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第74話:狐面——神使、再登場

 配信が終わらない。正確に言えば奏の指がマウスに伸びない。


 ピアノの最後の和音が消えてから、もう二分以上が経過していた。防音室の中には奏の浅い呼吸と、マシロの首元のリボンに付いた鈴が微かに揺れる音だけが漂っている。


 モニターの右下では同時接続数のカウンターが未だに七桁を刻み続けていた。一千万という数字は曲の終了後もほとんど減少しておらず、むしろ微増している。世界中の人間が銀髪の光が収まった後の防音室を息を殺して見守っているのだ。


 コメント欄は奇妙なほど静かだった。


 数秒に一行、ぽつりぽつりと流れてくるのは短い言葉ばかりだ。


 『ありがとう』『泣いた』『言葉が出ない』二十以上の言語で同じ意味の言葉が、まるで湖面に落ちる雨粒のように静かに連なっている。


 マシロが奏の肩口に頬を預けていた。


 大人の女性の体格になったにもかかわらず、その仕草は完全に甘えん坊の子供のそれで、白く長い指が奏のシャツの裾をきゅっと握り締めている。銀髪はまだ仄かに光を帯びていて、二人を包む空気だけが不思議な凪の中にあった。


 奏はようやく動き出して右手を持ち上げ、マウスに触れた。


「——皆さん、ありがとうございました」


 声が掠れた。咳払いを一つ挟み、プロデューサーとしての声を絞り出す。


「今日の配信はここで終了です。マシロについては追ってご報告いたします」


 クリック一つ。


 画面がブラックアウトし、白い明朝体で『配信終了』の文字が浮かんだ。一千万の接続が一斉に途絶え、モニターに映るのは管理画面のみとなる。


 ふぅ、と肺の底から長い息を吐いた。


 その呼気がまだ唇を離れきらないうちに——防音室の空気が唐突に変質した。


 音もなく、風もなく。ただ、空間そのものの密度が変わる感覚。水の中に突然インクを一滴垂らしたような、目に見えない異物が部屋の隅から滲み出してくる。


 間接照明の暖色が一瞬だけ青白く明滅して室温が二度、三度と急激に下がった。吐く息が白くなる。


「タナデ⋯⋯!?」


 マシロが本能的な恐怖に弾かれたように身を強張らせた。長く美しく成長した尻尾が、反射的に奏の左腕にきつく巻きつく。大人の体で子供のように奏の背中にしがみつき、猫耳をぺたりと伏せて隠れる。


 奏は椅子を蹴って立ち上がった。


 マシロを庇うように一歩前に出る。身長はもうほとんど変わらない。それでも守る側の体は考えるより先に動いていた。


 視線を走らせる。防音室の隅——カメラの死角に当たる壁際の暗がり。そこに立つ人影を奏の目が捉えた。


 口の裂けた狐面――白装束をまとった長身の男。実体があるのかないのか判然としない、輪郭の曖昧な佇まい。


 以前、マシロの「進化」を見届けに現れた神使だった。


 しかし、あの時に見せた上位者としての余裕は消えていた。狐面の奥に覗く双眸に切迫した光が宿っている。


「⋯⋯久しぶりですね、お狐様」


 奏の声が低く落ちる。警戒と敵意を隠そうともしない声音だった。


 神使は挨拶を返さなかった。一拍の沈黙の後、感情を削ぎ落とした声で問うた。


「配信は切ったか」


「たった今」


「ならば——今の世界を見ろ」


 神使が空中に右手の指を走らせると何もない空間に映像のようなものが浮かび上がった。プロジェクターの光でもなく、ホログラムとも違う。空気そのものが薄い膜となり、そこに世界各地の光景を映し出している。


 ブラジル――サンパウロの小児病棟。


 車椅子に座っていた少年が、信じられないという顔で自分の足を見下ろしている。次の瞬間、彼は泣き笑いの表情で立ち上がり、裸足のまま廊下を走り出した。追いかける看護師たちの悲鳴に近い歓声が響く。


