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第75話:世界の熱——加速する信仰と沈黙の一日

 目が覚めた時、世界はすでに一変していた。


 奏がリビングのソファで浅い仮眠から意識を引き上げたのは、午前七時十二分のことだった。腕の中ではマシロが丸くなって眠り続けている。大人の体躯になったというのに膝を抱えて丸まる姿勢は猫そのもので、長い銀髪が二人の体を毛布のように覆い、尻尾が奏の腰にゆるく巻きついていた。


 奏はマシロを起こさないように慎重に体を起こし、ローテーブルに伏せたままだったスマートフォンを裏返した。


 画面が点灯した瞬間、目を疑った。


 通知の数が四桁を超えていた。


 いや、正確にはカウントが追いついていない。通知バーが画面を埋め尽くし、スクロールしても底が見えない。メール、SNSのダイレクトメッセージ、不在着信。知らない番号が大半だったが中にはくるみの名前が十七回、そして見覚えのない政府機関のドメインからのメールが三通含まれていた。


 奏はまずブラウザを開いた。


 ニュースサイトのトップページを見て、呼吸が止まった。


 どの媒体も——日本だけではない、海外の主要メディアも含めて——一面がマシロ一色に染まっていた。


 『配信中に世界同時的な「奇跡」多発——銀髪の歌姫の正体は』 『WHO、集団心因性反応の可能性を示唆 調査チーム緊急編成へ』 『バチカン、公式声明を準備か——「慎重な検証が必要」』 『同接1000万の配信と同時刻に起きた医療データの異常値について——世界7カ国の病院が共同報告』



 SNSのトレンド欄は上位十件のうち八件がマシロ関連だった。


「マシロちゃん効果」「奇跡の夜」「shiro_cat」がそれぞれ世界トレンド一位から三位を独占し、四位以下にも「猫耳の神様」「届け」「モンタナ先生」が並んでいる。


 奏はトレンドの中身を見るのが怖かった。しかし見なければ判断ができない。


 指先でタップ――投稿の奔流が目に飛び込んでくる。それは感動と困惑と恐怖と崇拝が入り混じった言葉の洪水だった。各国の言語が自動翻訳を介してタイムラインを埋め尽くしている。


『母の癌が消えた。検査結果を見て主治医が泣いていた。マシロちゃんの歌を聴いていた時間と完全に一致している。ありがとう、本当にありがとう』


『これは夢ではない、現実だ。ブラジルの国立病院が発表した数値を見てくれ。同時刻に小児病棟の入院患者の87%が解熱している。偶然の確率は天文学的にゼロに等しい』


『私はカトリックの信者です。しかし昨夜の出来事を見て、祈りの形は一つではないと思い知らされました』


『怖い。率直に言って怖い。一人の少女が世界の物理法則を書き換えたという事実が』



 そして——奏が最も恐れていた類の投稿も、すでに無数に生まれていた。


 路上にマシロの似顔絵を掲げ、蝋燭を灯して跪く人々の写真。南米のどこかの街角だった。コメント欄には「聖マシロ」という単語が並んでいる。


 東南アジアの小さな村で、マシロの歌をスピーカーでループ再生しながら病人を囲む集団の動画。「治療セッション」と題されたそれは、すでに十万回以上再生されていた。


 ヨーロッパの一部で、マシロを「神の顕現」と宣言する団体が公式サイトを開設したというニュース記事。設立からまだ十二時間も経っていないにもかかわらず、登録者数は五千人を超えている。


 奏はスマートフォンを伏せた。


 手が震えていた。


 深く息を吸い、ゆっくりと吐く。もう一度。もう一度。三度目でようやく思考が動き始めた。


 決断は早かった。


 奏はPCの前に移動しチャンネル『shiro_cat』の管理画面を開いた。配信のスケジュール、予約投稿、SNSの自動更新——その全てを停止した。チャンネルのトップページに一行だけ告知文を掲載する。


『しばらくの間、全ての活動を休止します。タナデ』


 理由は書かなかった。書けなかった。


 作業を終えてリビングに戻ると、マシロがソファの上で目を擦りながら体を起こしていた。腰まで流れ落ちる銀髪が朝日を受けて柔らかく光っている。大人の女性の美貌に、寝ぼけた幼児の表情が乗っているその矛盾は、どんな状況でも奏の胸を締めつけた。


「⋯⋯タナデ、おはよ」


「おはよう。よく眠れたか?」


「んー⋯⋯マシロ、夢みた。大きな光の中にいたよ。暖かかった!」


 奏はマシロの隣に腰を下ろした。


「そうか⋯⋯マシロ。少し休もうか」


「おやすみ?」


「ああ。配信もしばらくお休みだ」


 マシロは小さく首を傾げた。大人の輪郭でその仕草をされると不思議な違和感と愛おしさが同時に込み上げる。


「⋯⋯昨日のことだよね」


「⋯⋯ああ。少しだけ考える時間がいるんだ。だから今はちょっとだけ休もう」


 マシロは奏の目をじっと見つめた。オッドアイが朝の光を弾いて宝石のように煌めく。その瞳の奥には、四歳児のメンタルには不釣り合いなほどの鋭い観察力が宿っていた。自分に関わる何か重大なことが起きていると本能で察している目だった。


 しかし、マシロはそれ以上追及しなかった。


「⋯⋯わかった」


 ソファの上で膝を抱え、奏の肩に頭を預ける。尻尾がゆったりと揺れる。


 昼過ぎになっても、状況は好転しなかった。


 奏がチャンネルの活動を凍結したことでネット上の混乱はむしろ加速していた。「モンタナ先生が沈黙した」「何か重大な問題が起きたのでは」という憶測が飛び交い、ファンコミュニティは不安と興奮の入り混じった異様な熱気に包まれている。


