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第77話:襲い来る世界とマシロの味方

 防音室で二人きりの即興曲を弾き終えた翌朝、奏は六時間ぶりにスマートフォンの電源を入れた。


 その通知の件数は五桁に達していた。スクロールバーが米粒ほどの大きさになっており、画面を何度弾いても底が見えない。メール受信箱の未読は四千を超え、ストレージの警告が出ている。


 奏はキッチンのテーブルにスマートフォンを置き、コーヒーを淹れながら主要ニュースサイトを巡回する。


 活動停止から二日目――世界の状況は奏の最悪の想定をさらに上回る速度でエスカレートしていた。


 まずは政治筋、国連人権理事会が「超常的能力を持つ未成年の保護に関する緊急特別セッション」の開催を決定したという速報が出ていた。マシロの名前こそ直接は記載されていないが、議題の説明文に「特定の配信者による集団的健康影響事象」という露骨な記述がある。事実上のマシロ案件だ。


 日本政府も動いていた。内閣官房に「原因不明健康事象対策室」なる組織が新設され、厚労省とデジタル庁の合同チームがマシロの居住地特定と「任意の協力要請」を進めているという報道。


 任意、という言葉の裏に透ける強制力を奏は嗅ぎ取った。


 WHOの調査チームはすでに東京入りしており、都内の病院で「マシロ効果」を体験した患者への聞き取りを開始していた。


 宗教界の反応はさらに混沌としている。バチカンが「現時点では奇跡として認定する段階にない」と慎重な声明を出した一方で、世界各地の新興宗教団体は爆発的に膨張している。南米では「聖マシロ教会」を名乗る団体が設立、初日に信者二万人を突破。東南アジアではマシロの歌をループ再生しながら集団瞑想を行う「ヒーリングセンター」が十数カ所に乱立していた。


「はぁー、えらいことになってるな⋯⋯」


 奏はコーヒーカップを置き両手で顔を覆った。指の隙間からスマートフォンの画面が光っている。


 ネットの反応は二極化が進んでいた。


 マシロを「人類の救済者」として崇拝する層とマシロを「人類の脅威」として排除すべきだと主張する層。その間で元々のファンコミュニティは必死に防波堤を築こうとしていた。


 掲示板にはこんなスレッドが立っている。


『【緊急】マシロちゃんとモンタナ先生を守る総合対策スレ Part.47』


 もう47スレ目だった。活動停止からわずか二日で。奏はスクロールしながら流し読みした。


「メディアの取材車が三台、マンション前に常駐している模様」「権田さんが現場の仲間を招集、二十四時間体制の見回りを開始」「弁護士有志がプライバシー侵害に備えた法的対応のテンプレを作成」「海外ファンがマンションの住所を特定しようとするスレを片っ端から通報して潰している」


 奏は画面をそっと閉じ、窓の外に目を向けた。


 マンションの正面入口付近に報道車両のアンテナが見える。その手前に見覚えのある巨体が仁王立ちしていた。権田だ。猫耳付きのヘルメットを被った強面の鳶職の男が、腕を組んでカメラマンを睨みつけている。その背後には同じく猫耳を装着した屈強な男たちが十数人、無言の壁を形成していた。


 猫耳騎士団――冗談のような名称だが、その威圧感は冗談では済まない。マスメディアのクルーが何か叫んでいるが権田は微動だにしない。


 奏はカーテンを閉じた。


 リビングに戻るとマシロがソファの上で銀髪を抱え込むようにして丸くなっていた。起きてはいるが、動く気力がないようだった。尻尾がだらりとソファから垂れ下がり、猫耳も横に伏せている。


「マシロ、朝だぞ。おにぎり食べるか」


「⋯⋯んー」


 気のない返事。奏はそれ以上何も言わず、キッチンでツナマヨおにぎりを握った。


 午後二時頃にくるみから三十一回目の着信が入る。流石に出ないとまずいと判断して電話に出る。


「遅い。遅すぎますよ奏さん。こっちは二日間ずっと胃が痛いんですけど!」


 くるみの声はいつもの元気を保とうとしていたが、その裏に疲労が滲んでいた。


「ごめんなさい。状況を整理するのに時間が必要だったもので⋯⋯」


「整理はできましたか?」


「ある程度は」


「じゃあ先にこっちの報告をしますね。」


 くるみの声が事務的なトーンに切り替わった。


「まず、うちの事務所——ライブ・フロンティアが全面的にバックアップに入りました。社長判断です。理由は『ワンダ・バウの個人的友人の危機に際し、事務所として最大限の支援を行う』。建前はこうですが、本音は『この件に関わっておかないと業界的に沈む』だと思います。どっちでもいいです、使えるものは使いましょう」


