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第80話最後の儀式(ライブ)——後編『解放』

 奏の指が鍵盤に沈んだ。


 最初の一音が防音室の空気を裂いた瞬間、五千万人の視聴者が同時に異変を感じ取った。


 今までのどの曲とも違う。


 『ねこのあしあと』の優しさとも『届け』の切実さとも異なる——もっと古い。もっと深い。人類が言葉を持つ前から存在していたかのような、原初の旋律がそこにあった。


 奏の指が鍵盤の上を滑っていく。楽譜はなく五線紙に記されなかった名もなき曲。指だけが覚えているその旋律を前世の記憶を辿るように、一音ずつ丁寧に紡ぎ出していく。


 イントロは静かだった。


 夜明け前の湖面に最初の光が差し込むような繊細で微かな音の連なり。低音域から始まった旋律はゆっくりと中音域へ上がり、和声が一段ずつ深みを増していく。西洋音楽の理論では説明のつかない音の重なりが、しかし聴く者の耳には完璧に調和して響く。


 コメント欄の流速が落ちていた。言葉を打てなくなった指が世界中で同時に止まっている。


 八小節目。マシロが目を閉じたまま、息を吸った。


 歌い始める。


 こちらも歌詞はなかった。言葉ではない。母音とも子音ともつかない純粋な声の振動。人間の言語体系が生まれるよりも遥かに前から存在していたであろう、魂そのものの震え。


 マシロの声が奏のピアノに重なった瞬間——防音室の空気が変わった。


 マシロの銀髪が光り始める⋯⋯あの夜を遥かに超える規模だった。マシロの髪の一本一本が内側から白銀の光を放ち、間接照明の暖色を塗り潰していく。カメラの自動補正が追いつかず、配信画面が何度も明滅する。


 マシロの全身が発光している。純白のワンピースが光を透過し、猫耳の輪郭が白銀に縁取られ、閉じた瞼の向こうでオッドアイが透けて見えるほどの輝き。尻尾が重力を無視してゆるやかに浮き上がり、先端が淡い光の粒子を撒き散らす。


 防音室が——神域に変貌していく。


 壁も天井も床も物理的な形状を保ったまま、その存在感が希薄になっていく。代わりに、マシロを中心として広がる白銀の光が空間を満たし、五千万人の画面越しに世界中のリビングや病室やオフィスや路上に溢れ出していく。


 マシロの神威が全開放されていた。


 世界中の視聴者がその圧倒的な光を浴びる。画面越しであるはずなのに肌に触れるほどの気配が伝わってくる。温かく、清浄で、途方もなく巨大な力の奔流。


 その光に触れた瞬間――病が癒え、痛みが消え、世界の理が書き換えられていく神の御業(みわざ)


 しかし——今度は起きなかった。


 奏のピアノが、マシロの神威の全てを受け止めていたからだ。


 巫女の祝詞が神の力を変換していく。マシロの声から溢れ出す圧倒的なエネルギーを奏の指が一音ずつ捕まえ、音楽という器に注ぎ込んでいく。奇跡を起こすはずだった力が、病を癒す超常のエネルギーが、奏の鍵盤を通過する瞬間に「ただの音楽」へと姿を変える。


 ただの、しかし世界で最も美しい音楽へ。


 世界中の電子機器から、イヤホンから、スマートフォンの小さなスピーカーから。誰の病も治さない。誰の傷も塞がない。失われた記憶を呼び戻すこともなく物理法則を捻じ曲げることもない。


 それでも——聴く者全員の胸の奥にある、最も柔らかい場所に確かに触れていた。


 サンパウロの病室で、少年が母親の手を握りながら涙を流している。

 癒されたのではない。ただ温かかった。


 ソウルの病棟で看護師が廊下に立ち尽くしたまま天井を見上げている。

 奇跡は起きない。けれどこの音楽が流れている間だけは何も怖くなかった。


 バグダッドの避難所で子供たちが身を寄せ合ってひび割れたスマートフォンの画面を見つめている。銃声を止める力はもうないかもしれない。それでも彼らの目に光が宿っていた。


