第38話
ガルドリム要塞の夜は、意外に静かだった。
石畳の通りを歩く靴音も、遠くの酒場から漏れる笑い声も、すぐに闇に吸い込まれていく。
バルドはクランハウスの門を出ると、二人を先導して少し離れた宿へと向かった。
「上等な部屋を取っておいたよ。疲れただろう?」
そう言って差し出した鍵は、重厚な銀製だった。
宿の名は《星降る湯亭》。
要塞内でも指折りの高級宿だと、バルドは小さく笑って付け加えた。
部屋に通されると、セラーナは感嘆の声を上げそうになった。
広さは聖国の貴族宿の一室に匹敵し、家具は黒岩と銀の装飾で統一されている。
窓からは要塞の灯りが遠くに瞬き、魔素の濃い空気が漂っていた。
そして――部屋の奥に、個別の浴室があった。
木の扉を開けると、湯気が立ち込め、すでに湯が張られていた。
大きな石造りの湯船に、熱い湯がたっぷりと注がれ、ほのかに薬草の香りが混じっている。
壁には魔力灯が灯り、柔らかな光が水面を照らしていた。
セラーナは立ち止まり、ぽつりと呟いた。
「……こんな立派なお風呂、聖国以来……」
声は小さかったが、胸の奥にこみ上げる熱を隠せなかった。
追放されてから、港の粗末な船、魔王城の簡素な浴室だけ――。
温かい湯にゆっくり浸かることすら、ずっとできなかった。
ヴァレリアは無言で浴室の入り口に立ち、外を警戒するように背を向けた。
「魔王様、先にお入りください。私が外で見張りを――」
セラーナは首を振って、ヴァレリアの手をそっと掴んだ。
「……一緒に、浸かりましょう?」
「……しかし、私は――」
「ほら、早くっ」
セラーナは優しく目元を細めて笑い、ヴァレリアの手を引いた。
二人で浴室に入り、扉を閉める。
服を脱ぎ、湯船に並んで浸かる。
熱い湯が肩まで包み込み、セラーナは思わず小さく息を吐いた。
体に染みついた疲れが、溶けていくような感覚。
しばらく無言で湯に浸かっていたが、セラーナが口を開いた。
「ヴァレリアは、こういう贅沢……慣れてる?」
ヴァレリアは目を閉じたまま、ぽつりと答えた。
「……先代の時代は、戦いの後で、たまに。でも……」
少し間を置いて、声が小さくなる。
「今の方が、温かい気がします」
セラーナはそっとヴァレリアの横顔を見つめた。
湯気の中で、普段は真剣そのものの表情が、ほんの少しだけ緩んでいる。
ふと、セラーナの視線がヴァレリアの背中に落ちた。
髪を下ろした肩から背中にかけて、古い傷跡がいくつも走っている。
剣の斬り傷、焼け跡、魔術の痕――戦士として生きてきた証。
セラーナは無言で手を伸ばし、ヴァレリアの背中にそっと触れた。
港で魔族の少年にしたように、魔力を流し込む。
淡い青紫の光が、湯の中で優しく広がる。
傷跡が薄れ、新しい肌が少しだけ再生していく。
ヴァレリアの体が、びくりと震えた。
「……魔王様……?」
「痛かったでしょう?」
セラーナは続けた。
「いつも……ありがとう」
ヴァレリアは黙って目を伏せた。
湯の中で、彼女の指がそっとセラーナの手を握り返す。
強く、でも優しく。
湯から上がると、二人は部屋に戻り、互いの髪を拭き合った。
窓の外、要塞の灯りが遠くに瞬く。
セラーナは呟いた。
「……明日から、本番ね」
ヴァレリアは頷き、答えた。
「はい。魔王様の御心のままに」
二人は並んでベッドに腰を下ろし、夜を過ごした。
湯の温もりと、互いの存在が、心に小さな灯りを灯していた。
要塞の闇は、蠢き始めていた。
だが今夜だけは――この部屋だけは、穏やかな時間が流れていた。




