◆第9話「沈まない艦と、誇りのかけら」
①「お祭りの後片付け」
青空に散った煙幕の色は、もうとっくに風に流されていた。
空中演習祭が終わり、訓練空域の一角は、まるで嵐のあとの縁日跡地のような光景と化していた。
各艦隊がせっせと装飾を剥がし、浮遊ステージを畳み、仮設ブースをたたんでいる。
そこには、戦闘演習で見せる精密な動きではなく、どこか人間臭い「片付ける人たち」の姿があった。
クラウゼ号も例に漏れず、朝から大忙しだ。
「うわっ、風砲の弁が勝手に回ってるー!? ちょっ、マルグリットさーん!」
「はいはい止めた止めた。……って、あれ、これどっか噛んでるな?」
「艦長、すみません! 屋台風ののぼり旗が空中アンカーに絡まってしまって!」
「えっ、それ私が飛んで回収……しなくていい? ならよかった……」
煙幕発生装置は回収時に謎の赤煙を噴き上げ、誰かの顔を真っ赤に染める。
「トマト味だコレ!」と叫んだマルグリットの声が空に響いた。
リリィはその光景を、少しぼんやりと眺めていた。
昨晩の興奮と緊張が抜けきらず、寝不足と疲労がじわじわと足にきている。
だがそれでも、艦内の誰かが呼べば、とことこ歩いて手伝いに向かうのだった。
「艦長、ちょっとここ持っててもらえますか? ……よし、これでフラッグポール撤収完了です!」
「うん、ありがとう。……エレナ、今の声、ちょっと元気出た」
そう。みんな、疲れてるはずなのに、どこか楽しそうだった。
ポンコツだと笑われた艦隊が、少しだけ誇らしくなったあの日の名残。
クラウゼ号の周囲には、ヘトヘトなのにどこか笑顔が混じる、温かな空気が流れていた。
リリィは艦体を見上げる。
傷だらけ、補修テープだらけ。お世辞にも“誇れる外観”じゃないけれど——
「……でも、沈まなかった。ちゃんと、空を飛んだもんね」
彼女の言葉に応えるように、クラウゼ号の古びたエンジンが、
コトン、と静かに何かを落とす音を立てた。たぶん、ネジだった。
「……あ、やっぱりまだ直してないとこあるんだ……」
リリィはため息まじりに微笑んだ。
ポンコツだけど、仲間と一緒なら、片付けも悪くない。
②「他艦の噂話」艦体についた装飾用リボンを、マルグリットが器用にほどいている傍ら、リリィは少し離れた艦の影で、脚立の上に乗って風化した旗を外していた。
冷たい風がふっと吹き抜け、彼女の髪を揺らす。
(ああ、やっと……終わりそう)
そう思ったそのとき、少し先の滑走路脇で、若いクルーたちが数人、談笑しているのが耳に入った。
どこか砕けた、気の抜けた訓練後の会話――のはずだった。
だが、その中に妙に聞き覚えのある単語が混じる。
「……クラウゼ号って、例のポンコツ艦だろ?」
「そうそう。でも、聞いたぜ? 艦長、怖がりながらも意地で敵の攻撃かわしたって」
リリィは脚立の上でぴたりと動きを止めた。
身を乗り出すのも妙だし、動くと音が出る。だからこっそり、そっと耳を澄ませた。
「“沈まない”って噂、意外とマジかもしれないな」
「奇跡の回避艦隊、だってさ。訓練評価には入ってないけど、教官がちょっと目をつけてるらしいよ?」
「ふーん、まあ派手じゃないけど……ああいう艦も、必要かもな」
――聞かれている。
――私たちが。
……私が。
リリィの心臓が、一拍だけ強く鳴る。
うれしい。いや、恥ずかしい。違う、でもちょっとうれしい。やっぱり、うれしい。
彼女は脚立のてっぺんで、ひとり赤面しながら、旗を握った手に力を込めた。
「……うそ。ちゃんと見てくれてる人、いたんだ」
思わずそんな小声が漏れた瞬間――
下から「艦長ー! 旗、取れましたー?」というエレナの声。
リリィは慌てて返事する。「い、いまいきまーすっ!」
慌てて脚立を降りるその姿は、さっきまでのひそかな誇らしさと見事にちぐはぐで。
けれどそれが、クラウゼ号らしさだった。
静かに、でも確かに、風は吹いていた。
ぽんこつ艦の上に、次の空を告げる風が。
③「地味にSNSでバズるリリィ旋回」
演習祭から数日後。訓練空域はすっかり日常を取り戻していた。
でも、艦内だけは、なぜか朝から妙にざわついていた。
「艦長艦長! 見てくださいよこれ!」
「なんの話?」とリリィが首を傾げると、
エレナがタブレットを突き出してきた。画面の中、SNSの再生回数がどんどん増えている。
再生中の映像には、クラウゼ号が訓練空域を旋回する姿。
その航跡は――お世辞にも綺麗とは言えない、ぐにゃっと歪んだラインだった。
「え、えっ!? これ、私の……!?」
「そう、演習祭の最終競技。艦長が“守るために旋回した”あのときの!」
リリィは思わず両手で顔を覆った。
けれど、画面をスクロールしていくと、そこには思いがけないコメントの嵐。
「怖がってるの、逆にリアルで泣けた」
「ぎこちないけど、あれで仲間守ったってマジ?」
「努力と勇気の回避! ポンコツ最高!!」
「カクカク回避、見習いたい(※無理)」
「艦体バラバラでも沈まないって、逆に強いのでは?」
「ま、まって、え、これ、バズってるってやつ……!?」
「はい、しかも“#クラウゼ旋回”でタグまでついてる!」
マルグリットがどこからか紙吹雪を投げてくる。「バズってる艦にようこそ〜!」
