閑話 歓迎会(公式) その後
駐車場の冷えた空気が頬を刺す。
ユリウスは少し離れた位置から、アストリッドが一度だけ周囲を見回すのを見ていた。
少し遅れて、黒塗りの車が静かに寄せてくる。
運転席から降りてきたのは、見覚えのある男だった。
アストリッドの兄だ。
アストリッドの背後からソフィアが覗き込み、勢いよく手を挙げた。
今夜のソフィアは、少なくとも酔い潰れてはいない。
ただ、頬にはまだ熱が残っているように見える。
緊張と高揚の名残だろうか。
アストリッドは兄に会釈し、ソフィアにも小さく頷いた。
二人は連れ立って後部座席へ乗り込み、ドアが閉まる。
その音が、夜の静けさの中で妙に大きい。
ユリウスはそれを見送った。
胸の奥に残っていた違和感は、夜気に触れても消えない。
彼女——アストリッドの言葉の端が平らだったこと。
自分の曖昧な返事が、彼女の中で別の意味に固まった気がすること。
「行くぞ」
ロイの声に、ユリウスは視線を戻した。
並んで歩き出す。
いつも通りの速度。
いつも通りの距離。
それが今夜に限って、息苦しい。
車へ向かう途中で足を止めたとき、ロイが横目で言った。
「お前、何かあったのか」
「なぜそう思う」
「勘だよ。帰ったら反省会だ」
冗談めいた単語なのに、声が冗談ではない。
ユリウスが何か返す前に、ロイは車へ乗り込む。
ユリウスも後に続いた。
◇
ユリウスの家の玄関灯が夜の中で静かに光っている。
敷地内の駐車場で降りると、ロイは迷うことなく後に続いた。
勝手知ったる歩き方だった。
執事が出迎え、ロイの顔を見て一瞬だけ目を瞬かせる。
しかしすぐに礼を整えた。
「お帰りなさいませ。ロイ様も」
「悪いな、急に」
ロイは軽く手を挙げただけで靴を脱ぎ、当然のように中へ進む。
「男同士で語ることがある」
応接間へ入る。
誰もいない時間帯だ。
それでもロイは、ここを自分の場にする。
ユリウスは遅れてソファに腰を下ろした。
ロイは向かいに座り、いきなり核心を撃った。
「それで、何があった」
ユリウスは一度だけ息を吐いた。
短く答えるほど楽ではない。
「……廊下で、アストリッドと話した」
ロイは頷き、続きを促す。
ユリウスは順序立てて言った。
「ずっと見ているだけではだめか、と聞かれた」
「それで?」
「見ていて落ち着くならそれでいい。でも……気づいたときには隣に別の誰かがいるかもしれない、と」
ロイの表情が変わる。
怒りではない。
判断が固まる顔だ。
「それで?」
ユリウスの喉が詰まった。
ロイは待つ代わりに、確かめる。
「想う人がいるか、聞かれたんだろ」
ユリウスは頷いた。
「……『いるのかもしれない』と答えた」
ロイは目を閉じ、こめかみを指で押さえた。
苛立ちを抑える癖だ。
「アストリッドは潔癖だ。曖昧なものを曖昧なまま置けない」
「……」
「お前が『いるのかもしれない』と言った瞬間、あの子は『いる』に変換する。しかも自分に都合の悪い方で。その結果、あの子がどうするかなんて……」
沈黙が落ちた。
リビングの時計が小さく鳴る。
「それで、お前の想う相手っていうのは、誰なんだ?」
ユリウスの喉が鳴った。
答えは一つしかないのに、口が動かない。
「それは……」
言いかけたところで、ロイの声が落ちる。
怒鳴りはしない。
その代わり、逃げ道だけを消す。
「いい加減、腹を割って話せ」
ユリウスは唇を引き結んだ。
逃げる理由が、もう残っていない。
ユリウスは唇を噛み、ゆっくり言った。
「……僕の想う相手は、アストリッドだ」
ロイは驚かなかった。
確認するように頷くだけだ。
「知ってる」
「なら、なぜ」
