◆第7話「乙女艦長の憂鬱」「……え、次の模擬戦、またやるの?」
① 幕開け:のんびり?いやな予感しかしない朝
朝。
それは、リリィ・フロラリアにとって一日の中で最も優雅であってほしい時間である。
「……ふふん。今日こそ、いい日になりそうな気がするわ」
リリィは、目覚ましが鳴るよりも先に目を覚ましたことに、密かにガッツポーズしていた。
清々しい空気。風の音。艦内に差し込む光。
クラウゼ号の朝は、意外にも静かだった。いや、たまたま今だけかもしれないが。
紅茶を淹れる手にも、自然と余裕が出る。
「今日は紅茶も完璧……!」
ティーカップから漂う香りに、リリィはうっとり目を閉じた。
「昨日は煙がチョコ味だったけど……今日は煙も出てないし……ええ、これは“穏やか”っていうやつよ」
ふわふわのスリッパを履いて、鼻歌まじりに艦橋へ向かう。
そう、今日の私は落ち着いていて、艦長っぽい。これはもう“艦橋で堂々と書類を片付けてる令嬢”ムーブをやるしかない!
――ガチャ。
艦橋のドアが開いた瞬間。
「…………」
そこには、机いっぱいに山積みになった書類。
そして、真ん中にデンと置かれた《赤い封筒》が、禍々しい光を放っていた。
『空軍実技訓練校 第八訓練命令:空中機動演習通知』
リリィ、硬直。
カップを持つ手がプルプル震える。
「あ、あら……なんだか……紅茶の味が……に、苦く……あれ? 涙混じってる?」
ぽとっ。
テーブルに、ぽちゃん。
リリィの持っていたカップが、ぬるりと手から滑り落ち――見事に書類の山の上に紅茶がぶちまけられた。
「……やっぱり、平穏は長く続かないのね…………っ!」
その声はどこか女優じみていて、
それを聞いたレーネ(隅の椅子で寝てた)は、静かに目を開けてこう呟いた。
「平穏とは……人類に許された最も短命な幻想、ですからね……」
「そのセリフの方がこわいわ!!!」
クラウゼ号の朝は、やっぱり今日もドタバタだった。
◆② 通知:次の訓練は“空中機動演習”――しかも“艦長操縦あり”?!
「――で、つまり」
艦橋に集まったクラウゼ号の主要メンバーたちを前に、レーネがごく冷静に読み上げた。
「次回の訓練は“空中機動演習”。これは艦の指揮・操縦・判断をすべて、艦長ひとりが担当しながら行う模擬飛行です」
「ふむふむ。つまり、“艦長ドライバー”ってことね」
操縦士のエレナが、わかりやすく例えた。
「ええと……つまり、わたしが……このクラウゼ号を、ひとりで……?」
「操縦して、運んで、敵(※仮想)をよけて、帰ってくる。簡単ですね」
「だれが言ってるのそれ!?」
リリィの顔色が、みるみる蒼白になっていく。
軽く振った紅茶のカップも震え、なみなみ注がれていた中身がピチャピチャ音を立てて揺れる。
「大丈夫大丈夫~! 前回の模擬戦、めっちゃがんばってたじゃん!」
エレナがサムズアップ。
「そうそう、ぶっちゃけあの爆煙の中、よく沈まなかったよな~!」
機関士マルグリットが無責任に笑う。
「……どこが“空中機動”だったのか、今でも不明ですけどね」
と、レーネは報告書を整理しながら冷静に突っ込む。
「ていうか……そもそも私、操縦桿握ったことないんだけど!?」
「うちの操縦桿、意外と軽いですよ~? エレナ調整済み☆」
「そういう話じゃないのよ!」
「落ち着いてください艦長。最初に沈めば、あとは昇るだけです」
「その哲学やめて!? なんでみんな“沈む前提”なの!?」
リリィは、ガタガタと震える指で訓練通知の赤字を指差す。
《操縦不能時の救援措置なし》
「ねぇこれ、“沈んでも助けません”ってことよね!?」
「違います。“落ちる前に学べ”ってことです」
「もっとキツいじゃない!!」
一方そのころ。
艦の外で整備士たちがクラウゼ号を見上げて言っていた。
「え、次の訓練、クラウゼ号は艦長操縦……マジで?」
「さすがに無茶じゃない?」
「いや逆に、“艦長操縦”の方がこの艦には合ってる説あるよ」
「どういう意味で!?」
艦橋では、リリィがすでに床に座り込み、報告書を抱えて天を仰いでいた。
「……お父さま、お母さま。令嬢は今、空を操縦させられそうです……!!」
そのとき、ふわっとレーネが彼女に予備の書類を手渡す。
「操縦失敗時用の“言い訳テンプレート”をご用意しました」
「ちがう! そういうとこじゃないのよレーネぇぇぇぇ!」
こうして、クラウゼ号は――
再び、とんでもない訓練に巻き込まれることとなった。
艦長操縦、恐怖の空中機動演習。
空は今日も高い。
そして、リリィの胃はすでに限界だった。
◆③迷い:艦長って、ほんとに私じゃないとダメなの?