 奏は小さく息を吐いた。くるみの行動力と事務所の支援には何度も世話になっている。


「具体的には?」


「セキュリティ会社の手配が完了しています。マンションの警備を民間最高レベルに引き上げました。加えて権田さんの——えーと、猫耳騎士団?——と連携して、メディアの物理的な排除を行っています。法的にはグレーですが、弁護士チームが随時カバーしてくれています」


「助かります」


「あと外務省の知り合いから非公式に打診がありました。『マシロ氏の安全確保に政府として協力する用意がある。ただし、今後の活動方針について事前に協議の場を持ちたい』と」


「断って下さい」


「断りました。その三十秒後に防衛省の外局からも似たような連絡が来たので、それも断りました。ついでに内閣官房からのメールも、厚労省からのメールも全部こっちで弾いてます」


 くるみが一度深呼吸をした。


「奏さん。ネットの状況はご存知ですか」


「ええ、ざっと見ました」


「ファンの皆さんが必死に守ってくれています。権田さんを中心にネットでもリアルでも。でも——限界があります。相手が一般人やメディアなら何とかなりますけど、国家機関が本気で動き出したら、民間の力じゃ太刀打ちできない」


 奏は黙って聞いていた。


 くるみの声が少しだけ柔らかくなった。事務的な報告モードから友人としての声に。


「奏さんはどうするつもりですか?」


 窓の外では権田たちがまだメディアと睨み合いを続けている。スマートフォンの通知は相変わらず鳴り止まない。リビングではマシロがソファで膝を抱えている。


 奏は目を閉じ、一拍だけ間を置いてから答えた。


「最後のライブをやります」


 くるみが息を呑む気配が電話越しに伝わってきた。


「全世界に向けて。マシロの神威を全て解放して——私のピアノでそれを『ただの音楽』に変換する。奇跡じゃなく、エンターテインメントとして世界に届ける」


 電話の向こうが沈黙した。三秒。五秒。


「⋯⋯それは、また凄いことになりそうですね」


 奏は窓の向こうに広がる東京の空を見た。夕暮れが近づいている。この街のどこかで、世界中のどこかで、誰かがマシロの歌を待っている。


「凄いことをします。——私は世界最高のプロデューサーで、マシロは世界最高の歌姫だ。奇跡だ、神様だと騒がれたぐらいじゃ私たちは終わりませんよ」


 くるみが長い息を吐いた。呆れと信頼が半々に混じった、どこか聞き慣れた吐息だった。


「流石狂犬モンタナ先生だなぁ。⋯⋯分かりました。必要な手伝いがあれば何でも言って下さいね。——健闘を祈ります」


 通話が切れた。


 奏はスマートフォンをテーブルに置き、リビングに戻った。


 マシロがソファの上からじっとこちらを見ていた。大人の女性の美貌に不安と期待が入り混じったオッドアイ。電話の内容を猫耳で全て聞き取っていたのだろう。


「タナデ」


「聞こえてたか」


「⋯⋯うん」


 マシロが膝を抱えたまま、小さく口を開いた。


「最後って言ったけど⋯⋯マシロ、もう歌えなくなるの?」


 その声に宿る恐怖は世界がマシロを「神」と呼ぶことへの怯えよりも遥かに深かった。歌を奪われること。それはマシロにとって世界で二番目に怖いことだ。一番目は——奏を失うこと。


 奏はマシロの隣に座り、その銀色の頭をそっと撫でた。


「違う。歌えなくなるんじゃない」


 マシロの猫耳がぴくりと動いた。


「歌う場所を変えるんだ。配信じゃあまりにも影響が大きすぎるからな⋯⋯」


「⋯⋯場所?」


「ああ。詳しくはまだ言えない。これから考える。でも——マシロが歌い続けられる方法を、必ず見つける。それだけは約束する」


 マシロは奏の目を見つめた。長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。不安は消えていない。唇が微かに震えている。それでもマシロは頷いた。


 奏が「約束する」と言ったから。


 奏の約束は一度も破られたことがないから。


 尻尾がゆるりと揺れ、奏の腰にふわりと巻きついた。マシロが奏の肩に頭を預ける。銀髪が二人の間に流れ落ちる。


 窓の外では夕日が東京の空をオレンジに染めている。


 騎士団がメディアを押し返し、くるみが政府を弾き返し、世界中のファンがネットの防壁を築いている。その全てに守られた小さなマンションの一室で、二人は肩を寄せ合っていた。

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