その三十二、天使と駄馬
ホテルから修道院へは、馬を走らせれば半時間は掛からない場所である。
走らせれば。
パカラパカラと馬を牽引する場合は、一体何時間かかるのだろう。
ホテルと修道院の間には村が一つあり、しかしながら整備された道は貴族用だと言わんばかりに木立が植えられて目隠しとなる森の様相だ。
いや、森の中に貴族専用の道を作っただけか。
俺は鬱蒼と木々が茂る森の風景を見回して、盗賊でも出ないかな、なんて考えた。
盗賊が出たら、ミゼルカに有無は言わせず俺は馬に二人乗りしてみせる。
この森の中から一瞬でおさらばしてやるというのに。
そして俺が今日に限って森の中に拘るのは、今の俺の状況が陸軍の英雄、森ど真ん中野郎によって引き起こされたからに他ならないだろう。
俺は自分の愛馬を牽きながら、大きく溜息を吐いた。
俺の愛馬は悪魔の馬と揶揄されるほどに大きく、性格も俺以外には懐かないはずであったのに、いまや単なる間抜けな玩具の黒馬に成り下がっているのである。
俺が暗澹たる気持となってしまうのもおかしくはない。
間抜けにパカラパカラと蹄の音を響かせている愛馬は、自分の背中に乗る乙女に恋をしている風情なのである。
普段はした事が無い行動を取るばかりだ。
乗り手に何度も振り返り、無意味に嘶いて飛び跳ねようとする。
まるで調教中の子馬並みの騒々しさだ。
しかし、陸軍の生きている伝説様に乗馬を教わった姫君は、俺が感心するぐらいにそんな馬を上手にあやしている。
クスクス笑いながら馬の首を撫で、いい子ね、と囁く。
そいつは全く良い子でなく、そいつを牽いている俺こそ良い子だがな!!
ただし、馬と戯れる少女というモチーフの絵画をいくつか見てきた俺としては、ミッテンヴァルトはミゼルカと馬の組み合わせにそんな邪念を込めたのでは無いのか?そう邪推してしまう。
ミゼルカは普通の女性乗りという横座りなどしていない。
鞍を跨いで座っているのだ。
ああ、ミゼルカのスカートが悪戯な風で煽られたら、俺がその中身を全部目にする事になるのだぞ、わかっているのか?
つまり俺が引き合いに出しているそれら絵画は、女性には絶対に見せてはいけない類のものであるのだ。
そういった絵画では仔犬と少女というモチーフも人気があるが、ベッドで少女が飼い犬と絡み合っている構図で少女のスカートの中身も見える、と聞けば、大体がどんなものか想像できるだろう。
「えっと。やはり疲れましたわよね?あなたもお乗りになる?」
「何に?」
「え?」
「いえ。すいません。考え事をしていました。君が乗ってから我が愛馬がどこかに今までの自分を捨ててしまったようで。いっぱしの騎手だと思っていた自分が恥ずかしいよ」
「まあ!!褒めて下って嬉しいわ。でもこの子がこんなに気立てが良い良い子なのは、あなたという主人が素晴らしいからよ。ワーレンおじ様は、きっとあなたをお認めになると思いますの」
俺はミゼルカを見上げた。
ミゼルカは純粋無垢な笑顔で俺を見返す。
ならば。
「え、ちょっと!!」
「乗りなさいと言ったのは君。そして、君のワーレンは俺を認めると君が言った。ならば、俺達は二人乗りをしても良いという事だ」
「ええ!!そ、そんな意味では」
「舌を噛むから口を閉じて。馬を飛ばす」
馬を走らせる時に馬の手綱など引くものではなく、鞭で叩くものでもない。
大体鞭で叩けば、馬は委縮し信頼関係など消えさる。
ほんの少し馬の腹を足で締めるだけで、調教されている馬は走り出すのだ。
しかし、俺は馬に鞭を振るうべきだった。
馬は俺の意思を読み取って走り出すどころか、歩みそのものを止めたのだ。
「こいつは君こそ主人と決めたのか!!」
「いいえ。そうではありませんわ。危険を察知しただけですわ」
「俺の馬術はそんなに情けないものだったか」
「いいえ。おかしな匂いがしませんか?嗅いだことの無い匂い、です」
俺はミゼルカの言葉に驚きながら、周囲へと視線を動かし、空気の匂いを嗅いでみた。
確かにこんなのどかな場所で嗅ぐ事は無いはずの匂いが空気に溶け込んでおり、その匂いが立つ場所は危険しかないと俺は知っている。
戦場を走り抜けて来た馬がこの匂いを違えるはずはない。
ミゼルカの為に玩具の馬に徹していたが、やはり戦場の悪魔であったか。
「バラク、ホテルに一度戻るぞ」
「どうしてですの?この匂いは一体何なのですか?」
生き物が焼ける匂いです。
そんな事を伝えられないと歯を食いしばった一瞬、ミゼルカの安全など二の次に行動せねばならないだろう号令が遠くで響いた。
「子供の悲鳴だわ!!」
「ミゼルカ!乗る向きを変えて俺にしがみ付け。今の悲鳴が起きた場所、道など言わずに俺は突っ込むからな」
「はい!!」
ミゼルカは訓練された兵士のように俺の言う通りに馬上で動き、俺の指示通りに俺の体にしがみ付いた。
俺は、しまった、と思いながらも愛馬に指示を出す。
今度の愛馬は俺の指示を違えず駆け出した。
砲弾と共に走った日々を思い出すようにして、爆走だ!!
どこまでも横座りを拒否するお姫様だと俺は考えるべきであった。
俺の向かい合わせとなって鞍に座る、いや、俺の膝に座る格好となったミゼルカを抱きしめるのは、これ以上ないぐらいに親密な触れ合いであるのだ。
彼女の背中を支える俺の左手は、さらに彼女を俺に押し付けた。
「全く。悪く無いどころの話じゃないじゃないか!!」




