第5話
壁際に、倒れている者たちがいた。
魔族も、人間も。
痩せ細った体、裂けた服、乾いた血痕。
湿った石畳から立ち上るカビと血と排泄物の混じった腐臭が鼻腔を刺し、蝿の羽音が耳元で絶えずぶんぶんと響く。
倒れている者たちの吐息は湿り気を帯び、時折、苦痛のうめきが途切れ途切れに漏れた。
セラーナの足が止まった。
(怖い……)
聖国では決して見ることのなかった光景。
喉が焼けるように渇き、足が鉛のように重い。
「どうしました? もうすぐですよ」
ゼイルが振り返り、笑顔のまま手を差し伸べた。
だが、その瞳の奥に、冷たい光が宿っていることに、セラーナはようやく気づいた。
――これは、罠だ。
「やっぱり……結構です」
声を震わせながら、セラーナは踵を返す。
だが、ゼイルの動きは速かった。
肩を強く掴まれ、引き戻される。
「逃げてんじゃねーぞ!」
ドスッ!
ゼイルの拳がセラーナの腹にめり込んだ。
息が詰まり、膝が折れる。
ドレスの布が引き裂かれる音がして、冷たい空気が肌に触れた。
「暴れると面倒だな。少し大人しく――」
次の打撃が来る前に、セラーナは必死に体を捻り、ゼイルの腕を振り払って走り出した。
背後で怒鳴り声が響く。
路地を抜け、息を切らして――
誰かにぶつかった。
「っ!」
地面に尻餅をつく。
目の前に、鎖で繋がれた魔族がいた。
大きな体、灰色の肌、折れた一本の角。
痩せ細り、目は虚ろだった。
「何をしている! 立て!」
怒鳴り声とともに、鞭が振り下ろされる。
魔族の背に、鮮血が飛ぶ。
セラーナは、思わずその体を抱きしめていた。
「やめて……!」
声にならない声で、彼女は願った。
(助けて……誰か……)
パアアアアアッ
その瞬間――セラーナの手が触れた魔族の胸元が、深い藍色の淡い光に包まれた。
熱いものが、彼女の掌から魔族の体へと伝わっていくような感覚が走った。
魔族の目が赤く燃え上がった。
低いうなり声が響き、体が膨れ上がる。
筋肉が膨張し、鎖がきしむ音が鳴り、ついに――ぱちんと切れた。
体躯は三倍以上に膨れ上がり、灰色の肌が鋼のように硬くなる。
「ぐあああああっ!」
咆哮とともに、魔族が立ち上がった。
主人が鞭を振り上げるが、魔族の腕がそれを払い、男は壁に叩きつけられて気絶する。
セラーナは呆然と見上げた。
魔族は、荒い息を吐きながら言った。
「今のうちに……逃げろ」
その声は、苦痛と、どこか優しさを帯びていた。
周囲が騒然とする中、ゼイルは魔族の咆哮に顔色を変え、慌てて霧の中へと逃げ去っていた。
セラーナは立ち上がり、走り出した。
足が震え、息が上がる。
だが、止まらない。
ドゴオオオオッ!
背後で、轟音が響いた。
振り返る余裕もないまま、熱風が頬を打ち、焦げ臭い煙の匂いが鼻を突く。
遠くから、人々の悲鳴と混乱の叫びが聞こえてくる。
――炎だ。
路地裏の古びた木造の建物が燃え上がり、炎が天を焦がすように立ち上った。
火の手は瞬く間に広がり、霧を焼き払い、港の空を血のように染めていく。
(ありがとう……名も知らない魔族の方)
胸に、熱いものが灯った。
それは、恐怖でも、憐れみでもなく――
誰かを守りたい、という、初めての自分の感情だった。
炎の轟音と悲鳴が背後で渦巻く中、セラーナは霧の深い街へと消えていった。
その背中を、燃え盛る炎が照らし出す。
高い建物の影から、一つの視線が、息を潜めて見つめていた。
赤い目が、炎と霧の中で妖しく輝いた。




