第26話
ドルガンの街は、日が暮れると急速に静けさを増した。
石畳の通りを馬車が通り過ぎる音も途絶え、遠くの酒場から漏れる笑い声だけが、夜の空気に溶けていく。
ヴァレリアが選んだ宿は、街で一番と評判の「銀の角亭」だった。
看板には磨き上げられた銀の角が描かれ、入口の扉も重厚で、街の他の建物より一回り立派に見えた。
だが、部屋に通されると、セラーナは思わず目を丸くした。
部屋は清潔だった。
床板は丁寧に磨かれ、埃一つ落ちていない。
窓枠も新しく、隙間風が入る気配はない。
ベッドには白いリネンが掛けられ、枕もふっくらと整えられている。
壁には小さな花瓶に野花が一輪挿してあり、かすかな甘い香りが漂っていた。
それでも――セラーナにとっては、驚くほど質素だった。
聖国の貴族宿なら、床には厚い絨毯が敷かれ、羽毛布団が何枚も重ねられている。
壁にはタペストリーが掛けられ、暖炉には常に火が入り、侍女が控えているのが当たり前だった。
ここには暖炉すらなく、ベッドはただの木枠にマットレスが載っているだけ。
清潔で、悪臭もなく、決して不快ではない。
ただ、街で一番とされる宿が、これほど「普通」だということに、静かな衝撃を覚えた。
ヴァレリアはセラーナの軽鎧を外しながら、頭を下げた。
指先は丁寧で、留め具を外すたびに、彼女の筋肉がわずかに動くのがわかる。
「魔王様に、このような所しかご用意できず……申し訳ありません」
声は、どこか悔しさが滲んでいる。
セラーナは優しく表情を柔らかくして首を振った。
「いえ、この村で一番いい所なのでしょう?」
「はい。安宿では寝込みを襲われる可能性もありましたので……」
「感謝します。ヴァレリア」
その言葉に、ヴァレリアは頭を下げた。
髪が揺れ、肩がわずかに強張る。
セラーナの優しさが、彼女の胸に静かな熱を灯す。
セラーナは窓辺に立ち、外の闇を見つめながら言った。
「この村で一泊して、明日には次の村に発ちましょう」
ヴァレリアは頷き、しかし少し間を置いて続けた。
「それがよろしいかと。ただ……」
「どうかしましたか?」
「次の村に向かうとなると、女性二人での馬車移動は厳しいと思われます。冒険者が黒岩周辺の魔物を狩っているということでしたので、次の方角の魔物はかなり残っていると考えられます」
「護衛が必要、という事でしょうか?」
「そうです。しかし今から護衛を呼ぶとなると、少々厳しいと思われます」
「冒険者を雇う……」
ヴァレリアはわずかに眉を寄せた。
「お勧めしたくはありませんが、仕方がありませんね」
セラーナは少し考えて、ヴァレリアに視線を向けた。
「道中情報も得られるかもしれません。それに……」
言葉を切り、視線を細くして続ける。
「何かあっても、ヴァレリアが守ってくれますものね」
ヴァレリアの動きが止まった。
頬が、はっきりと赤く染まる。
次の瞬間、彼女は片膝をつき、頭を下げた。
「はっ! この命に代えましても!」
声は少し上ずっていた。
セラーナはくすりと笑い、窓の外の星空を見上げた。