「お前が言わないからだよ」
正論だった。
ユリウスは何も返せない。
「僕は、あの場で言うべきじゃないと思った」
ロイは頷かない。
続きだけを待つ。
「歓迎会だった。皆がいた。ソフィアもいた。アストリッドは憧れの人がいると言った」
「そうだな」
「そこに僕の感情を落としたら、あの子が困ると思った」
ロイはソファにもたれ直した。
指先で膝を軽く叩く。
思考の癖みたいな動きだ。
「お前が言うべきじゃないと思ったのは分かる。でも、お前が言ったのはあの子の……潔癖なあの子の、一番の地雷だ」
ユリウスは握った手をほどき、掌を見る。
熱が残っている。
だがその熱は、彼女に届かない場所で空回りしている。
「僕は……怖いんだ」
口に出すと止まらない。
「断られるのが。距離を取られるのが。今の関係が壊れるのが」
ロイは鼻で小さく息を吐いた。
「壊れただろ、今夜」
ユリウスの胸が沈む。
壊れた。
まだ形になっていないだけで、ひびは入った。
「で、どうする」
「……分からない」
言った瞬間、自分でも情けない。
ロイが片眉を上げる。
「分からない、じゃない。そうやってお前は十九年も拗らせてんだよ」
「……拗らせてない」
「拗らせてる」
「当時初等部だった世代は知ってる、アストリッドの懐中時計」
ロイはそこで一度言葉を切り、ユリウスの顔を正面から見た。
軽口の形にしない、確かめる目だった。
「……あれを直したの、おまえだろ」
ユリウスは息を止めた。
小さな手。
壊れた蓋。
直したあとに向けられた、まっすぐな目。
ロイは続けた。
声は低いが、突き放す冷たさではない。
逃げ道を消す温度だ。
「今でもあの子が大事に使ってるのを知ってる」
否定しかけた唇が、動かない。
ロイはその沈黙を見逃さず、わずかに肩をすくめる。
「それをお前が、こっそり見てるのもな」
見ているつもりはなかった。
気づけば視線が行ってしまうだけだ。
ふとした拍子に覗く銀の縁。
それを追ってしまう自分を、誰にも悟られていないと思っていた。
ロイは言葉を重ねる代わりに、短く息を吐いた。
その仕草だけで、知っているのは“偶然”ではないと分かる。
「一目惚れして、三年前にあの子が局に来るまで接点もないまま、ずっと引きずって」
ロイはそこで少し視線を逸らし、壁の一点を見た。
苛立ちを整える癖のように。
「この二年の間に好きだと言えず、こんなことになってる」
ユリウスは指先を握りしめた。
反論が浮かばない。
浮かばないのではない。浮かぶ言葉は全部、言い訳になる。
ロイは声を落とした。
「鈍感なお前は気づいてないだろうが、アストリッドがうちの局に来たの、お前がいたからだぞ」
「……僕?」
「初等部の五、六年と研究院の四年しか被ってないのに。それでも、あの子はずっとお前を見てた」
その言い方が、妙に現実的だった。
ユリウスは喉の奥で息を詰める。
ロイが、確認するように問いを置いた。
「アストリッドの憧れの人、誰だと思う」
即答はない。
代わりに、ロイの視線がユリウスを捉えたまま動かない。
それから、静かに言った。
「さっきまで、お前だったんだよ」
断定だった。
胸の奥が遅れて熱を持ち、同時に冷えた。
廊下の会話が一本の線で繋がる。
自分の曖昧さが、彼女の中で結論になった。
「……僕が、潰したのか」
独り言に近い。
ロイは否定しない。
否定しないことが答えだった。
「拗れた十九年の続きは、お前が終わらせろ」
「……明日、仕事の後に話す」
「それがいい」
ユリウスは息を吸って吐いた。
明日、仕事の後に話す。
曖昧にしない。
彼女が綺麗に諦めきる前に。