「や、やめて! 褒められるほど上手くないのにっ……! そもそも、あれ偶然っていうか反射っていうか……!」
「だからこそ逆に“本気”って伝わるんじゃないですかねー」とエレナ。
リリィは、顔を真っ赤にして座り込んだ。
でも内心、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、うれしかった。
(怖くても飛んで、回って、守ったこと……ちゃんと見てくれた人がいたんだ)
それは、自信にはまだなっていなかった。
でも確かに、誇りの“かけら”になった気がした。
「……次はもうちょっと……まっすぐ回りたい、かも」
ポツリとつぶやいたその声に、
クラウゼ号のモニターが、ピコッと応えるように明滅した気がした。
④「事件:空軍新聞の特集記事」
ある日の午後。
クラウゼ号のブリーフィングルームに、分厚い新聞の束がどさりと積まれた。
「配達でーす! あ、見開きカラーで特集載ってましたよ! おめでとうございます~!」
と、快活な新聞配達員が笑顔で去っていったあと、静まり返る艦内。
レーネが訝しげに新聞を手に取り、開いてみる。
「……あ」
その声に集まってきたクルーたちが、一斉に紙面を覗き込む。
そこにあったのは、大見出し。
『落ちこぼれ艦長、意地の回避! “沈まない艦”の真価とは』
カラー写真には、あの“ぎこちない旋回”の最中のクラウゼ号。
小さく映る操縦席のリリィが、懸命に舵を取っている。
リリィは一瞬で顔色を変えた。
「ちょ、ちょっと……タイトル、煽ってませんか!?」
記事は一見、皮肉めいた表現も多い。
「訓練成績は下位安定、機関故障率は常時高止まり」
「それでもなぜか沈まない艦、それがクラウゼ号である」
「艦長は高所恐怖症、艦はボロボロ、旋回はぎこちない」
だが、読み進めるうちに、文調が少しずつ変わっていく。
「だが、実際に撃沈された艦よりも、この艦は帰ってきた」
「艦長の“逃げる”という判断は、勇気なき者の決断ではなく、生存の知恵である」
「その小さな選択が、全員を生かしたのだとしたら――それはもう、誇るべき戦術だ」
記事は締めくくっていた。
「戦果はない。けれど、この艦には、意地がある」
読み終えた艦内は、静かだった。
マルグリットが鼻をすすりながら、「やっば、なんか泣けた」とつぶやく。
一方、リリィはというと……腕を組んだまま、うつむいていた。
「う、うれしいけど……こんなのが新聞に載るのって、どうなの……?」
確かに、上層部の一部からは冷笑的な視線も向けられていた。
「話題先行」「偶然の美談」「実戦には使えない」
そんな冷たい言葉が、会議室の隅で交わされていることも、知らなかったわけではない。
だがその一方で――
食堂に来た下級士官が、リリィを見てそっと敬礼してくれる。
整備ドッグの少年たちが、嬉しそうに「クラウゼ号って、やっぱすげー!」と叫んでいる。
SNSでは《#落ちこぼれ艦長ファン》なるタグまで生まれていた。
「……なんだか、誇らしいような、恥ずかしいような……」
リリィは、記事の最後の写真を見つめた。
自分が操縦席にいる姿。
震えながら、でも逃げずに、飛んでいた姿。
「……私、ちゃんと“いた”んだな」
その言葉は、自分の胸にそっと刻むためだけのものだった。
⑤「余韻:誇りを胸に、次への決意」
夕暮れの空が、艦の金属肌を赤く染めていた。
クラウゼ号の甲板に、ぽつぽつとクルーたちが集まり、風に吹かれながら一息ついていた。
演習祭の喧騒も、新聞の騒ぎも、いまは少し遠い話のように感じられる。
リリィは、手すりにもたれて空を見上げていた。
高い空。まだ少し怖いけれど、こうして眺めている分には、悪くない。
「艦長、疲れてませんか?」
エレナがそっと温かいティーカップを差し出す。
「……ううん、ありがとう。ちょっと、ほっとしてただけ」
受け取ったカップから立ちのぼる湯気は、優しく、甘く、どこか胸に沁みた。
後方では、マルグリットが機関士仲間と肩を並べて笑っている。
レーネはノートに何かを書きながら、ときどきこっちをチラチラ見ていた。
それぞれの形で、みんながこの艦に“いる”。
リリィは言葉を探し、ゆっくりとつぶやいた。
「……“沈まない艦隊”って、偶然だって思ってたけど……違うかもしれない」
風が、スカートの裾を揺らす。
「エンジンが止まりかけても、進んで。操縦ミスしても、みんなで立て直して。
誰かが怖がっても、誰かが支えて……そうやってここまで来た。だから——」
視線の先、遠くの雲の輪郭が、夕日に縁取られて金色に光っていた。
「これは、私たちの誇りなんだよね」
その一言に、誰も何も言わなかった。
でも、返事は空気のなかにあった。
みんなの微笑みが、沈まない理由。
みんなのまなざしが、飛ぶ力になる。
リリィはそっと拳を握った。
(私も、もっと強くならなきゃ)
次の演習がどんなものでも、どんな任務が待っていようとも、
この艦を守ると決めたから。
——この艦で、みんなと一緒に空を飛ぶと、決めたから。
「……明日も、飛ぼう」
彼女の小さなつぶやきが、夕焼けの空に溶けていく。
クラウゼ号は、今日も沈まなかった。
そしてきっと、明日も。