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第73話:届け——世界同時配信ライブ

 それは人類のネットワーク史において――否、人類史において「奇跡の夜」として語り継がれることになる配信の、ほんの三十分前の出来事。


 東京の片隅にあるマンションの一室――厳重な防音施工が施された薄暗いスタジオの中で、一ノ瀬奏は無言のまま配信機材の最終チェックをこなしていた。


 複数のモニターが放つ青白い光が、彼女の真剣な横顔を照らし出している。


 オーディオインターフェースの入力レベル、カメラのピント、エンコーダーの負荷状況。プロデューサーとしての冷徹な目で一切の妥協なくシステムを見つめていた。


 しかし彼女の目の前にあるメインモニターの光景は、もはや一個人の配信者が管理できる領域をとうに超え、常軌を逸していた。


 画面中央に表示されているのは『開演までお待ちください』というシンプルな文字だけが書かれた待機画面だ。

 

 その右下に表示されている同時接続数のカウンターは、開演三十分前であるにもかかわらず、すでに「5,000,000」の大台を突破していた。


 五百万人、一つの大都市の人口に匹敵する数の人間が今この瞬間、同じ画面を見つめて待機している。

 右端に流れるコメント欄は文字の滝を超えて、もはや色彩の濁流と化していた。


 日本語、英語、スペイン語、ハングル、アラビア語、ロシア語。二十以上の言語が入り乱れ、スーパーチャットの極彩色が明滅を繰り返している。あまりの流速に高性能なパソコンの処理能力をもってしても描画が追いつかず、時折画面がカクついた。


 世界が、待っている。


 奏は深く息を吐き出してマウスから手を離した。


 一方、防音室の隣の部屋ではマシロが身支度を整えていた。

 今日の日のために戌井くるみが知り合いのツテを頼り仕立ててくれた特注の一着だ。


 装飾を極限まで削ぎ落とした純白のワンピース。上質なシルクの生地は、マシロが少し動くたびに柔らかな光の波を打つ。


 鏡の前に立つその姿は、かつて雨の路地裏で震えていた子猫の面影を残しつつも、見違えるように美しく成長していた。


 腰の少し上まで伸びた豊かな銀髪は、ブラシを通すたびにサラサラと音を立て、毛先が透き通るような白銀に輝いている。


 推定年齢十五歳――幼さを残しながらも少女から大人の女性へと変わりゆく最も不安定で、最も美しい過渡期の外見。


 薄暗い部屋の中でも左右で色の違う瞳――右の青と左の金色のオッドアイは、まるでそれ自体が発光しているかのように、宝石の輝きを弾いていた。


 しかし、何よりも目を引くのは、その佇まいだった。

 彼女がそこに立っているだけで周囲の空気が清浄に澄み渡るような、不思議で圧倒的な存在感があった。


 マシロは鏡の前で自分の首元に手を伸ばした。


 奏から初めて貰ったプレゼント、彼女の宝物――いつものベルベットリボン(鈴付き)を結ぼうとして――ふと、その手が空中で止まった。


「⋯⋯タナデ」


 微かな声、防音室のドアを少しだけ開けて顔を出した奏にマシロは鏡越しに視線を向けた。


「どうした?」


「マシロ、今日、ちゃんと届けられるかな」


 その声には彼女の小さいころからあった、ちょっぴりと臆病な性格が見え隠れしていた。

 世界中の何百万人という人間の期待と祈りと願いが、自分の小さな背中に乗っていることを彼女は本能で悟っている。


 自分が背負うものの重さを改めて自覚し、恐怖を感じた子供の顔だった。


 奏はその瞳の奥にある怯えをしっかりと受け止めると一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げ口角をわずかに――しかし力強く上げた。


「届ける。マシロが歌って私が弾く。いつも通りだ」


 余計な言葉は要らなかった。

 奏のその一言はどんな魔法の言葉よりも強くマシロの心を繋ぎ止めた。


 マシロの頭の上で伏せかけていた猫耳がぴんと真っ直ぐに立ち上がり背中を丸めていた尻尾が、ゆっくりと、力強く左右に揺れ始める。


 鏡の中の表情から怯えが消え、不安と期待が入り混じった、しかし決して逃げ出さないと決意した子供の顔になった。


「⋯⋯うん。⋯⋯わかった!」


 マシロは両手でリボンをキュッと結び、小さな鈴をチリンと鳴らした。


 ☆


 午後九時――世界標準時が切り替わると同時に配信が開始された。


 待機画面から切り替わり映し出されたのは間接照明に照らされた小さな防音室。

 

