13 歓迎会(公式)3
廊下の灯りは薄く、宴会場のざわめきが襖一枚の向こうでぼやけて聞こえた。
笑い声が遠のくほど、自分の呼吸だけがはっきりする。
冷たい空気が肺の奥まで入って、熱を少しだけ落ち着かせた。
アストリッドは壁際に寄った。
下げた左腕の肘を、右手でそっと押さえる。
不安なとき、落ち着きたいときに無意識に出る癖だ。
ソフィアの声がまだ耳の奥に残っている。
可愛い後輩だ。
けれど恋愛の話になると、不思議なくらい大人になる。
長く付き合った相手と別れたばかりなのに、もう前を向いている。
痛みを痛みのまま抱えず、次の呼吸へ切り替えてしまう。
その切り替えの良さが、今は眩しかった。
アストリッドには、同じ速さがない。
まだ自分はこの気持ちに名前をつけることもできていないというのに。
宴会の熱に押されて、ほんの冗談のつもりで始まった問いかけが、いつの間にか核心に触れていた。
憧れの人がいるのか。
いるなら、どんな人か。
そして最後に、息を潜めるみたいな声で、ソフィアが言った。
「もし、その人にキスされたら、嫌ですか。嬉しいですか」
もし、キスされたら。
アストリッドはその先を少しだけ想像した。
触れられる前に、視線が合う。
あの人はたぶん、慌てない。
焦らない。
穏やかなまま、許可を待つように、こちらの反応を確かめる。
――そんな想像をしてしまった。
胸の奥が、小さく跳ねた。
息がひとつ浅くなる。
自分で自分の呼吸を数えてしまうくらい、静かだった。
嫌か。
嬉しいか。
軽い気持ちなら嫌だ。
そう思う。
けれど、あの人が軽い気持ちで触れてくるところが、どうしても想像できなかった。
嬉しい、と思ってしまった。
そう思ったこと自体が怖くて、アストリッドは唇を引き結んだ。
今のは違う。
そう決めつけようとする。
でも、胸の奥のざわめきだけが引かない。
アストリッドは小さく息を吐いた。
そして、誰にも聞こえない声で言い聞かせた。
「……何を考えてるの」
声に出したつもりはなかった。
吐息が言葉の形になって落ちただけだ。
そのとき、廊下の奥から足音が近づいた。
板の床を踏む、控えめな足取り。
アストリッドは反射的に背筋を伸ばした。
「……どうした」
低い声だった。
聞き慣れている。
聞き慣れているのに、今はそれだけで息が詰まる。
「ユリウスさん」
名前を呼ぶと、喉が乾く。
ユリウスは廊下の少し手前で立ち止まり、距離を保ったままこちらを見た。
宴会の席では見せない目だ。
静かで、余計なものを切り落としたみたいに澄んでいる。
その視線が、アストリッドの右手に止まった。
左肘を押さえる仕草。
それだけで、今の彼女の情緒が揺れていると察したらしい。
声の温度を上げずに、確かめるように言う。
「気分が悪いのか」
「いえ……少しだけ、頭を冷やしたくて」
アストリッドは視線を逸らし、左肘を押さえる指に、少しだけ力を入れる。
分かっているのに、胸の奥の火照りだけが引かない。
それを言葉にすれば形になってしまう気がして、怖かった。
「戻れるか」
「まだ、ちょっと……」
その短い返事のあと、ユリウスは一瞬だけ迷うように目を伏せた。
そして、軽い調子で、けれど確認だけは外さずに続ける。
「僕は、いない方がいい?」
「そんなことはないです」
アストリッドは即答してしまって、遅れて自分の声の速さに気づいた。
恥ずかしくて言い直せない。
視線を落とす。
ユリウスは、こちらの躊躇いを責めないまま、少しだけ口元を緩めた。
「あいつらも、君を心配して口を出すのだろうが、ノリが男子学生のままだからな」
「そうですね」
「デリカシーがない。嫌なら、その場で説教してやるといい」
