第81話:告白と永遠の契約
配信が終わった防音室には、二人分の荒い呼吸と空調の低い唸りだけが残されていた。
間接照明は曲の途中で負荷に耐えきれず落ちたまま戻らず、廊下から漏れる非常灯の薄緑色だけが唯一の光源になっている。モニターの画面はブラックアウトし、六千万人の熱狂は電子の海の向こうに消えた。
マシロは椅子に座ることもできず、床に座り込んでいた。
白いワンピースの裾が冷たいフローリングに広がり、腰まで届く銀髪がカーテンのように顔の両側を覆っている。全身から力が抜けていた。神威を全て解放した反動は深く、猫耳はぺたりと伏せたまま起き上がる気配がなく、尻尾も力なく床に横たわって微動だにしない。
奏はキッチンからペットボトルの水を持ってきてマシロの正面に膝をついた。蓋を開け、マシロの唇にそっと当てる。
「飲め。ゆっくりでいい」
マシロがこくこくと水を飲む。白い喉が動くたびに首元のリボンの鈴がちりん、ちりんと小さく鳴った。
水を飲み終えたマシロがゆっくりと顔を上げる。
オッドアイは——澄んでいた。
疲労はある。消耗もある。しかし右の青と左の金が湛える光は、これまで見たどの瞬間よりも穏やかで確かなものだった。全てを出し切った後にだけ現れる純真な眼差し。
「⋯⋯タナデ」
「ん」
「マシロ、ちゃんと歌えた?」
その問いかけは路地裏で拾われた夜から数えて何回目になるだろう。『ねこのあしあと』のデビューライブの後も、大きくなった後もマシロはいつも同じ言葉で奏に確認を求めてきた。
だから奏でもいつも通りに微笑んだ。
「ああ、今日も最高だったよ。文句なしの百点だ」
マシロがくしゃっと笑った。大人の顔に子供の笑い方で何百回見ても慣れない。何百回見ても胸の奥が軋むほど愛おしい表情。
しばらく無言の時間が流れり。
奏はマシロの額に張り付いた銀髪を指で除けてやり、汗を拭い、水をもう一口飲ませ、崩れかけた姿勢を直してやる。防音室の床は冷たいから膝が痛むだろうと思い、自分の上着を脱いでマシロの膝の下に敷いた。
いつもの世話焼き。いつもの二人の距離感。世界を揺るがすライブの直後だというのに、やっていることはマシロを拾った夜と何も変わらない。
やがて、マシロが口を開いた。
「タナデ」
「ん、なんだ」
「マシロ、お願いがある」
声の調子が変わっていた。甘えの色がない。わがままの響きもない。静かで、真剣で、一語一語に全存在の重みを乗せた声。
奏はマシロの目を見た。オッドアイが非常灯の薄緑の中でも宝石のように輝いている。
「どうした改まって。言ってみろ」
マシロがゆっくりと息を吸い込んだ。肺の底まで空気を満たすように。次に吐き出す言葉に一片の後悔も残さないために。
「マシロは——タナデと、ずっと一緒にいたい」
その言葉自体は何度も聞いたことがある。日常の中で甘える時にも。配信の歌終わりにも。消えそうになった時だって。マシロはいつも「タナデと一緒」を口にしてきた。
しかし今夜のそれは重さが違った。
いつもの延長ではない。飾りも照れも保険もない、剥き出しの言葉だった。
「ずっと。明日も、一年後も、百年後も」
マシロの声が微かに震える。しかし視線は逸らさない。
「タナデがいなくなる世界は、マシロ欲しくない」
奏の喉が締まった。マシロが泣きながら打ち明けたときの記憶が蘇る。人間はいつかいなくなる。マシロは神だから、ずっと一人で生き続ける。それが世界で一番怖いとこの子は言った。
「だから——タナデ。マシロの『巫女』になって」
静寂が落ちる。
空調の唸りすら消えたような錯覚の中で、マシロの言葉だけが防音室の空気に刻み込まれていく。
「マシロの隣で、ずっとピアノを弾いて。マシロが歌うから。タナデだけのために歌うから。だから——」
マシロの目から涙が一筋だけ流れた。大人の頬を伝い、顎先で光の粒になって落ちる。
「——マシロと、ずっと一緒にいて、タナデ」
防音室が沈黙に満たされる。
奏は何も言わなかった。
十秒。二十秒。三十秒。