 奏の額に汗が滲んでいく。


 指が限界を超えてもなお鍵盤を叩き続けている。前腕の筋肉が悲鳴を上げ、手首の腱が軋み、肩から背中にかけて灼けるような痛みが走る。


 マシロの神威を全て受け止めるということは、奏の肉体に途方もない負荷をかけるということだった。


 それでも一音たりとも外さない。外せない。


 古来の巫女が現代のピアニストの身体を通して全力で自らの神を支えている。指の奥で脈打つ魂の記憶が奏の技術と融合し、人間の限界を超えた演奏を可能にしていた。


 曲が中盤を過ぎ、展開部に入る。旋律が複雑さを増し、和声が幾層にも重なり合っていく。その中に——『ねこのあしあと』のモチーフが変奏された形で現れ、やがて『おおきくなっても』『届け』の旋律と溶け合い、マシロと奏が共に歩んできた全ての時間を音に編み上げていく。


 マシロは歌いながら泣いていた。


 大人の女性の頬を涙が伝い、顎先から光の粒となって零れ落ちていく。しかし声は途切れなかった。震えもしなかった。あの日の約束を——「泣かないで最後まで歌い切れ」という奏との約束を——最後の最後まで守り通すように、マシロの声はどこまでも澄み渡り、どこまでも力強く、防音室の壁を超え、電波を超え、世界の果てまで響いていく。


 同接カウンターが六千万を超えたが、もはやカウンターの数字を気にしている人間は、世界中のどこにもいなかった。


 クライマックス――奏のピアノとマシロの声が完全に一つになる瞬間が来た。


 それは計算されたユニゾンではなかった。楽理的な同期でもなかった。巫女の祈りと神の声が幾星霜(いくせいそう)の時を超えて再び出会い、自然に重なり合った——ただ、それだけのこと。


 その刹那、マシロの全身から溢れていた白銀の光が爆発的に膨張し——そして、収束した。


 暴風が凪いだように。奔流が清流に変わるように。荒れ狂っていた神威が奏の旋律に導かれて穏やかに鎮まっていく。世界を書き換えるほどの力が少女の体の内側に静かに還り、そこに調和のまま収まっていく。


 光が薄れていった。防音室の間接照明が、本来の暖色を取り戻す。


 マシロの銀髪はまだ仄かに輝いているが、もう空間を塗り潰すような爆発的な光ではなかった。穏やかで、柔らかな光。夜空に浮かぶ月のような見る者を安らがせる自然な輝き。


 マシロは神であることをやめたわけではない。


 その力は消えていない。奏の祝詞によって「音楽」という形に整えられたのだ。

 

 奇跡のエネルギーは、もう勝手に世界に溢れ出すことはない。マシロが歌えば美しい音楽が生まれ、その音楽は人の心に触れる。


 しかし、それだけだ。物理法則を書き換える超常の力はマシロ自身の意志でのみ行使できるものになった。人々の祈りや願いに引きずられることなく、自分で選び、自分で決められる。


 完全な個としての神が、そこに立っていた。


 奏が最後の和音を鳴らし終え、ペダルからゆっくりと足を離す。


 残響が防音室の壁に吸い込まれ、世界に静寂が戻った。


 奏の両手は鍵盤の上で微かに震えていた。指の感覚がほとんどない。腕全体が鉛のように重く、肩から背中にかけての筋肉が痙攣してやまない。


 それでも全てを出し切った身体は、もう一音すら弾く力を残していなかったがその顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。


 マシロは息を整えていた。白いワンピースの胸元が大きく上下し、長い睫毛に涙の雫が光っている。全身の力を使い切った歌姫の姿は儚げで、しかし同時にこれ以上ないほど満ち足りていた。


