17 憧れていた背中
2026.10.26 修正
17 憧れていた背中
終業時刻を過ぎ、アストリッドは端末を閉じた。周囲でも、職員たちが少しずつ帰り支度を始めている。アストリッドが鞄を持って席を立つと、少し離れたところでユリウスもジャケットを羽織った。二人で魔導災害局を出て、魔導省のロビーへ向かう。
正面玄関を出ると、迎えの車がすでに停まっていた。運転手が後部座席の扉を開ける。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
アストリッドが乗り込み、その隣にユリウスが座った。車が動き出し、王都の街中を進んだ。
「今日は左手、大丈夫でしたか?」
「うん。昨日より動かしやすかった」
ユリウスが左手を持ち上げる。親指と人差し指だけではなく、ほかの指も少しずつ動かせるようになっていた。それでも、まだ完全には戻っていない。
「無理はしないでくださいね」
「分かってる」
「昨日もそう言っていました」
「今日は本当に無理してないよ」
アストリッドはユリウスの左手を見た。
「なら、いいです」
ユリウスが少し笑った。
それからは、今日の仕事について話した。東部施設で見つかった回路。南部施設から届いた報告。
調査はまだ始まったばかりだった。見つかった回路についても、現時点では確認しなければならないことの方が多い。
しばらくして、車はルーメン家の敷地へ入り、玄関前で停まった。二人は使用人に出迎えられ、リビングへ向かった。中にはユリウスの両親がいた。
「おかえりなさい」
「ただいま帰りました」
「ただいま」
ユリウスの母がアストリッドを見る。
「今日は少し遅かったのね」
「調査の報告がありまして」
「そう。お疲れさま」
ユリウスの父も手元の資料から顔を上げた。
「夕食はいつもどおりでいいか?」
「はい」
「先に着替えてきます」
「ええ。夕食までゆっくりしていらっしゃい」
二人でリビングを出た。廊下を歩き、夫婦の部屋へ入る。扉が閉まった。
ユリウスが鞄を置き、ジャケットを脱ぐ。アストリッドも自分の鞄を置き、上着を脱いだ。ユリウスはジャケットを掛け、ネクタイに手をかける。左手も添えたが、途中で離し、右手だけで結び目を緩めた。アストリッドは何も言わず、その様子を見ていた。
以前なら、仕事が終わればそれぞれ別の場所へ帰っていた。今は同じ車で帰り、同じ家へ入り、同じ部屋で着替える。結婚してから毎日繰り返していることだった。それでも、まだ慣れないことは多い。
アストリッドは自分の上着を掛けながら、ユリウスの後ろ姿を見た。学生の頃から、何度も見てきた背中だった。ユリウスはアストリッドより三学年上で、在学中は常に首席だった。
同じ学院にいても、三学年離れていれば話す機会はそう多くない。今は、その本人が自分の目の前にいる。しかも、夫として同じ部屋にいる。
アストリッドは手を止めた。少し考えてから、ユリウスへ近づく。
ネクタイを外しているユリウスの背中に頬を寄せる。シャツの布が頬に触れた。そのまま両腕を腰へ回す。ユリウスが動きを止めた。
「アストリッド、どうしたの?」
「……何となくです」
腕を緩めずに答える。ユリウスもそのまま動かなかった。
アストリッドは背中に頬をつけたまま、目の前のシャツを見る。学生の頃には、こんなふうに触れることも、結婚することも考えたことがなかった。今は、自分から腕を回している。
「どうして背中なの?」
アストリッドは少し考えた。
「学生の頃、ユリウスさんに憧れていたんです。ずっと首席だったでしょう」
「そうだね」
「それを知って、私も首席になりたいと思ったんです」
本人に話したことは、これまでなかった。言葉にすると、少し恥ずかしい。
「学院でユリウスさんを見かけると、もっと勉強しようと思っていました」
「そんなふうに見られていたとは知らなかった」
「言っていませんから」
「確かに」
ユリウスが小さく笑った。アストリッドもわずかに口元を緩めた。
「だから、ユリウスさんの背中を見るのが好きだったんです」
「今も、僕の背中が好きなの?」
「好きです」
すぐに答えた。ユリウスが少し黙る。
「僕のことは?」
今度は、少しだけ言葉に詰まった。答えは決まっている。それでも、口にするのは恥ずかしかった。アストリッドはユリウスのシャツに頬をつけたまま、小さく答えた。
「……大好きです」
ユリウスが動かなかった。アストリッドも腕を回したままでいる。返事がない。
自分から言った言葉をもう一度考える。大好きです。間違ってはいない。それでも、本人に伝えたと思うと頬が熱くなった。
「ユリウスさん?」
やがて、腰に回したアストリッドの手に、ユリウスの右手が重なった。
「少しだけ離して」
「はい」
アストリッドが腕を緩める。ユリウスは振り向き、そのままアストリッドを抱きしめた。右腕が背中へ回る。左腕も、ゆっくりとアストリッドの身体に添えられた。
「ユリウスさん?」
「顔を見たかった」
アストリッドは顔を上げた。ユリウスは笑っていた。職場ではほとんど見せない表情だった。
「僕も大好きだよ」
頬がさらに熱くなる。さっき自分から言ったばかりなのに、返されると恥ずかしい。
「……はい」
それでも、離れようとは思わなかった。ユリウスの左腕が自分に触れている。左手は、まだ自由には動かせない。事故の日、その腕を傷つけてまで自分を助けてくれた。
アストリッドは何も言わず、ユリウスのシャツを軽くつかんだ。
ユリウスが少し顔を近づける。何をするのかは分かった。アストリッドは目を閉じた。