 フランス――パリ郊外のホスピス。


 末期がんの緩和ケア病棟で、ベッドから起き出した患者たちが痛みが消えたと口々に訴えている。医師が頭を抱え、看護師が泣きながら患者の手を握っていた。


 日本――都内の小児病棟。


 集中治療室のモニターが次々と正常値を示し始め、子供たちが点滴スタンドを引きずりながらプレイルームに集まってきている。


 映像は次々と切り替わり、世界の隅々から同じ光景を映し出し続ける。数千、数万件規模の「原因不明の回復」が同時多発的に報告されている。


 それは人類にとって紛れもない福音だった。


 しかし——神使の声には歓喜の欠片もなかった。


「たった一曲で、これだけのことわりを捻じ曲げた凄まじい神威だ」


 感情の読めない狐面が、わずかに奏の方を向く。


「もはや新興の神で収まる器ではない。このまま均衡が崩れ続ければ——世界の(ことわり)そのものが書き換わる」


 マシロが奏の背中からおずおずと顔を覗かせた。大人の女性の美貌にオッドアイが不安に揺れている。


「マシロが⋯⋯みんなを直したの?」


 神使は無言で頷いた。


 その事実はマシロにとって喜びであると同時に、一人の少女が背負うにはあまりにも巨大すぎる責任の重さを意味していた。


 沈黙が落ちる。奏が先に口を開いた。


「⋯⋯一つ訊きたい」


 冷静な声だった。少なくとも、そう聞こえるように制御していた。


「マシロの成長速度が異常なのは、世界中の信仰が集まったからだけなのか?」


 神使の動きが止まった。狐面の奥の瞳が、わずかに見開かれる。


「⋯⋯気づいていたか」


「計算が合わない」


 奏は片手でモニターを示した。そこには彼女が独自にまとめたスプレッドシートが表示されている。再生数、登録者数、スーパーチャットの金額、SNSでの言及数——それらを時系列でプロットしたグラフとマシロの身長・体重・身体能力の変化をプロットしたグラフ。


「信仰の総量と成長速度の相関を取った。確かに正の相関はある。だけどこのマシロの進化は、この短期間でここまで劇的に進化する説明がつかない。別のファクターがないとおかしい」


 神使は長い沈黙の後、ゆっくりと息を吐いた。それは呆れと感嘆が入り混じった複雑な吐息だった。


「世界からの信仰はただの『雨水』に過ぎない。枯れた大地を潤す恵みの雨ではあるが、それだけでは木は育たない」


 一拍、置いて。


「白猫をここまで押し上げた真の燃料は——お前だ、一ノ瀬奏」


「⋯⋯私?」


「かねてより気になっていたが今宵の配信で確信した。お前の魂は、かつて神々に最も美しい詩を捧げていた巫女の系譜に連なるものだ」


「⋯⋯巫女」


「生まれたての眷属の末裔が現世に落ちてなお、生き延びられたこと。そして現代の信仰を浴びて魂を器ごと拡張し神格を得た理由、それは全てお前の仕業だ」


 前世の記憶などない。輪廻転生を信じたこともない。だが——言われてみれば腑に落ちる感覚が確かにあった。


 雨の路地裏でマシロを拾ったあの夜。段ボールの中で震える小さな白い塊に手を伸ばした瞬間の、あの抗いがたい引力。


 マシロのために曲を書き、ピアノを弾くたびに、胸の奥から湧き上がってくる理屈では説明できない充足感。それが音楽家としての喜びだとばかり思っていた。


 しかし、もしそれが——奏の魂から溢れる「祈り」そのものだったのだとしたら。


 何千回と鍵盤を叩いたこの指が、マシロという器に途切れることなく祈りを注ぎ込み続けていたのだとしたら。


 奏は自分の両手を見下ろした。指先のタコと手の甲に浮き出た血管――ピアニストの手。


「——それはつまり。世界中の信仰が枯渇しても」


「左様。今やこの娘は現世における実在する最大の神となった。この状態でお前がピアノを弾き続ける限り白猫の神格は永遠に上がり続けるであろう。それに伴う奇跡の規模も」


 神使の声は淡々としていたが、その言葉の意味する重さは奏の胸を圧し潰すのに十分だった。


 マシロを本物の「神」にしてしまった元凶は、自分自身だったのだ。


 神使が一歩、前に踏み出した。空気の温度がさらに下がる。


「このまま白猫が歌い続け、お前が弾き続ければ——世界中の病は癒え、争いは鎮まるだろう。人間にとって、これ以上の福音はない」


「⋯⋯」


「だが、それは人間が自力で立ち上がる力を失うことを意味する」


 苦しみが消えれば乗り越える努力も消える。痛みが無くなれば痛みから学ぶ知恵も失われる。人間はやがて、ただ奇跡を待つだけの存在に堕ちる。


「そしてこの娘は自身は——」


 神使の声がほんのわずかに、沈んだ。


「世界中の祈りに応え続けなければならない偶像に縛られる。それが神たる所以、神の性質ゆえに自由を失い、意志を失い、ただ奇跡を供給し続けるだけの——装置になる。その行き着く先は概念化だ」


