第76話:本当の理由
時計は午前三時を回っていた。
防音室のグランドピアノの前で私はもう何時間も同じ姿勢のまま動けずにいた。鍵盤の蓋は閉じたまま額を黒い天板に預けて、冷たい塗装面の感触だけをぼんやりと感じている。
思考は何度目かも分からない同じ環を描いて、出口のない迷路をぐるぐると回り続けていた。自分の呼吸と心臓の音だけが薄暗い空間に漂っている。
その静寂を——小さな軋みが破った。
防音室のドアが、かすかに開く音。
顔を上げるとドアの隙間からマシロが顔を覗かせていた。
銀髪が寝乱れて片方の肩に流れ落ち、暗がりの中でオッドアイがぼんやりと光を帯びている。
大人の女性の姿で裸足で私のTシャツを借りたまま立っていた。
あのTシャツだ。目つきの悪いだらしない猫のイラストの下に「NO WORK DAY」(働きたくない)と書かれた、以前マシロがねだって買ってやったネタTシャツ、前までは少し大きかったサイズも今はぴったり。
しかし絶世の美女というのに相応しい女神が着るには、あまりにもひどいミスマッチだった。
「⋯⋯タナデ、いない。探したよ」
声が掠れていた。眠りの途中で目が覚め、隣に私がいないことに気づいて暗い部屋をさまよい歩いてきたのだろう。尻尾が不安そうに左右に揺れている。
私は咄嗟に表情を作った。いつもの何でもない顔を。
「悪い、起こしたか。すぐ戻る」
「嘘」
マシロが一歩、防音室の中に踏み込んできた。裸足の足音がフローリングに小さく響く。
「タナデ、泣いてないけど泣いてる顔してる」
言葉に詰まった。
この子は——いや、この大人の姿をした娘は、私のことだけは絶対に見逃さない。どんなに取り繕っても猫の直感が全てを見抜く。出会った頃からずっとそうだった。言葉が「タナデ」と「んめ」ぐらいしかなかった頃から、この子は私の感情の機微だけは一度も読み間違えたことがない。
マシロはピアノの横まで歩いてくると私の隣にすとんと腰を下ろした。防音室の床は冷たいはずだが、気にした様子もなく、当たり前のように私の肩に頭を預ける。銀髪がさらりと私の腕に流れ落ちた。
長い沈黙が落ちた。
防音室の無音が、二人の呼吸だけを浮かび上がらせる。
「⋯⋯タナデ」
「なんだ」
「マシロのせいで、タナデが苦しいの、わかるよ」
呼吸が止まった。
「マシロが歌ったら世界がおかしくなるんでしょ。マシロが大きくなったから、もっとおかしくなるんでしょ。お狐様が言ってたこと、マシロ分かってる」
マシロの声は静かだった。幼い語彙で、しかし核心だけを正確に射抜く言葉。余計な修飾を持たない分、真実だけが剥き出しで突き刺さる。
「だからタナデ、ピアノ弾けなくなってる。マシロのせいで」
「⋯⋯違う。マシロのせいじゃない」
「嘘。タナデ、マシロに嘘つく時、右手がぎゅってなる」
無意識に握り締めていた右手を見下ろした。
白く力の入った指が暗がりの中で浮かび上がっている。反論できなかった。いつから気づいていたのだろう。この癖を、私自身が自覚するよりも先にマシロは読み取っていたのかもしれない。
沈黙が重く沈殿していく中で、マシロがゆっくりと口を開いた。
「ねぇ、タナデ。マシロが大きくなりたかった理由、ちゃんと言ってなかった」
私はマシロの顔を見た。オッドアイが真っ直ぐにこちらを見つめている。その奥に宿る感情の密度は子供のそれではなかった。もっと深く、もっと切実な何かが、金と青の瞳の中で静かに燃えていた。
「みんなが好きって言ってくれて、マシロの歌を聴いてくれて、それはすっごく嬉しかった。でもね——マシロが大きくなりたかったのは、みんなのためじゃないの」
マシロの声が、かすかに震えた。
