第45話
牙と爪が、セラーナの体に届く――その寸前。
セラーナの頭の中から、杖を発動しようという理性すら、きれいさっぱり消え失せていた。
視界が狭くなり、心臓の鼓動だけが耳元で爆音のように響く。
恐怖が、純粋な恐怖だけが、胸の奥から溢れ出す。
(……助けて)
たった一つの願い。
言葉にならず、ただ心の底から叫んだ。
その願いが、トリガーとなった。
胸元の銀のアミュレットが、熱く輝いた。
刹那――セラーナの正面に、黒い光の柱が立ち上った。
夜空を裂くような、濃密な闇の奔流。
月の光がその柱を照らすと、中に浮かぶ巨大な影が見えた。
とても大きなコウモリのように見えた。
翼を広げたようなシルエットが、魔獣の牙と爪を、音もなく受け止める。
次の瞬間、闇が蠢いた。
エリークスの後ろ姿が、月光に浮かび上がった。
彼の身を包む黒い外套が生き物のように伸び、魔獣の巨体を絡め取っていく。
鱗が軋み、毒の牙が空しく噛み合う音が響く。
外套は容赦なく締め上げ、魔獣の体を圧縮し飲み込んでいく。
捕食――生き物の餌を貪るように。
エリークスは振り向き、深々とお辞儀をした。
「遅くなって申し訳ありません。魔王様」
その声は、どこか優しさを帯びていた。
同時に外套が最後の魔獣の残骸を飲み込み、裾を収めていく。
裾がファサッとエリークスの腿裏を撫で、満足げに震えた。
外套の動きが止まった瞬間、エリークスは呟いた。
「……ずいぶん粗悪な肉だ。味も香りも、腐った古酒のようですね」
セラーナはエリークスをただ見つめた。
胸の奥から熱いものが込み上げてきて、視界が滲む。
「……助けに来てくれたのね」
声は小さく、風に溶けそうだった。
頬を伝う一粒の涙が、月光にきらりと光った。
エリークスは微かな動揺を瞳に宿した。
だがすぐに、その視線がセラーナの背後を通り抜け、邪悪な魔力の残滓を捉える。
そして、その中間地点――ヴァレリアが立っていた。
エリークスの視線が鋭く据えられた。
その視線に、ヴァレリアの肩がびくっと震えた。
次の瞬間――ヴァレリアは反転した。
エギルを倒した時よりも、はるかに速いスピードで。
瞬発した衝撃波だけで、周囲のアンデッドを全て弾き飛ばす。
腐った肉片が四方に飛び散る。
ヴァレリアは一切の躊躇なく、ティムフダルグへ突進した。
「な――」
バッガアアアアアン!
言葉を終える間もなく、ヴァレリアの拳が顔面に突き刺さった。
仮面が砕け散り、血飛沫が夜空に舞う。
「ぐはあっ!」
ティムフダルグの体が、祠の階段の下まで吹き飛ばされていった。
石壁に激突し、黒いローブが裂け、床に転がる。
瓦礫が崩れ落ちる音が響き、墓地に重い静寂が戻った。




