いてくれるとは思ってなかった」
「私も、こんな気持ちになるなんて思いませんでした」
「だから嬉しい」
そう言って、ユリウスは唇に口づけた。一度離れた唇が、もう一度触れた。アストリッドはそのままユリウスの胸元に手を置いた。
昨日のことを思い出しても、総務省の女性に対する気持ちがなくなったわけではない。また誘うつもりなのだと思えば、やはり嫌だった。けれど、昨日とは少し違っていた。
「アストリッド。僕が好きなのはアストリッドだよ」
「知っています」
「知ってても言うよ。他の人に誘われても行かないし、一緒にいたいのはアストリッドだから」
ユリウスは髪を撫で、それからまた額に口づけた。
「またこういうことがあったら、言って」
「嫌だったことをですか?」
「僕に何かしてほしいことがあるなら、それも言ってほしいけど、なくてもいい。アストリッドがどう思ったかは知っておきたい」
アストリッドはユリウスの服を軽くつかんだ。
「昨日は、それが分かりませんでした。言って、どうしようと思っていました」
ユリウスの胸元に置いた手を見ながら、続ける。
「ユリウスさんはもう断っているのに、私が嫌だったと言っても、何も変わらないでしょう」
少し間を置いた。
「でも、言ってよかったみたいです」
ユリウスの表情がまた明るくなった。
「もっと言って。僕のことが好きだって」
「話が変わっています」
「変わってないよ」
「変わっています」
ユリウスは否定しながら、またアストリッドを抱きしめた。髪に口づけ、頬に触れる。
「ユリウスさん、今日はずいぶん機嫌がいいですね」
「アストリッドがかわいいから仕方ないよ」
「そればかりですね」
「今日は何度でも言いたい」
そう言って、ユリウスはまた額に口づけ、続けて頬と唇にも口づけた。
アストリッドはされるままになりながら考える。妬いて嫌な気持ちになったと伝えただけなのに、夫はすっかり機嫌がよくなっている。
「ロイさんが、ユリウスさんなら悪いようにはしないと言っていました」
「ロイが?」
「そう言っていました」
「それなら、期待に応えないとね」
「もう十分だと思います」
「僕はまだ足りない」
そう言って、ユリウスは腕に力を込め、アストリッドを抱き寄せた。アストリッドもその背に腕を回した。
嫌だったことを口にしただけだった。それで何が変わるのか、昨日までは分からなかった。少なくとも今は、言わずに一人で考えていたときより、ずっと気持ちが楽だった。