マシロの不安が目に見えて膨らんでいくのが分かった。猫耳がさらに深く伏せられ、尻尾が自分の腰にきつく巻きつき、白い指がワンピースの裾を握りしめて皺を作る。
断られるかもしれない。
世界で一番怖いことを口にした後の、最も無防備な時間がマシロを押し潰そうとしていた。
奏がようやく口を開く。
「——条件がある」
マシロの目がぱちくりと瞬いた。伏せかけていた猫耳が中途半端な角度で止まる。
「条件?」
「一つだけだ」
奏の口元が僅かに緩んだ。敵を前にしたときのような不敵な笑み——しかし、よく見ると耳の先が微かに赤い。薄暗い部屋の明かりでも分かるほどに。
「マシロ。お前、私のことを『タナデ』って呼ぶだろう」
「⋯⋯うん。タナデはタナデだもん」
「その呼び方は嫌いじゃないし気に入ってる⋯⋯」
奏は一拍置いた。
「——だけど。永遠に一緒にいるなら、一つくらいわがままを言ってもいいか」
マシロが息を呑んだ。奏が「わがまま」という単語を自分に対して使うのを聞いたのは、おそらくこれが初めてだった。
「マシロ。私のことを——『カナデ』って呼んでくれないか」
マシロの目が大きく見開かれた。
「か⋯⋯カナデ?」
「ああ。本名だ。知ってるだろ?」
奏の視線が一瞬だけ横に逸れる。何千何万の視聴者の前でも、業界の重鎮の前でも、神使の前でさえ揺るがなかった一ノ瀬奏が——たった一匹の猫の前で顔を赤くしている。
「⋯⋯お前にちゃんと呼ばれてみたくなった」
マシロは数秒間、呆然としていた。
口が半開きになり、オッドアイが丸く見開かれ、伏せていた猫耳がゆっくりと持ち上がっていく。大人の美女の顔に、幼い子供の純粋な驚きが浮かんでいる。
それから——花が咲くように笑った。
涙の跡が残ったまま。鼻の頭が赤いまま。銀髪がぐしゃぐしゃに乱れたまま。それでも世界で一番美しい笑顔。
「——カナデ」
マシロの声が防音室の空気を震わせた。
たった三音節。けれどその響きにはマシロの全存在を賭けた信頼と愛が余すところなく込められている。舌足らずだった幼い日の発音とは違う、大人の声帯が奏でる澄んだ音。それでいて名前を呼ぶ時に語尾を少しだけ上げる甘え方の癖は変わっていない。
「カナデ、カナデ、カナデ!」
マシロが奏に飛びついた。相変わらずの勢い――床に座っていた奏はまともに受け止めきれず、背中からフローリングに倒れ込む。マシロが覆いかぶさるように抱きつき、銀髪が二人の上に降り注いで鈴がチリンチリンと忙しなく鳴り続ける。
「カナデ! マシロの、カナデ!」
「はいはい。お前のカナデだよ」
奏は床に仰向けになったまま、しがみつくマシロの背中にそっと腕を回した。
「——永遠にな」
二人が深く抱きしめ合ったその瞬間だった。
マシロの身体から光が溢れ出す。
暴走ではなく、ステージの上で世界を飲み込んだあの圧倒的な奔流とは全く異質のもの。月明かりのように柔らかく、体温のように温かく、子守唄のように優しい光がほとばしる。
マシロの内側に穏やかに収まっていた神威が、たった一つの願いだけを叶えるために、静かに脈動している。
光が奏の身体を包んでいく。
冷たくはない。熱くもない。ただ——何かが止まる感覚があった。心臓の鼓動が消えたのではない。呼吸が止まったのでもない。もっと深い場所で、もっと根源的な何かが永遠の状態で凍結した。
細胞の時計が止まり寿命という概念が、奏の身体から消え去る。
奏は自分に起きた変化を不思議なほど冷静に感じ取っていた。何かが変わった。しかし何も失われていない。指は動く。心臓は打つ。息は吸える。ただ、自分という存在に刻印されていた「期限」が——静かに、完全に、消去された。それだけのこと。
「⋯⋯マシロ、やってくれたな」
奏の声は平坦だったが、マシロを抱く腕には力がこもっている。
マシロが奏の胸元に顔を埋めたまま、くぐもった声で笑った。
「えへへ。マシロの、わがまま!」
「最大級のわがままだぞ、これは」
奏は天井を見上げた。非常灯の薄緑色が、マシロの光に溶けてやわらかな白に変わっている。