「説教……」
「君が叱れば、絶対に聞く」
良くしてもらっている人たちに、叱るなんてできない。
アストリッドが口ごもると、ユリウスは淡々と付け足した。
「さっきはソフィアに追い出されて、しばらく反省していた」
移動した先のテーブルで、男たちが珍しく静かだったのをアストリッドは思い出した。
あの沈黙は、気まずさではなく――反省の形だったのか。
そう思うと、胸の奥の張りがほんの少しだけ緩んだ。
「そうでしたか……」
「同性にしか言えないこともある」
ユリウスは視線を外し、廊下の先を見たまま動かない。
急かす気配がない。
「……ずっと、見ているだけでは、だめでしょうか」
ユリウスはすぐには答えなかった。
ほんの一拍、呼吸を置く。
「見ていて落ち着くなら、それでいい」
淡々と言い切ってから、少しだけ言葉を足す。
「ただ……気づいたときには、もう隣に別の誰かがいるかもしれない」
アストリッドの右手が、左肘を押さえる力をわずかに強めた。
胸の奥がきゅっと縮む。
その言い方が助言の形をしているのに、どこか自分のことみたいに聞こえる。
「僕は恋愛経験がないから……確かなことは言えないが」
「それでも、そう思うんですね」
「……そんな想像をしただけだ」
「想う人が、いるんですか」
返事はすぐには来なかった。
肯定も否定もせず、ほんの少しだけ間が落ちる。
「……いる、のかもしれない」
「そうでしたか……」
その瞬間、胸の奥で揺れていた熱が、音もなく冷えていった。
けれど、表情には出さなかった。
アストリッドは息を整えるふりをして、左肘を押さえる手をゆるめる。
落ち着いたように見せるのは、昔から得意だ。
「……戻ります」
声音は平らだった。
ユリウスも、それを「戻れる」の返事として受け取ったらしい。
短く頷いて、先を譲る。
今まで揺れていた熱が、急速に冷めていった。
アストリッドは平静な顔で宴会場へ戻った。
襖を閉めると、温い空気と笑い声が一斉に押し寄せる。
さっきまでの冷えは消えて、代わりに畳の匂いと酒の匂いが鼻に残った。
席に戻るやいなや、いわゆる「お兄ちゃんたち」が、そろって気まずそうな顔をした。
「悪かったな、調子に乗った」
「ごめん。ああいうの、嫌だったよな」
「……配慮が足りなかった」
口々に謝られて、アストリッドは小さく首を振る。
「大丈夫です。気にしていません」
声も表情も、いつも通りに整っていた。
整えてしまえば、あとは楽だ。
ここから先、感情が揺れることはない。
揺れそうな芽を、胸の奥から切り離してしまえばいい。
さっき廊下で聞いた、あの曖昧な答えがまだ耳に残っている。
想う相手がいる。
いるのかもしれない。
まだ隣にいないだけで、心がもうすでに誰かのものなら——いらない。
アストリッドは良くも悪くも、精神的に潔癖だった。
奪ってまで欲しいとは思えない。
不倫も、不誠実な交際も、彼女にはどうしても不潔に感じる。
人の気持ちを踏み荒らして、自分の手に入れるような形は、好きになれない。
だから、想う相手がいる人に、自分の想いを告げることはしない。
その人の心がどこを向いているのか分からないうちは、なおさらだ。
ただ、見ているだけでいい。
一日の大半を占める仕事の中で、声を聞ける。
並んで歩ける。
必要な言葉を交わせる。
それで十分だと思うことにする。
そう思わなければ、綺麗に保てないものがある。
アストリッドはグラスを取り上げ、ゆっくりと口をつけた。
喉を通る冷たさで、胸の奥の痛みまで薄まる気がした。
そうしてまた、いつもの席の顔に戻る。
それが一番、安全で、一番正しい。
——少なくとも、今夜のうちは。