深夜。
空には雲ひとつなく、星が冷たく輝いていた。
訓練ドッグの片隅。
ライトは落ち、艦体の周囲にぼんやりと灯る非常灯だけが、機械の影をぼやかしていた。
リリィは、クラウゼ号の艦首をじっと見上げていた。
昼間はにぎやかな仲間たちの声で包まれていた艦体も、今は無言の巨人のように静かに眠っている。
傷跡のような修復痕が、艦のあちこちに残っていた。――前回の模擬戦の“証”だった。
(……私より、この艦のほうがずっと強いわ)
(みんなも……きっと、私が艦長じゃなかったら、もっと上手くやれる)
ふと、喉の奥で小さく言葉が漏れる。
「……私、降りた方が、いいのかも」
その声は本当に小さかったのに――
「なーに勝手に“卒業”しようとしてんのさ」
声が、後ろから響いた。
リリィが振り返ると、整備通路の影から、作業着姿のマルグリットが現れた。
手には工具箱。油に汚れた手袋を外しながら、にやりと笑っている。
「まさか“艦長やめます”宣言を聞かされるとは思わなかったわ。深夜に」
「ま、待って、盗み聞きとかじゃなくて、これはその、たまたま独り言で――!」
「はいはい、たまたま、ね」
マルグリットはリリィの隣に座り、ドカッと脚を投げ出す。
しばらく、無言の時間が流れる。
どこかで夜鳥の声が聞こえ、風がゆっくりと艦体を撫でていく。
やがて、マルグリットがぽつりと口を開いた。
「アンタが艦長じゃなかったら、たぶん……あたしは、模擬戦の時に“降りて”たよ」
「え……?」
「“逃げていい”って、ちゃんと言ってくれる艦長なんて、今までいなかった」
「でもアンタは、それを言ってくれた。――そのおかげで、逆に逃げたくなくなったんだよ」
リリィは息をのんだ。
「空が怖いの、わかるよ。あたしだって怖いもん。整備中にエンジンが爆発する方がもっと怖いけどさ」
「でもさ。アンタの“怖いけど飛ぶ”って言葉が、本当だったから、あたしらも一緒にいられるんだよ」
マルグリットの笑顔は豪快で、どこか泣きそうなほどまぶしかった。
リリィは視線を足元に落とす。
スリッパのつま先が、小さく震えていた。
でも、その震えは、少しだけ……軽くなっていた。
「……ありがと」
それは、かすれた声だったけど、間違いなく“艦長”の声だった。
マルグリットは立ち上がると、リリィの肩をぽんと叩いた。
「さ、寝な。空は逃げないよ。こっちが逃げても、ちゃんと待っててくれる。次、操縦桿握るときゃ、隣でエンジン調整しといてやるからさ」
「う、うん……でもなるべく“煙ナシ”でお願い……」
「それは無理☆」
「やっぱり怖いこの艦!!」
ふたりの笑い声が、静かな夜にぽつりと響いた。
クラウゼ号の艦体は、何も言わずに、それを見守っていた。
◆④準備:艦内一丸の“私たちの艦”計画!