 やがて、マシロがマイクの前に一歩踏み出した。声は掠れている。全てを出し切った後の、空っぽの、でも嘘のない声。


「みんな、聴いてくれて、ありがとう」


 コメント欄が動き始めた。ゆっくりと、一つ一つの言葉に重みを持たせるように。


『ありがとう』

『言葉にならない』

『一生忘れない』

『感動なんて言葉じゃ収まらなくない』

『感謝するのはこっちの方だよ』

『あぁ、マシロちゃん⋯⋯』

『ずっと大好きです』



「マシロは、みんなのことが大好きです。みんなのコメントも、みんなの笑顔も、お手紙も、全部大好き」


 マシロの唇が小さく震え、しかし笑みの形を保ったまま言葉を続ける。


「マシロの歌を聴いて笑ってくれた人、泣いてくれた人、元気になってくれた人。みんな一人、一人のこと、マシロはずっと覚えてるよ」


 そしてマシロは振り返った。


 奏と視線が合う。


 ピアノの前に座ったまま、汗と涙で顔がぐしゃぐしゃになっている奏。世界最高のプロデューサーとは思えない、ひどい顔。それでもマシロを見つめる目だけは、いつもと同じだった。


 マシロが微笑んだ。世界で一番幸せそうに。


「でも——マシロは、タナデのものだから」


 コメント欄が弾けた。


『知ってた』

『知ってたよ!!!』

『まったくもって世界一の猫と世界一の飼い主だよ』

『もう無理泣く』

『マシロちゃんは最初からずっとタナデのものだった』

『人類は推しカプの副産物で救われたのかよ』

『尊い尊い尊い尊い尊い』

『俺たちの負けだ完敗だありがとうございました』


 マシロがマイクに向き直った。涙が一筋だけ頬を伝って落ちる。


「Vtuberの『マシロ』は、今日でおしまいにします」


 コメントの流れが一瞬止まり、そしてすぐに溢れ出す。


『嘘だろ』

『わかってたけどつらい』

『マシロちゃん⋯⋯』

『しょうがないよな。神様だもん⋯⋯』

『笑顔で見送りたいけど無理だぁああああ』

『まだまだ続けて欲しい⋯⋯』


「マシロはこれからも歌うよ。でも、タナデのためだけに歌います。タナデのピアノで、タナデの隣で、タナデだけのマシロとして」


 マシロの声が震えた。大人の女性のメゾソプラノが幼い子供の泣き声のように揺れる。


「わがままで、ごめんね」


 涙が止まらなかった。拭おうともせずマシロは笑っていた。泣きながら笑っていた。


「でもマシロはタナデと一緒にいたいの。タナデだけの、マシロでいたいの」


『わがままじゃないよ!!』

『それが一番いい』

『幸せになれよ!!』

『マシロちゃんが幸せならそれが一番だ』

『全人類がこの猫の幸せを祈ってる』

『泣きすぎて前が見えない』

『俺たちの推しは世界一幸せな猫です』


 マシロが深々と頭を下げた。銀髪が流れ落ち、首元のリボンの鈴がチリン、と最後の音を鳴らす。


「今まで、ありがとうございました」


 長い、長いお辞儀だった。


 コメント欄には言語の壁を超えた感謝と祝福と涙が溢れ返り、スーパーチャットの極彩色が画面を埋め尽くし、六千万人分の想いがたった一人の少女に向かって注がれていた。


 奏は静かに立ち上がり、ピアノの蓋を閉じた。黒い天板に間接照明の暖かな光が映り込む。


 マシロが顔を上げ、涙に濡れたオッドアイで奏を見た。


 奏が微笑みマシロが駆け寄ってくる。大人の体で子供のように。奏の胸に飛び込み長い腕でしがみつく。

 奏はマシロを抱き止めると銀髪を撫で、カメラに向かって小さく頭を下げた。


「皆さん——ありがとう。マシロを愛してくれて」


 画面がゆっくりと暗転していく。


 最後に映ったのは抱き合う二人のシルエットと首元の鈴が放つ小さな光だけだった。


 配信が終わった。

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