「タナデのため」
心臓が跳ねた。
「マシロが小さいままだったらタナデを守れない。タナデに怖い人が来ても、マシロは何もできない」
マシロの指が私のシャツの裾をきつく握った。
「画面の向こう側の人とか、知らない大人とか、マシロを連れていこうとする人たちが来た時、タナデが一人で全部戦ってた。マシロ、見てるしかできなかった」
あの時の光景が脳裏を過った。ネットのアンチを威圧した時、大手事務所のスカウトを門前払いにした時、神使と対峙した時、私は常に前に立ってマシロを守ろうと歯を剥いて外敵を威嚇した。それが保護者としての当然の務めだと思っていた。
マシロがその背中をどんな気持ちで見ていたのか、考えたこともなかった。
「それが——すごく嫌だったの」
マシロの声が小さく割れた。
「だから大きくなりたかった。タナデの隣に立てるくらい。タナデを守れるくらい」
何も言えなかった。喉の奥が焼けるように熱い。
マシロはまだ続けた。声は震えていて泣きそうだった。でも泣かない。あの配信の前日に交わした約束を、今もこの子は律儀に守ろうとしているかのように。
「それとね——もう一つ」
「⋯⋯」
「タナデは人間でしょ。人間は、いつかお婆ちゃんになって、いなくなっちゃう」
マシロの膝の上で指が小さく丸まった。
「マシロは神様だからずっと生きる。タナデがいなくなった後も、ずっとずっと一人で生きる」
マシロの目から一筋だけ涙が落ちた。大人の女性の頬を伝い、顎の先で銀色に光って、床に落ちた。
「それが、世界で一番怖いよ」
視界が滲んだ。ダメだ。プロデューサーが泣いてどうする。保護者が泣いてどうする。なのに目頭が熱い。込み上げてくるものを押し返す術が見つからない。
「だからマシロは大きくなった。タナデが生きてるうちに、タナデだけのマシロになりたかった。タナデと同じ大きさになって、タナデの隣にいて、タナデが歳をとっても、マシロがずっとそばにいて守って——一秒も離れないで」
声がついに途切れた。涙が銀色の睫毛を伝い、次から次へと頬を流れ落ちていく。大人の顔で子供のように泣いている。その有り様がどうしようもなく胸を抉った。
「マシロのわがままで大きくなっちゃった。世界のためなんかじゃない。全部——タナデとマシロのため」
防音室が沈黙に沈んだ。私の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「⋯⋯私のためか」
「⋯⋯うん、タナデのため。みんなを笑顔にしたいけど、一番大好きなのはタナデだから。タナデが笑っていられる世界がいい――」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中でバラバラだった全てのピースが一つに嵌まった。
マシロの奇跡——世界中で病が癒え、争いが鎮まり、痛みが消えた、あの同時多発的な奇跡。あれはマシロが「世界を救おうとした」結果ではなかったのだ。
マシロの根底にある願いは最初から最後まで一つだけだった。
奏を守りたい。
歌を聴いてくれるみんなを笑顔にしたいという気持ちは本物だろう。あの子は嘘をつけない。しかしその奥、感情の最も深い層にある動機は——もっと単純で、もっと純粋で、もっと途方もないものだった。
病気がある世界は奏を脅かすかもしれない。争いがある世界は奏を危険にするかもしれない。痛みがある世界は奏を苦しめるかもしれない。
だから——全部消したかった。
マシロの神威は一千万人の祈りを受けて世界を書き換えた。しかしその本質はたった一匹の猫が、たった一人の飼い主を好きすぎた結果に過ぎなかった。
世界規模の奇跡の正体が——こんなにも馬鹿みたいに純粋な愛情だったなんて。