 グランドピアノの前に座る黒い服の奏とコンデンサーマイクの前に立つ純白のワンピースを着たマシロ。


 それはいつもと何ら変わらない彼らの日常の配信風景、それが映し出されてからわずか十秒。

 同時接続数のカウンターが瞬きする間に跳ね上がり6,000,000を突破した。


 もはや一国の人口に匹敵する大群衆が、この小さな部屋の映像に全神経を集中させている。

 奏がピアノの前に座ったまま、マイクに向かって短く静かに告げた。


「皆さん、こんばんは。今夜は一曲だけ歌います。マシロが自分で歌詞を書いた、新曲です」


 その言葉が発せられた瞬間、嵐のように流れ続けていたコメント欄の流速が弱まったように思えた。

 数百万の人間が画面の向こうで同時に息を呑んだのだ。


「曲名は——『届け』」


 奏がマイクから顔を背け、ピアノに向き直った。


 深く息を吸い込み、細く長い指を鍵盤の上に置く。


 イントロが始まった――静謐なピアノの旋律が防音室の空気を震わせた。


 それはまるで波一つない夜の湖面に静かに小石を落としたような、繊細で優しい波紋だった。

 奏の指は迷いなく、けれど慈しむように鍵盤を撫でていく。


 音の一粒一粒が決して飾り立てられた技巧ではなく「マシロの歌を導く」という明確な意志と祈りを持って響いていた。


 そうして、マシロが口を開いた。


『ねえ きこえる? マシロのこえ きこえるかな』


 その第一声が放たれた瞬間、世界が変わった。

 流速が落ちていたコメント欄が——完全に止まった。


 物理的にサーバーが落ちたのではない。システムのエラーでもない。

 ただ、画面の向こうにいる六百万人の誰もが何も打てなくなったのだ。


 指がキーボードの上で凍りつき、スマートフォンを握る手が力を忘れた。

 何万キロも離れたモニター越しであるにもかかわらず、マシロの声は聴く者の鼓膜を通り越し、胸腔の最も柔らかい部分に直接触れるような、圧倒的な「質量」と「温度」を持っていた。


 同時接続数が700万を超える――瞬く間に800万。


『じょうずに じは かけないけど

 じょうずに おはなし できないけど

 ここの むねのおくが きゅんってするの』


 マシロの声は震えていなかった。

 昨日の練習で「泣かないで最後まで歌い切る」という奏との約束を彼女は完璧に守っていた。


 押し寄せる感情は涙として溢れるのではなく、全て声の響きの中に溶け込んでいる。

 その声にはただ技術的に「上手い」という次元を遥かに超えた、根源的な何かが宿っていた。


 聴く者の記憶の底にある母親の温もりや、遠い日の夕焼けや、失ってしまった大切なものを呼び覚ますような、魂の震え。


 奏のピアノが、その声を下から優しく、力強く支えていた。

 それはもはや、単なる伴奏ではなかった。


 巫女が神に祈りを捧げるように全身全霊で「彼女の願い」を世界へ送り届けるための、命の律動だった。


 後に世界中の音楽評論家がこの配信のアーカイブを分析した時、彼らは言葉や国境を超えて、全員が同じ結論に辿り着くことになる。


『あのピアノは伴奏ではなかった。祈りだった』と――。


 同時接続数がは900万を超えた。


 ☆


 同時刻——世界各地。


 ブラジル、サンパウロの小児病棟。


 六歳の少年は三週間続いた原因不明の高熱に苦しみ、荒い息を吐きながらベッドの横で母親が持つスマートフォンから流れる歌声を聴いていた。


 少年はポルトガル語しか話せない。画面の中で銀髪の少女が何を歌っているのか、歌詞の意味は一語もわからない。


 それでも彼は熱で潤んだ目を閉じ、小さな手で母親の震える指をしっかりと握り締めた。


 韓国、ソウルのホスピス。


 末期の膵臓癌を宣告され、緩和ケアを受けている六十七歳の女性は、孫が枕元に置いていったタブレット端末から流れる歌を、混濁する意識の淵で聴いていた。


 彼女はもう三日前から自力で水を飲むこともできず、ただ痛みに耐えながら死を待つだけの状態だった。


 イタリア、ローマの老人ホーム。


 重度のアルツハイマー型認知症を患う八十二歳の男性は、介護士が気晴らしにつけたままにしていたテレビのブラウザから流れる音楽に、焦点の合わない目でぼんやりと顔を向けていた。


