14 魔導災害
魔導災害局のフロアは、朝の雑音で満ちていた。
端末の起動音、紙の擦れる音、短い挨拶。
「おはよう、アストリッド」
どこからともなく声が飛ぶ。
アストリッドは反射で笑みを作り、答えた。
「おはようございます」
その日の午前も、いつも通りだった。
淡々と業務をこなしていくうちに、気持ちの輪郭が薄れていく。
気持ちを奥底に仕舞い、取り繕うのは昔から得意だった。
そう思った矢先、局内の警報が短く鳴った。
局長席の端末に通知が飛び込み、次長席が立つ。
局長が即座に判断を下す。
「出動準備。規模が大きい。工学と薬理は全員、他は半数、出動だ」
空気が一段引き締まった。
全員が訓練通りに動き出す。
アストリッドも立ち上がる。
仕事に切り替わる瞬間、余計な感情は置いていける。
そう判断して、装備の確認へ意識を切り替えた。
◇
大規模な魔導充填施設で魔導回路が安定せず、施設内の操作系統があちこちで不具合を起こしていた。
電気系統はまだ一部残っているが、完全に制御が落ちる前に手動で操作する必要がある。
現地の職員はアルカリ性槽の停止と排出を、魔導薬理課は酸性槽の停止と排出を行うことになった。
到着して建物に入ると、空気が刺すように湿っていた。
酸と金属と、焦げの匂いが混ざっている。
アストリッドはアッシュと組み、酸性槽のある区画へ向かった。
扉を開けると塩酸ガスが多く発生している。
「先輩、ここ……」
アッシュが眉を寄せる。
アストリッドは短く頷き、手動の供給バルブへ向かった。
制御が不安定なとき、電動の動作を信用しない。
手で止め、目で確認する。
「供給、停止」
一つずつ確かめながら、酸性槽への供給を遮断する。
次は排出だ。
塩酸が満たされた槽を、安全排出ラインへ落とし切らなければならない。
「アッシュ、排出」
「はい!」
アッシュは手動の排出バルブを回す。
手順通りに操作を始めた。
全て開くと配電盤を確認する。
まだ制御は落ちていなかった。
アストリッドは槽の排出を目視していた。
流量、圧、排出の進み、途中で詰まれば危険が跳ね上がる。
排出が進み残留が減っていく。
安全に落ちきるまで、あと少し。
排気ファンの音が停止した。
照明が一瞬揺らいで消え、機械音が途切れる。
制御が、こちらでも落ちた。
手動のはずの排出が止まった。
同時に、背後で扉が滑る音がした。
スッ――
振り返ったときには、既に扉が閉じていた。
一瞬のことだった。
警告音も、予告もない。
「……!」
「先輩!」
アッシュが扉へ駆け寄り、拳で叩く。
「先輩!なんで――」
横に引いても、びくともしない。
そもそも手動の取っ手がない。
内側から開ける前提の構造ではない。
「落ち着いて、アッシュ」
声は自分でも驚くほど平らだった。
アッシュは息を荒げたまま端末を操作し、制御室へ繋ぐ。
「ロイさん!タクトさん!扉が閉まりました! 先輩が中に――!」
すぐに制御室にいたロイとタクトが駆けつけた。
タクトが扉の継ぎ目を確認し、ロイがロック機構の位置を探る。
三人で押す。叩く。揺らす。けれど扉は沈黙したままだ。
「ロイ、配電盤を探せ」
タクトが短く言い、ロイが視線を走らせる。
自動扉の配電盤。
この区画のどこかにあるはずだが、扉の近くにも壁面にも見当たらない。
「この部屋じゃないのか……」
ロイが舌打ちを堪え、扉の向こうへ声を張った。
「アストリッド!聞こえるか!」
扉越しに、わずかな反響が返る。
「はい」
アストリッドの声は届いた。
それだけで場の空気が少しだけ動く。
「ゆっくり息をしろ!状況を言え!」
「排出、換気が停止。槽内は……まだ残っています。照明も落ちて非常灯のみです」
言いながら、胸の奥が静かに重くなる。
排出が止まり、換気も止まったまま閉じ込められた。
最悪の組み合わせだ。
防毒マスクは使用を始めてから、もう一時間以上になる。
塩酸ガスの濃度が増せばマスクの性能が先に尽きる。
アストリッドはその事実を、頭の端に置いた。
数値として置く。恐怖として置かない。
恐怖にすると呼吸が乱れる。
呼吸が乱れると体力が削れる。
体力が削れれば判断が鈍る。
「工学だ!アッシュ、ユリウスを呼べ!」
タクトが即座に指示を飛ばす。
「了解!」
足音が遠ざかる。
ロイは再び扉の前に戻り、低く言った。
「アストリッド、時間を稼げ!できることをやれ!」
時間を稼ぐ。
できること。
「……分かりました」
返事はした。
けれど胸の奥は静かに冷えていた。
昨夜、廊下で冷えたのと同じ温度。
自分は、こういうふうに終わらせるのが得意だ。
終わらせてしまえば、揺れない。
その冷えに飲まれかけたときだった。
外側の足音が、明確に増える。
誰かが走ってくる。
呼吸の荒い、速い足取り。
そして、扉の向こうから聞き慣れた声が落ちた。
「アストリッド!」
一瞬、世界の色が変わったように感じた。
その声が、昨夜の冷えを一枚だけ剥がす。
「……ユリウスさん」
名前を呼んだ途端、喉が乾く。
扉越しの声は、優しくはなかった。
「諦めるな」
叱りつけるような一言だった。
けれど、それが妙に効いた。
アストリッドは、そこでようやく今の自分に気づく。
冷えることで、諦める方向へ寄っていた。
終わらせる癖が出かけていた。
――違う。
――今は、終わらせる場面じゃない。
ユリウスは外側で状況を一瞬で把握したらしく、声が次に変わる。
「扉の制御盤はどこだ」
「近くには見当たらない」
「探す。自動扉は必ずどこかに制御がある。電源系統を辿れば――」
扉の向こうで、ユリウスが制御盤を探して動き出す気配がする。
配線を辿る音。
壁面を確かめる足音。
短い指示。
アストリッドは扉横の壁に背中を預けて寄りかかる。
この空間に高い場所はない。
ガスの比重は重いから、できるだけしゃがまずに立っている。
アストリッドは深く一度だけ息を吸い、吐いた。
「必ず開ける。だから――」
言葉の途中で、金属が擦れる音がした。
ユリウスが制御盤を探し当て、手をかけたのだと分かった。




