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第79話:最後の儀式(ライブ)——前編『宣言』

 告知はたった二行だった。


 活動停止から四日目の正午。チャンネル『shiro_cat』の公式アカウントから一枚の黒い画像とともに投稿が上がる。


『マシロ 最終配信ライブ 本日21:00——これが最後のライブになります。 タナデ』


 それだけ。詳細も理由も何一つ書かれていない。


 投稿から三秒後にはリプライ欄が爆発し、十秒後には世界トレンド一位を奪取していた。


 SNSのタイムラインが一色に染まる。


 「最後って何だ」「嘘だろ」「モンタナ先生が動いた!」


 掲示板には即座にスレッドが乱立し、ニュース速報のテロップが世界中のテレビ画面を横切った。


『shiro_cat、本日最終ライブを告知——世界中が注視』


 BBCが速報を打ち、CNNがブレイキングニュースの枠を差し替え、NHKが臨時ニュースを挟んだ。各国の首脳官邸で補佐官がメモを走らせ、WHOの調査チームが緊急会議を招集し、バチカンの広報室に電話が殺到している。


 たった二行の告知が世界を揺らしていた。


 午後八時三十分。開演三十分前。


 奏は防音室のピアノの前に座っていた。モニターに映る待機画面の同時接続カウンターは、すでに常軌を逸した数字を刻んでいる。


 二千万。二千五百万。三千万。


 数字が上がるたびにサーバーの負荷インジケーターが赤く点滅する。大手動画配信サイトの本社が緊急で割り当てた専用リソースがなければ、とうに回線は崩壊していただろう。


 三千万人。小さな国の全人口を超える数の人間が一つの画面を見つめて開演を待っている。


 コメント欄は二十以上の言語が入り乱れる色彩の奔流と化していた。しかし、その流れの中に繰り返し現れる言葉は、どの言語でも同じ意味を持つものばかり。


「会いたかった」「心配した」「最後って本当なのか」「お願いだから嘘だと言ってくれ」「神様」


 奏はコメント欄から目を逸らし、防音室の隅に視線を向けた。


 マシロがそこに立っている。


 今日のためにくるみが再び仕立ててくれた純白のワンピース。前回の進化でサイズが合わなくなった衣装の代わりに、大人の女性の体型に合わせて急ピッチで仕立て直されたものだ。装飾を極限まで削ぎ落とした白いシルクがマシロの銀髪と猫耳と首元の紺色のリボンだけを際立たせている。


 マシロは静かに目を閉じていた。長い睫毛が頬に影を落とし猫耳がわずかに横を向いている。緊張しているのだろう。尻尾の先だけが小さく震えていた。


 奏は立ち上がり、マシロの前まで歩いた。


「マシロ」


 オッドアイが開く。金と青が間接照明の光を弾いて揺れる。


「私が先に出るから、名前を呼んだら来るんだぞ」


「⋯⋯うん」


 小さな声だった。しかし、その瞳の奥には怯えではなく覚悟が灯っている。奏はマシロの銀髪を一度だけ撫でピアノの方へ踵を返した。


 午後九時――配信スタート。


 奏がマウスをクリックし待機画面から配信画面へと切り替えた。


 映し出されたのはいつもと何ら変わらない防音室の光景。間接照明に照らされたグランドピアノ一台と、その数メートル先に置かれたコンデンサーマイクとマイクスタンド一本。飾り気のない、シンプルな空間。


 特設ステージなどどこにもない。巨大なLEDスクリーンも、レーザー照明も、オーケストラピットもない。あるのは、これまでずっとマシロと奏が配信を続けてきた、あの小さな防音室だけだった。


 同接カウンターが三千五百万を突破する。


 奏はピアノの椅子に座ったまま、卓上のマイクに手を伸ばした。


「——こんばんは」


 低く、静かな声。しかし三千五百万人の耳に、その一言は驚くほど明瞭に届いた。


 コメント欄が堰を切ったように溢れ出す。


『元気そうで良かった』

『はじまった!』

『きた』

『モンタナ先生!!』

『マシロちゃんは?』

『最後って嘘でしょ』

『会いたかった!』

『なんか色々と騒がしいけど大丈夫か?』


 言語が入り乱れ、文字が滝のように流れ落ちていく。


「まず、皆さんに謝らなければいけないことがあります。突然配信を止めて、何の説明もなく四日間沈黙して心配をかけました」


 一拍、間を置く。


「今日は——マシロの最後のライブです。その前に、私から皆さんに伝えなければならないことがあります」


 同接が四千万を超える。


 奏の声は平坦だった。感情を抑えているのではなく、言葉の一つ一つに正確な重みを載せるために意識して抑制していた。


「マシロのことを皆さんは色々な名前で呼んでくれました。歌姫。天使。奇跡の少女。そして——神様」


 コメントの流速が、ほんの一瞬だけ緩んだ。


「でも、マシロはみんなが思うような神様じゃありません」


 奏の目が、カメラのレンズを真っ直ぐに捉える。三千五百万——いや、もう四千万を超えた人々の目を、一人ひとり見つめるように。


「どんなに姿が変わっても、ツナマヨおにぎりが大好きで、ヤキモチ焼きで、泣き虫で、おにぎりを握れば天井にツナを飛ばして、留守番をさせれば配信機材を誤操作して無音ダンスを世界に垂れ流す——」