「⋯⋯まあいい。ずっと一緒と言ったのは私の方だからな。言った以上、撤回はしない」
奏はゆっくりと上体を起こし、マシロの肩を離して真っ直ぐに目を見た。マシロのオッドアイと奏の黒い瞳が交差する。
永遠を約束した神と永遠を受け入れた巫女。
「それじゃあ永遠の初日だ。まずは——」
「ごはん?」
「違う」
奏は立ち上がり、マシロに手を差し伸べた。
「旅に出よう」
マシロの猫耳がぴんと立った。
「旅?」
「お前は世界中の人に歌を届けた。でもお前自身は、この世界のことをほとんど知らないだろう」
「⋯⋯!」
「海を見たことがあるか? 砂漠を歩いたことは? 外国の街角で知らない料理を食べたことは?」
マシロは一つ一つの問いかけにゆっくりと首を横に振った。猫耳がそのたびに小さく揺れる。
「だから世界中を回ろう。二人で」
奏が差し出した手を、マシロの白い指がそっと掴んだ。
「マシロが歌いたくなったら歌えばいい。私が弾きたくなったら弾く。大きなステージは要らない。路地裏のバーでも、海辺の公園でも、砂漠の真ん中でもいい。誰かが足を止めて聴いてくれたら、それでいい」
奏は薄く笑った。
「永遠に時間はあるんだ。急ぐ必要はない。ゆっくり、全部見よう。全部食べよう。全部聴こう」
マシロは一瞬、言葉を失っていた。
差し伸べられた手を握ったまま、オッドアイが大きく見開かれ、口元がわなわなと震えている。喜びが大きすぎて処理が追いつかない子供の顔。
そして次の瞬間——大人の美貌が、子供の歓喜で弾け飛んだ。
「うん! うんうんうん!! 行く! 行きたい! カナデと行く!」
マシロが奏の腕に飛びついてぶら下がる。尻尾がちぎれそうなほど左右に振れ、猫耳がぴこぴこと忙しなく動き回り、銀髪が興奮のあまり微かに発光している。
「海見たい! 砂漠見たい! 外国のご飯食べたい! あと——あと——ツナマヨ食べる!」
「海外にツナマヨがあると思うか?」
「えっ、ツナマヨないの?」
マシロの猫耳がへにゃりと折れた。世界の真実を突きつけられた顔。
「ないかもな。その代わり、もっとうまいものがあるさ。たぶん」
「たぶん!?」
「自分の目で確かめろ。それが旅の醍醐味だ」
「みゃーーー!」
マシロが不満とも興奮ともつかない声を上げ、奏がそれを受け流して肩を竦める。二人の笑い声が防音室に響いた。
世界がどう変わろうとも。誰が何を言おうと。この二人の間に流れる空気だけは、やはり雨の夜に路地裏で出会ったあの瞬間から何一つ変わらない。
二人が笑い合い、旅の計画を——というよりマシロが「あれ食べたい」「これ見たい」と矢継ぎ早にねだり、奏が「一度に全部は無理だぞ」と呆れながらも一つ一つメモしていく、そんなやり取りを続けているあいだ。
防音室の最も暗い隅で、狐面の男が立っていた。
いつからいたのかは分からない。気配は完全に消されている。カメラにも映らない。マシロのセンサーにも引っかからない。ただそこに「在る」だけの影のような存在として。
神使は腕を組んだまま、二人の姿を見つめていた。
永遠を手にした巫女と自由を手にした神。ツナマヨの有無で一喜一憂する、人類史上最も滑稽で、最も美しい二人組を。
長い、長い沈黙の後——狐面の奥で微かに口元が動いた。
「⋯⋯巫女の末裔と迷い者の白猫か」
その声は誰にも聞こえない。聞かせるつもりもない。
狐面の下で僅かに——笑みが浮かんだ。数千年を生きた神使が見せる、数百年ぶりの本物の笑み。
「今度は——好きにするがいい」
神使の輪郭が薄れていく。端から透けて、紙が燃えるように空気に溶けていく。古い時代の匂いが一瞬だけ防音室を満たし、すぐに消えた。
最後に残ったのは微かな風だけ、マシロの銀髪がふわりと揺れて首元の鈴がちりんと鳴る。
マシロが「ん?」と小さく首を傾げたが、奏が「最初はどこがいいか」と呟いたのを聞いて、すぐに「それでね、カナデ! 海ってしょっぱいの?」と話題を戻した。
「そうだな。実際に舐めてみたらどうだ?」
「舐めていいの!?」
防音室には——二人と永遠だけが残されていた。




