第4話
霧は、息をするたびに肺の奥が冷えた。
けれど、その冷たさはただ不快なだけではなかった。
冷気が体内を巡るたびに、体の芯から控えめな力が染み出すように湧き上がり、全身を満たしていくような感覚があった。
聖国では決して感じたことのない、確かな予感。
もう誰かの期待に応えるためではなく、自分のために生きる。
その決意が、胸の底から熱く押し寄せてきた。
船が魔界の港に着いてから、セラーナは甲板を降り、足取りも定まらぬまま石畳の上を歩き始めた。
港は予想外に活気づいていた。
荷を積んだ馬車が石畳を軋ませながら通り過ぎ、潮と腐った魚、そして焦げたような魔物の体臭が混じった空気が鼻を突いた。
商人らしき人間たちが喉の奥から絞り出すような大声で取引を交わし、酒場の扉が開くたびに、熱い息と安酒の甘ったるい匂いが吐き出される。
鎖の音。
鞭の音。
そして、うめき声。
セラーナは立ち止まった。
石畳の端に、角を生やした少年が膝をついていた。
翼は折れ、鎖で両手を繋がれ、首には鉄の輪が食い込んでいる。
人間の男が鞭を振り上げ、少年の背に赤い筋を刻む。
少年は歯を食いしばり、声を殺していたが、肩が小刻みに震えていた。
ほとんど――人間と同じ顔をしている。
聖国で教えられた魔族の姿は、牙を剥き、咆哮を上げ、人の命を貪る怪物だった。なのに、目の前の彼らは、痛みに耐え、怯え、血を流している。
セラーナの胸に、名前のつけられない感情が沸き起こった。
(……これが……魔界なのね)
その思いは、音もなく、しかし確実に彼女の心を揺さぶった。
「お嬢さん、どうかされましたか?」
背後からかけられた声は、柔らかな響きだった。
振り返ると、そこに立っていたのは高身長の細身の男だった。
黒い外套を羽織り、銀色の髪を後ろに流している。
端正な顔立ちに、柔和な笑みが浮かんでいる。
年齢は二十代後半といったところか。
男はセラーナの姿を一瞥し、わずかに眉を寄せた。
上質な藍色のドレス、乱れてもなお整った黒髪、貴族らしい気品を湛えた立ち姿。
魔界の港に一人で立つには、あまりにも場違いだった。
「お連れの方は……いらっしゃらないのですか?」
その声は優しく、しかしどこか探るような響きがあった。
セラーナは言葉に詰まり、小さく首を振った。
「……いえ、一人です」
男は笑みを濃くし、軽く頭を下げた。
「それは珍しい。お一人で魔界へお越しとは……。私はゼイルと申します。この港で案内人をしております。初めての方のようですね。魔界は危険な場所も多い。一人では心細いでしょう。案内所までお送りいたしましょうか?」
差し伸べられた手は丁寧で、言葉も隙がなかった。
セラーナは迷った。
だが、他に頼る当てはない。
「ありがとうございます。お願いします」
ゼイルは満足げに唇の端を上げ、セラーナの前を歩き始めた。
港の喧騒を抜け、徐々に人影が減っていく道へ。
石畳が狭くなり、建物が密集し、陽光が届かなくなる。
――路地裏だった。