 装置、概念化。


 その単語が防音室の冷えた空気を切り裂いた。


 奏の背筋が凍りついた。視界の端でマシロが奏のシャツの裾を握る指に力が込められるのがわかった。


「マシロ、もう歌っちゃ⋯⋯だめなの?」


 大人の姿になっても、その声は小さく震えている。世界中を救った歌姫の声とは思えないほど頼りなく細い問いかけだった。


 歌うことが大好きな彼女にとって——それは死刑宣告にも等しい。


 神使は答えなかった。


 狐面がわずかに俯く。それが沈黙の肯定なのか、ただの間なのか、奏には判断がつかなかった。


 けれど——奏はマシロの手を握った。


 大人になったマシロの手。長い指。すらりとした骨格。それでも、震え方だけはあの小さかった頃と何も変わらない。


 その温もりは。


 どんな神の理屈よりも確かで、重くて、愛おしかった。


「⋯⋯いますぐには答えを出さない」


 奏の声が防音室に響いた。震えてはいなかった。


「情報が足りない。アナタの言い分だけで判断するほど私は素直じゃないし、お人好しでもない」


 一歩、前に出る。マシロの手を握ったまま、神使の狐面を真っ直ぐに睨みつける。


「でもこれだけは約束する」


 目が据わっていた。大手事務所のスカウトを門前払いにした時と同じ目。アンチを前に法的措置を臆面もなく突きつけた時と同じ、あの狂犬の目。


「マシロを『装置』になんてさせない。絶対にだ」


 奏の声に宿る凄みに、防音室の空気が軋んだ。


「——たとえ誰が相手でも、私のプロデュース方針に口出しはさせない」


 長い沈黙――防音室の冷気が、ゆっくりと和らいでいく。


 神使は狐面をわずかに傾げた。呆れたように——しかし、その仕草のどこかに古い記憶を懐かしむような、微かな温度があった。


「⋯⋯巫女の一族は、昔から頑固だったな」


 神使の姿が端から透けていく。去り際に「――その娘を救いたくば、神威を制御するがいい」と言い残すと紙が燃えるように輪郭が薄れ、やがて何事もなかったかのように消滅した。


 室温が戻る。間接照明が暖色を取り戻す。静電気のようにざわついていた空気が凪ぐ。


 マシロが奏にしがみついた。


 大人の体格で子供のように。奏の首筋に顔を埋め、長い銀髪が二人の肩に流れ落ちる。鈴がチリンと小さく鳴った。


 奏はその銀髪をゆっくりと撫でた。絹のような手触りが指の間をすり抜けていく。


「⋯⋯大丈夫だ、マシロ」


「⋯⋯歌って、いい?」


「当たり前だ。何も変わらない。マシロはずっと歌うし私が曲を書く」


 それは嘘かもしれなかった。


 世界は変わってしまった。マシロの歌声は一千万人の祈りで世界を書き換え、奏自身の魂がその燃料であることが明かされた。何も変わらないはずがない。


 けれど今夜だけは。この優しい嘘が震える猫には必要だった。


 世界はまだ奇跡の余韻の中にいて、SNSは言語の壁を超えた興奮と困惑と感謝で埋め尽くされ、各国の報道機関は取材班を臨時招集し、神使は影のどこかから観察を続けている。


 それら全てから切り離された小さな防音室の中で、マシロが奏の腕の中でうとうとし始めた。大人の体なのに丸くなるのがうまくて、猫耳がぺたんと倒れて、長い尻尾が奏の膝にふわりと乗る。


 奏はピアノの椅子に腰を下ろし、眠りに落ちていくマシロの規則正しい呼吸を聴きながら——夜明けを待った。


 答えはまだ出ない。

 それでも、この温もりだけは手放さない。

 それだけが今の奏にとって唯一の揺るぎない真実だった。

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