「さあ艦長、まずは“ふわっ”て飛ぶ練習です!」
「えっ……ふわっ?」
「そう、“ふわっ”です。ふわって浮いて、すうって進んで、ぱたって着地。ね、簡単でしょ?」
「オノマトペで飛行教えないでよ!!」
クラウゼ号の艦橋、午前10時。
操縦席に座らされたリリィは、今まさにエレナの“ふわっ講座”の餌食となっていた。
背筋はガチガチ、顔は真っ青、手は操縦桿から離したまま。
「だ、大丈夫……落ちない……この椅子はまだ飛ばない……」
「艦長、それ逆に怖いセリフです!」
一方、機関室ではマルグリットが配線と格闘中。
「ここのネジ緩めると、加速スイッチが“ぎゅるぎゅる”って鳴ってカッコいいんだけど、怒られるかな」
「怒られると思います」
そっと注意するレーネ。
「……じゃあ“たまたま緩んでた”ことにしよう」
「その手法、整備士の倫理ギリギリです」
そんな中、リリィがうめくように操縦席から声を上げた。
「もうダメ……このレバー動かすだけで胃がぎゅるぎゅる……」
「それはお昼に食べたアレのせいでは?」
「それもあるけど違う!!」
そこへ、どこからともなく登場するレーネ。
手には1冊の分厚いファイルを携えていた。
「艦長、あなたのために準備しました。“艦長恐怖症克服訓練マニュアル”。今日から始めましょう」
「え、なにそれそんなのあったの……?」
レーネは静かにファイルを開いた。
ページ1:段階1:椅子に座って深呼吸
ページ2:段階2:操縦席に座って周囲を見る
ページ3:段階3:スイッチ類に触れてみる
ページ7:段階7:軽い上昇、3秒維持、笑顔でピース
ページ10:段階10:空中三回転、逆噴射、再接続旋回、急降下後にポーズ
「ちょっと待って!? 1から10の成長幅おかしくない!?!?」
「慣れてくれば自然といけます。あと、段階8には“気合”と書いてあります」
「雑!!!?」
「ちなみに段階9は“気合2”です」
「連続で!? せめて段階9は“反省”とか“準備”とかにしとこうよ!!」
艦内に、今日も笑い声が響く。
操縦練習、配線の再チェック、艦内マニュアルの手直し、各室の掃除、そして謎の気合。
誰に言われるでもなく、クルーたちはそれぞれのやり方で艦を整えていた。
リリィは操縦席の中で、もう一度周囲を見渡す。
スイッチの並ぶパネル。計器。誰かが拭いたあとが残る窓。
(この艦は……わたしたちの艦なんだ)
小さく、でも確かにそう思った。
そして――そっと操縦桿に手を伸ばしてみる。
手のひらの震えは、まだ完全には止まらない。
でも、今日は“触れてみよう”って、思えた。
それは、立派な一歩だった。
クラウゼ号は、少しずつ“艦長と一緒に飛ぶ準備”を始めていた。
◆⑤ラスト:それでも飛ぼうと思える、理由
操縦席は、思ったより広く、思ったより静かだった。
リリィはそっとシートに腰を下ろす。
自分の鼓動の音だけが、艦内に響いているような気がした。
手のひらが汗ばんで、指先が少しずつ震える。
操縦桿に伸ばしかけた手を、また引っ込めてしまう。
(……怖い)
それは、隠しようのない本音だった。
高い場所、広すぎる空、わたし一人の判断で動くこの艦――。
背筋が凍る。喉が詰まる。目を閉じたくなる。
「艦長ー、後ろ見てください!」
エレナの明るい声が背後から聞こえた。
振り返ると、艦橋の入り口に、クルーたちが集まっていた。
マルグリットはレンチを肩にかけて、いつもの笑顔。
レーネはファイルを小脇に抱えて、静かにうなずく。
エレナは大げさに手を振っていた。
「艦長の“逃げろ!”って指示で、私たち生きてるんですよ?」
「そのおかげでエンジンも動いてたし、クラウゼ号もまだ浮いてるわけで」
「マニュアル外の生存戦略。私は嫌いじゃないです」
「さすがうちの艦長~! ビビりだけど指示は超的確!」
「ビビりって言わないで!!」
笑いがこぼれる。
でも、その言葉たちは――リリィの中に、すとんと落ちた。
(私はまだ、空が怖い)
(でも、この人たちとなら、また飛べるかもしれない)
操縦桿に、もう一度手を伸ばす。
今度は、ぎゅっと握る。
震えはある。けれど、それでも――
「私が艦長で、よかったって思ってもらえるように……飛びたい」
ぽつりと落ちた言葉は、誰にも聞こえないくらい小さかったけれど、
それは彼女自身に届いていた。
操縦席のガラス越しに、空が広がっていた。
明日また、そこへ行くのだ。
たとえ怖くても。
今度は、みんなと一緒に。