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第78話:名もなき祝詞——奏、最後の作曲

 防音室に籠ってから、すでに数時間が経過していた。


 間接照明だけが灯る薄暗い部屋の中で、グランドピアノの譜面台には五線紙が何枚も広げられている。そのほとんどに書きかけの音符が数小節だけ記されては太い線で消されていた。床にも丸められた五線紙が散乱し、足の踏み場を探すのにも苦労する有様だった。


 三杯目のコーヒーはとうに冷め切っている。


 奏はペンを握ったまま五線紙を睨みつけていた。頭の中では旋律の断片が幾つも浮かんでは消えていく。どれも技術的には完成度が高い。和声理論に基づいた美しい進行、計算された転調、効果的なクライマックスの設計。天才作曲家・一ノ瀬奏の名に恥じない仕事だと客観的には思う。


 しかし、全部駄目だった。


 これまでの作曲とは前提が根本的に違う。「マシロのために書く曲」ではない。この曲はマシロの神威を受け止め、制御し「奇跡」を「音楽」に変換するための祝詞(のりと)だ。神を神のまま縛るのではなく、神の力を人間の世界の言葉に翻訳するための巫女の祈り。


 頭で考えた旋律では到底足りない。


 理論で組み立てた和声では、世界規模の奇跡を「ただの音楽」に落とし込むことなど不可能だった。


 奏はペンを置き、天を仰ぐ。


 かつてのスランプとは質が違う。あの時は「書きたくない」だった。音楽を商売道具として消費されることへの絶望が筆を止めていた。今は違う。書きたい。書けるはずだ。マシロのためなら何だって書ける。


 なのに——何かが足りない。


 決定的な何かが欠落している。それが何なのかすら掴めない焦燥感が指先から全身に広がっていく。


 脳裏をよぎるのは神使の言葉――「お前の魂は巫女の系譜に連なるものだ」


 その事実を突きつけられてから鍵盤に触れるたびに何かが疼いていた。指の奥の、骨の髄の、もっとずっと深いところで。それが何なのか言語化できないまま、時間だけが過ぎていた。


 奏は五線紙を脇にどけてペンも放り出した。


 考えるのをやめよう。


 鍵盤の蓋を開けて何も考えずに指を置いてみる。五線紙も理論も和声学も全部捨てて、ただ——マシロのことだけを考えながら。


 右手の人差し指が最初の一音を押した。


 即興だった。何を弾くかは決めていない。指の赴くままに鍵盤を辿る。最初の数小節は何の変哲もない旋律だった。ありふれた進行、ありふれた音の連なり。


 しかし、八小節目を過ぎたあたりで——指が勝手に動き始めた。


 奏は自分の手を見下ろした。弾いたことのないフレーズが左手から右手へと流れるように紡ぎ出されている。意志ではない。技術でもない。指が鍵盤の上を勝手に滑り、見知らぬ和声進行を奏でていく。


 聴いたことのない旋律だった。それなのに指は一度も迷わない。まるで何千回も弾き込んだ曲をなぞるように、滑らかに、確信を持って。


 困惑した。しかしどこか——懐かしい。


 この旋律を「知っている」という感覚。忘れていた何かを思い出す感覚。夢の中で聴いた歌を朝起きて口ずさむような、あの曖昧でありながら確かな手触りが、指先から腕を伝って胸の奥に流れ込んでくる。


 旋律は既存のどのジャンルにも分類できないものだった。クラシックでもポップスでもジャズでもない。しかし、それらの根底に共通する何かが確かにあった。


 日本の神楽(かぐら)が持つ荘厳さ。グレゴリオ聖歌の静謐。アフリカの祈祷歌に宿る生命力。文化も言語も時代も超えて——人間が神に向かって手を伸ばす、あの瞬間の音。


 祈りの原型。


 それが奏の指から一音一音、防音室の空気を震わせて生まれ落ちていた。


 奏は弾きながら自分の頬が濡れていることに気づかなかった。涙がいつから流れていたのかもわからない。ただ指は止まらず、旋律は途切れることなく溢れ続けている。


 そして——不意に手が止まった。


 今弾いていた旋律の一節が、どこか聴き覚えのあるモチーフと重なったことに気づいたからだ。


 『ねこのあしあと』マシロのために書いた最初のオリジナル曲、奏にとっても特別な一曲。あのサビの核となる四小節のモチーフが、今指が紡いだ旋律の中に——変奏され、深化された形で——まるで最初からそこにあったかのように自然に組み込まれている。


 偶然ではあり得なかった。


 最初からだった。


 マシロのために『ねこのあしあと』を書いた時から——いや、もしかしたら雨の路地裏でマシロを拾ったあの夜から——奏の音楽には巫女の祈りが混じっていた。自分では純粋な作曲だと信じていたものが、魂の記憶に導かれた祝詞だったのだ。


 なぜ自分がマシロを拾ったのか。なぜマシロの歌に心を奪われたのか。なぜスランプの底で何も書けなかった自分が、マシロのためにだけは曲を書けたのか。


 全部、繋がっていた。


 奏は目を閉じて、涙を拭いもせず一心不乱に指を動かした。


 もう五線紙に書き留める必要はなかった。この曲は楽譜に記すものではない。紙に落とした瞬間にこぼれ落ちてしまう何かがある。指が覚えている。魂が覚えている。鍵盤がそれを呼び覚ましてくれる。