 彼は二年前から自分の娘の名前はおろか、自分が誰であるかさえ思い出せなくなっていた。


 イラク、バグダッドの避難所。


 インフラが破壊され停電が続く暗闇の中、一台のひび割れたスマートフォンを、十数人の子供たちが身を寄せ合って囲んでいた。


 バッテリー残量はわずか七パーセント。赤い警告表示が出ている。

 それでも誰もその画面を消そうとしなかった。


 これらの場所では、まだ何も起きていない。

 まだ——。


 ☆


 クライマックス——ラストサビ。


 同時接続数は990万を突破した。


 完全に密閉され、空調の風すらも直接当たらないはずの防音室の中で、マシロの銀髪がフワリと揺れている。


 奏はピアノを弾きながら視界の端でその異変を捉えたが指を止めなかった。いや、止めるわけにはいかなかった。


 マシロの声が曲の最後のサビに入る。


『ましろのうたで だれかがわらってくれたら』


『とおくのだれかが げんきになってくれたら』


『こわいよるも さみしいあさも』


『そばにいるよって つたえられたら』


『それがマシロの いちばんのしあわせ』


 ここで決定的な異変が起きた。


 マシロの銀髪が——光った。


 昨日のリハーサルで奏が「気のせいだろうか」と一瞬だけ疑ったあの現象は、決して気のせいではなかった。


 銀色の髪の一本一本が、まるで内側に発光体を宿したかのように眩い光を放ち始め、薄暗かった防音室を淡い白銀の光で満たしていく。


 カメラのレンズが突然の強烈な光源に驚き、自動補正をかけようとして失敗し配信画面が数秒間、真っ白に白飛びする。


 その瞬間――同時接続数のカウンターが、ついに桁を一つ繰り上げた。


 ——10,000,000。

 一千万。


 人類の配信史上、いかなる世界的イベントも、スポーツの祭典も到達し得なかった前人未到の記録。

 一千万人の「祈り」が、画面越しの小さな少女の器に一点集中した瞬間。


 マシロは気づいていなかった。自分の髪が神々しく光り輝いていることも、同接数が世界記録を塗り替えて歴史に名を刻んだことも。


 彼女の意識はただ一点にのみ集中していた。


 歌を、想いを。

 届けること。


 ――最後のフレーズ。

 マシロが肺の底から深く息を吸い込み、全身全霊の想いを込めて、声を天へと放った。


『とどけ とどけ このおもい』


『あなたのこころに ひかりがともるように』


『マシロはずっと ここでうたうよ』


 そのとき――マシロの体全体が爆発的な白銀の光に包み込まれた。


 ☆


 奇跡——同時刻・世界同時多発。


 サンパウロにて少年の額に当てていた母親の手がビクッと震え、思わず引っ込められた。

 異変に気づいたのだ。


 熱が——引いている。


 三十九度八分という危険水域を示し続けていたデジタル体温計の数値が、母親の見ている前で嘘のように下がっていく⋯⋯。


 三十八度。三十七度五分。三十七度。平熱。


 しばらくすると少年がゆっくりと目を開け、三週間ぶりに「お腹すいた」と呟いた。


 母親は信じられないものを見るように息を呑み、次いで悲鳴のような泣き声を上げながら、少年の体をきつく抱きしめた。その泣き声は静かな病棟全体に響き渡った。



 ソウルにて末期患者の女性が突然、自分の手でサイドテーブルにあった水の入ったコップを掴んだ。

 三日間、指一本動かす気力もなかった腕が震えながらも確かに持ち上がっている。


 ナースコールを聞きつけて看護師が駆け寄った時、女性は一口の水を飲み終えて窓の外を見つめながら静かに微笑んでいた。


「⋯⋯いい歌ね」


 タブレットからはまだ、ピアノの透き通るような音が流れ続けていた。



 ローマにて老人が、焦点の合わなかった目を大きく見開き、テレビの画面を食い入るように見つめていた。

 そしてゆっくりと口を開き——二年間、一度も発しなかった言葉をはっきりとした発音で呟いた。


「マリア」


 それは毎日見舞いに来ていた、彼の最愛の娘の名前だった。

 側にいた介護士は手からカルテを落とし、何が起きたか理解できず、ただ口を開けて立ち尽くすしかなかった。



 バグダッドにて子供たちが囲むスマートフォンのバッテリーは、曲の途中で残り一パーセントになっていたはずだった。


 しかし、画面は消えなかった。


 マシロの歌が終わるまで——理屈では絶対に説明できないが、バッテリー残量という物理法則を無視して——その小さな画面は真っ暗な避難所を照らし続けていた。そしてその日から銃声の音は止むことになる。