 コメント欄に笑いと泣き笑いの絵文字が混じり始めた。


「——私の膝の上で丸くなって寝たがる、ただの、歌が好きな女の子です」


 奏はそこで一度言葉を切り、浅く息を吸った。次に口にする言葉の重さを自分自身に確認するように。


「マシロの奇跡の正体を、皆さんに伝えます」


 コメント欄の空気が変わった。流速は落ちないが言葉の質が変化している。「何を言うんだ」「聞く」「静かにしろ」。画面の向こうで四千万人が姿勢を正す気配がテキストの隙間から伝わってくる。


 一方で違う種類の声も流れていた。「マシロ様に感謝を」「あの夜母を救ってくれた」「救世主を引退させるな」。そしてごく少数だが「あの力は危険だ」「人類を脅かす存在を野放しにするのか」という鋭い言葉も混じっている。


「あの夜、世界中で起きた奇跡——病気が治ったこと、痛みが消えたこと。あれはマシロが世界を救おうとした結果じゃありません」


 コメントの流れが一瞬、凪いだ。


 奏は一呼吸置いた。


「マシロは——私を守ろうとしたんです。私一人を」


 四千万の沈黙が、画面越しに伝わってきた。


「病気がある世界は、私を脅かすかもしれない。争いがある世界は、私を危険にするかもしれない。痛みがある世界は、私を苦しめるかもしれない。だからマシロは——全部、消そうとした」


 奏の声が僅かに震えた。ここだけは制御できなかった。


「私が安全に生きられる世界を作ろうとして——その副産物で世界中が救われた」


 言葉を区切る。次の一文に、全てを込める。


「世界を変えた奇跡の正体は——たった一匹の猫が飼い主を好きすぎた。それだけです」


 コメント欄が、爆発した。


 文字通りの爆発だった。コメントの流速が描画限界を突破し、画面右端がもはや色の帯と化す。しかし、その奔流の中を泳ぐように浮かび上がってくる言葉の多くは、奏が恐れていたものとは違っていた。



『そういうことだったのか⋯⋯』

『それでもたしかに俺は救われたよ。ありがとうマシロちゃん』

『奇跡とか関係ない。ずっと推す』

『泣いてる』

『マシロちゃん⋯⋯』

『猫が飼い主を好きすぎた、それだけで世界が救われたのかよ』

『人類はそれに救われたんだな』

『尊い。あまりに尊すぎる』

『古参勢、ワイ、納得しかない模様』

『それでこそ俺達のマシロちゃんだよな』


 怒りや失望や恐怖の声がなかったわけではない。しかし、それらは圧倒的な量の共感と愛情に押し流されていった。


 同接カウンターが四千五百万を刻む。


 奏は震える息を一つ吐き、最後の言葉を口にした。


「そして——この力は、いつかマシロを殺します」


 コメント欄が凍りついた。


「奇跡を生み出すたびにマシロの中の『マシロ』が薄れていく。歌うことが好きで、ツナマヨが好きで、私の隣にいたがる——あの子の心が世界の祈りに、願いに塗り潰される。いつか、マシロはマシロでなくなる。ただ奇跡を供給し続けるだけの装置になる」


 沈黙。四千五百万人分の、途方もなく重い沈黙。


「だから今日、ここでマシロを解放します」


 奏の声が、静かに、しかし鉄のように硬く響いた。


「ファンの皆さんにお願いがあります。——どうか、最後まで見届けてください」


 奏はマイクから手を離した。コメント欄は見ない。今この瞬間、世界がどう反応しているかは関係ない。


 椅子から立ち上がり、防音室の奥——カメラのフレームの外に向かって、声をかけた。


「——マシロ、出ておいで」


 数秒の間があり防音室の隅から、白い影が動く。


 銀髪が間接照明を受けて淡く輝き、純白のワンピースの裾が床を撫でる。猫耳が緊張でわずかに伏せ、長い尻尾が背中に沿うようにぴたりと寄り添っている。


 マシロがカメラのフレームに入った瞬間——コメント欄が再び弾けた。


 大人の女性の、息を呑むほど美しい容貌。神々しいほどに完成された造形。けれどカメラの前を歩いてくるその足取りはどこか危なっかしく、奏の姿を見つけた瞬間にぱっと顔が明るくなって小走りに駆け寄ってくるその仕草は——キラキラ星を歌っていたあの子猫と何一つ変わっていなかった。


 マシロが奏の隣に立つ。奏が軽く頷き、マシロがマイクの前に進む。


 同接カウンターの数字が、静かに、しかし止まることなく上がり続けている。


 五千万。


 人類史上、いかなるメディアイベントも到達したことのない領域に、カウンターの桁が踏み込んだ。


 奏はピアノの椅子に腰を下ろし、鍵盤の蓋を開いた。白と黒の鍵が、かすかに光を弾く。


 指を、置く。


 名もなき祝詞の最初の一音が、世界に向かって放たれようとしていた。

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