 旋律は止まることなく流れ続け、やがて一つの巨大な構造を描き出していった。序奏から展開へ、展開から頂点へ、頂点から静寂へ。マシロの人生そのものを音に翻訳したかのような、壮大で、しかし最後にはどこまでも優しい音の物語。


 最後の和音を鳴らし終え、ペダルから足を離した。


 残響が防音室の壁に吸い込まれ――静寂が戻る。


 奏は鍵盤を見下ろした。指先が微かに震えている。全身に心地よい疲労感が満ちていた。腕が重い。肩が軋む。それでも胸の奥には澄み渡るような静けさがあった。


 五線紙には一音も書かれていないが、この曲は奏の指と魂の中にだけある。


 曲名を考えようとしてやめた。人間の言語で名づけた瞬間に、この旋律が持つ意味が矮小化される気がしたから。


 これは神を自由にするための祈り。マシロを「世界を救う装置」から解放し「歌いたいから歌う、ただの歌姫」に戻すための曲。奇跡という名の鎖を解いてマシロの歌声を「ただの——しかし世界で最も美しい——音楽」として世界に返す。


 この曲が自分の人生最後のオリジナル曲になるかもしれない。巫女としての祈りを全て注ぎ込むこの一曲の後に、同じ深度で曲を書ける保証はどこにもなかった。


 それでも怖くはなかった。


 マシロのために全てを出し切ることに迷いはない。


 奏が鍵盤から手を離し、深く長い息を吐いたタイミングで防音室のドアが開いた。


 顔を覗かせたのはマシロだった。大人の美女の姿で銀髪が少し乱れていて——その銀髪にご飯粒が堂々と張り付いている。


「タナデ、全然ご飯食べてない。マシロ、ツナマヨ作ったよ!」


 マシロが両手で差し出したのは皿に載った三つのおにぎりだった。


 奏は思わず泣きそうになったがなんとか堪える。十数時間の精神的な消耗と魂を削るような作曲の直後に、この光景は卑怯すぎた。


 マシロが握ったおにぎりは三角形だった。ちゃんと三角形に近い形をしている。海苔もほぼ真っ直ぐに巻かれていて、ツナマヨが若干はみ出してはいるものの、以前の惨状を知る奏からすれば驚異的な進歩である。


「一人で作ったのか?」


「うん! マシロもう大人だもん!」


 マシロの尻尾が誇らしげにピンと立っている。


「ツナは天井に張り付いてないだろうな?」


「もう! そんなことしない!」


 マシロが頬を膨らませて猫耳を伏せた。


「⋯⋯ちょっとだけ壁についたけど、拭いたから大丈夫!」


 奏は小さく吹き出した。


 おにぎりを一つ手に取ると、ずしりとした重みが伝わる。

 一口齧ると少しだけ塩が多かった。海苔の端が湿ってヨレていてツナマヨの量が均等ではなく、一口目は具がなくて二口目で大量に溢れ出してきた。


 しかし、米の握り加減がちょうどよかった。固すぎず柔らかすぎず、崩れない程度にふんわりと。お米もちゃんと炊けている。かつて握力を制御できず鉄球のようなおにぎりを生成していた人物の手によるものとは信じがたい、丁寧な仕上がり。


 奏の表情が緩んだ。


「マシロ、とっても美味しいよ」


 マシロの尻尾がぶわっと膨らんで大きく左右に揺れた。猫耳がぴんと立ち、オッドアイがキラキラと輝く。大人の美女がこの上なく嬉しそうに頬を染めているその姿は、見た目と中身の落差も相まって、凄まじい破壊力があった。


「ほんと!? やった! マシロ天才!」


「ああ、天才だ」


 奏は二つ目のおにぎりに手を伸ばしながら、穏やかに笑った。


 この時間があるから戦える。この笑顔を守るために弾ける。何時間の苦悶も、魂の記憶も、巫女の業も、全部このツナマヨおにぎりの前では霞んでしまう。


 三つ目を食べ終える頃には、マシロが皿を片付けようとして盛大にバランスを崩し、落下する皿を奏が咄嗟にキャッチするという恒例の一幕が発生した。マシロが「むぅ」と唇を尖らせ、奏が肩を竦める。いつもの光景だった。


 二人はリビングのソファに並んで座っていた。


 窓の外では朝日が昇りきり、東京の空が白く明るくなっている。マンションの下に目をやれば、猫耳騎士団がまだ交代制の見回りを続けているのが見えた。権田の巨体が朝日を受けて長い影を作っている。


 奏はマシロの方を向いた。


「マシロ」


「なに?」


「今日が——配信者として最後のステージだ」


 マシロの猫耳がぴくりと動いた。尻尾の揺れが止まる。


 奏はマシロの目を真っ直ぐに見つめた。金と青のオッドアイが朝の光を受けて透き通るように輝いている。


「思い切り歌え。今まで生きてきた全部を出せ」


 マシロの瞳が揺れた。不安と、決意と、奏への信頼が混ざり合ったその色を奏は見逃さない。


「お前の全部を——私が受け止める」


 沈黙は短かった。

 

「うん」


 声は小さかったが震えてはいなかった。マシロのオッドアイには光が宿っている。


「マシロ、全部歌う!」


 尻尾がゆっくりと力強く揺れ始め、首元のリボンの鈴がチリンと鳴る。


 その音が朝の静かなリビングに響いて消える頃、奏の頭の中ではすでに今夜のステージの全てが組み上がっていた。名もなき祝詞の旋律が指の奥で静かに脈打っている。


 あとは、弾くだけだ。

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