長い間、何も言えなかった。言葉では足りなかった。どんな語彙を尽くしても、この胸の中で暴れている感情の百分の一も表現できない。
だから言葉の代わりに腕を伸ばした。
マシロの頭をそっと抱き寄せ、銀髪が指の間を流れるのを感じながら震える体を包み込んだ。温かい。この温もりが——世界を変えた力の源なのだ。
「⋯⋯ばかだな、お前は」
声が震えていた。プロデューサーの声ではない。作曲家の声でもない。ただの、一人の人間の声――。
「世界を巻き込むな。私を守りたいなら直接言え」
「⋯⋯言ったら、タナデ怒る」
「怒るもんか。ちょっと恥ずかしがるだけだ」
「嘘。右手ぎゅってなってる」
見下ろすと右手がまた握り締められていた。
自分でも今どんな表情をしているのか分からない。ただ胸の奥で凍りついていた何かが、じわりと溶け始めているのが分かる。
マシロを抱きしめる腕に力を込める。大人になったマシロの身体は温かく、柔らかく、しかし芯にはあの路地裏の段ボールの中で震えていた子猫の頃と変わらない、脆くて純粋な光があった。
「⋯⋯マシロ」
「うん」
「お前の歌は世界を救ったんじゃない。私を救おうとしたんだな」
腕の中でマシロがこくりと頷いた。銀髪が私の胸元で揺れ首元のリボンの鈴がチリンと小さく鳴った。
「分かった。ありがとう。もう十分救われてる——今度は私が応える番だ」
マシロの肩をそっと離し、真っ直ぐに目を見た。
「お前が私のために歌ったなら——私はお前のために弾く」
マシロの目が見開かれた。
「奇跡なんか要らない。神格も世界の均衡も知ったことか。お前の声を、ただの——最高の音楽にして世界に返す。誰も傷つかない形で」
「⋯⋯タナデ、できる?」
「できる」
立ち上がった。膝が少し笑ったが気力で無視した。
「私は巫女の末裔だそうだ。人と神の間に立って祈りを紡ぐのが血筋の仕事らしい」
ピアノの蓋に手をかけた。弾けば祈りになる。祈りはマシロの神格を——。
同じ恐怖がよぎった。一瞬だけ。
しかし、今の私にはマシロの言葉がある。
あの子が大きくなった理由。あの子が世界を書き換えた理由。その全てが私への愛だったという馬鹿みたいに単純な真実。
ならば私の祈りもまた、マシロへの愛であればいい。恐怖を飲み込むのではなく恐怖ごと音に変えればいい。今はただ——この子のために一音を鳴らす。
迷いなく蓋を開けると白と黒の鍵盤が間接照明を受けて静かに光った。
「一曲だけ、弾いてもいいか」
マシロが涙の残る目で、こくりと頷いた。
「⋯⋯うん」
鍵盤に指を置いた。中央のC――数時間前、押せなかった一音。
今度は迷わなかった。
静かに、しかし確かに——指を沈めた。
澄んだ一音が防音室に響いた。
空気が震えてマシロの猫耳がぴくりと立ち、伏せていた尻尾がふわりと持ち上がった。
一音。たった一音。それだけでマシロの全身が音楽を求めて反応している。この子は音楽を愛している。歌を愛している。そして何より私のピアノを愛している。
二音目、三音目。指が自然に動き始めた。メロディーはまだない。ただ音を紡いでいるだけだ。しかしその一音一音に今の私の全てが込められていた。
恐れも、迷いも、愛しさも、覚悟も。全部。
マシロが目を閉じた。銀髪が微かに——ほんの微かに光を帯びる。
私のピアノは、その光を煽り立てるのではなく包み込むように、鎮めるように、優しく寄り添っていた。
防音室に音楽が満ちていく。
午前三時の、誰にも聴かせるつもりのない即興曲。聴衆は猫耳の神様が一人だけ。
世界が待っている答えは、まだ出ていない。
けれど、この小さな部屋の中だけは——今、完璧だった。