 しかし、奏が最も警戒していた事態は別のところで進行していた。


 過去動画の再生数が爆発的に伸びていたのだ。


 世界中の人々が——特に病を抱える人々やその家族が——藁にもすがる思いでマシロの過去の歌唱動画を再生し始めていた。「届け」だけではない。「おおきくなっても」「ねこのあしあと」「きらきら星」と過去に配信されたすべての楽曲が、祈りのツールとして消費されている。


 そして報告が来た。


 過去動画を再生しただけで——症状改善の事例が報告され始めたのだ。


 奏は管理画面に表示されたメールの山を凝視した。各国の医療機関、大学の研究チーム、ジャーナリスト、そして「奇跡を体験した」と主張する個人からの証言。


 配信を止めても奇跡は止まらない。


 マシロの声そのものに、もはや恒常的な力が宿ってしまっている。


 スマートフォンが振動した。くるみからの十八回目の着信。奏は迷った末に応答せず、短いメッセージだけを返した。


『生きてる。マシロも無事。少し時間をくれ』


 既読がついた三秒後に返信が来た。


『わかった。でも一つだけ。テレビつけないで。マシロちゃんに見せちゃダメ』


 奏はその忠告の意味を理解し、リビングのテレビのコンセントを静かに抜いた。


 夕方――マシロはリビングのソファで膝を抱えたまま、ほとんど動かなかった。


 テレビは消されているが、タブレット端末は通知によって画面を点灯させ続けていた。マシロはその光をじっと見つめていたる


「ねぇタナデ」


「ん?」


「マシロ、歌ったらダメ? 危ないかな?」


 その問いかけに奏の心臓が跳ねた。奏はタブレットをそっと裏返し、マシロの隣に座り直した。


「ダメじゃないよ。ただ、少しだけ考える時間がいるから。今はちょっとだけ休もう」


 同じ言葉を繰り返した。朝よりも、少しだけ声が柔らかくなっていた。


 マシロは膝を抱えたまま、長い銀髪のカーテンの向こうからオッドアイを覗かせた。


「⋯⋯マシロ、どうしたらいいんだろう」


 声が小さかった。大人の女性のメゾソプラノが幼い不安に震えている。


「みんながマシロのこと『神様』って呼んでるのが分かるの。でもマシロ、神様じゃない。マシロはマシロだもん」


 その言葉を聞いた瞬間、奏の中で何かが軋んだ。


 世界中が求めている。マシロの歌を、マシロの奇跡を、マシロの存在を。数千万、数億の人間がマシロを「神」として崇め、救いを求めている。その重圧が、この小さな——いや、もう小さくはないけれど中身はまだ幼い——少女の肩に全てのしかかっている。


 奏はマシロの頭を自分の肩に引き寄せた。自分と同じ背丈になった大人の頭を、マシロが段ボールの中にいた頃と変わらない仕草で。


「知ってる。お前はマシロだ。世界中が何と呼ぼうと、私にとっては甘えん坊で手のかかる、愛しい家族だよ」


「マシロ、もう大人だもん」


 マシロがくすっと笑った。尻尾が少しだけ揺れた。


 その一瞬だけ——世界の重さが、ほんの僅かに軽くなった気がした。


 深夜、マシロが寝室で寝息を立てているのを確認してから奏は一人で防音室に入った。


 間接照明を点け、グランドピアノの前に座る。何千回と繰り返してきた日常の所作。


 しかし鍵盤の蓋を開けた手が、そこで止まった。


 白と黒の鍵盤が照明を受けて静かに光っている。この上に指を落とせば音が生まれ、音はマシロの糧となり、マシロの神格を押し上げる。


 巫女の祈り――神使の言葉が脳裏を過る。奏がピアノを弾き続ける限り、マシロの神格は永遠に上がり続ける。世界中の信仰が枯渇しても、この指が鍵盤に触れるだけで、マシロという器に祈りが注ぎ込まれる。


 弾けば——マシロは「神」に近づく。マシロが歌えば歌うほど奇跡は加速し世界の均衡はさらに崩れ、マシロは人々の祈りに応え続ける「装置」へと追い込まれていく。


 弾かなければ——マシロに音楽を与えられない。歌うことが何よりも好きなあの子から音楽を奪うことになる。


 どちらを選んでもマシロを傷つける。


 奏は鍵盤の上に指を置いた。触れるだけ。音は出さない。象牙の冷たさが指先に伝わる。


 かつて、この手は「商売道具」として音楽を消費されることに絶望し、鍵盤から離れた。あの時のスランプはマシロが捨てた譜面を「宝物」として拾い集めてくれたことで癒えた。


 今度は違う。


 今度は弾くこと自体が愛する者を壊す刃になるかもしれないのだ。


 指先に力が入る。一音だけ——試すように中央のCの鍵を押し込みたい衝動に駆られた。


 押さなかった。


 奏は静かに鍵盤の蓋を閉じ、ピアノの黒い天板に額を預けた。冷たい塗装面が熱い額を冷やしていく。


 防音室は完全な無音だった。この部屋はあらゆる外部の音を遮断するように作られている。世界の喧騒も、マシロの寝息も、ここには届かない。


 奏は一人きりの沈黙の中で答えの出ない問いを抱えたまま、長い夜を過ごした。

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