 報告は数分のうちに世界中から上がり始めた。


 各地の病院のナースコールが一斉に鳴り響き、当直の医師が廊下を走り、SNSには信じられないという投稿が言語の壁を越えて溢れ返った。


 奇跡の治癒。意識の回復。痛みの消失。

 それらの不可解な現象のすべてがマシロが最後の一音を歌い切った、まさにその瞬間に起きていた。


 ☆


 進化——防音室。


 奏はピアノの最後の和音を鳴らし終え、ペダルから足を離した。


 指先は震えていて、すぐにはマシロの姿を確認することが出来なかった。


 彼女から感じる気配が——あのときのように変化していた。やがて、マシロを包んでいた強烈な白銀の光が、風が止むようにゆっくりと収束していく。


 しかし光が完全に消えた後、そこに立っていたのは奏がよく知っている「マシロ」ではなかった。


 背丈は奏とほぼ同じ目線まで伸びていて、銀髪はさらに長く腰の下まで滝のように流れ落ちていた。


 頭の上の猫耳はそのまま——しかし、かつての幼さや愛玩動物の象徴だったそれは、今は気高く凛とした冠のように見えた。


 体つきは華奢で未成熟な少女から、しなやかで完成された大人の女性へと劇的な変貌を遂げている。くるみが作ってくれた白いワンピースは、もう完全にサイズが合わなくなり、裾が短く、袖が手首まで届かなくなっていた。


 顔立ちは——息を呑むほどに美しかった。

 元々整っていた造形が十数年分の年齢と成熟を一瞬で得たことで、神々しいほどの完成形に達していた。


 ただ、そのオッドアイだけが変わらず右の青と左の金が、幼い頃と同じ純粋で無垢な光を湛えている。


 しかし最も劇的に変わったのは彼女の容姿ではなく「纏う空気」だった。

 防音室の空気そのものがマシロを中心にして穏やかに凪いでいる。


 近づく者の呼吸を自然と深くさせ、心拍を落ち着かせ、すべての不安を洗い流すような不思議で圧倒的な安らぎがそこにあった。


 もはや「猫獣人の成長体」という生物学的な言葉では到底説明しきれない。

 それはまさに——神気、あるいは神聖としか呼びようのないものだった。


 マシロは数秒間、マイクの前で自分の手のひらをじっと見つめていた。

 長くなった指。すらりとした腕。大人の女性の骨格。

 見知らぬ自分の身体を確認するように、ゆっくりと手を握って、開いて。


 そして奏の方を振り向いた。


 変わっていなかった。

 外見がどれだけ劇的に変貌しようと。

 世界の一千万人の祈りを一身に受け止め、神としての格を上げようとも。


 奏を見る時の——安心と、甘えと、誇りと、ほんの少しの独占欲がないまぜになったあのオッドアイの輝きだけは、あの雨の降る冷たい路地裏で拾った夜から一度も変わっていなかった。


「⋯⋯タナデ」


 声も変わっていた。

 少女特有の高く澄んだソプラノから深みと透明感を両立した、落ち着きのある大人のメゾソプラノへ。


 それでも言葉の抑揚の癖、名前を呼ぶ時に語尾を少しだけ上げる甘え方、その全てが間違いなく「マシロ」だった。


「マシロ⋯⋯もっと大きくなっちゃった」


 奏はピアノの椅子に座ったまま、凍りついたように動けずにいたが長い沈黙の後にようやく口を開いた。


「⋯⋯ああ。大きくなったな」


 それ以上の気の利いた言葉はどうしても出てこなかった。


 奏の目が赤くなっていた。

 泣いてはいない。泣くものか。世界一のプロデューサーが、たかがタレントの成長くらいで泣いてどうする。


 しかし、喉の奥が焼けるように熱く、何かを口走れば、そのまま情けない声で泣きじゃくってしまいそうだった。


 マシロが一歩、奏に近づいた。


 奏の目の前に立ち、かがみ込み——かつては奏が見下ろしていたはずなのに、今は同じ目線になって。

 そして奏の頬に白く美しい両手を当てた。


 大人の女性の手――しかし、その仕草の不器用さは完全に子供のそれだった。


「泣いていいよ、タナデ。マシロはもう、最後まで歌い終わったから」


 ――昨日の約束。


 『泣くのは私が許可してからだ』


 まさか、その言葉を、こんな形でマシロからそっくりそのまま返されることになろうとは。


「⋯⋯馬鹿言え。泣いてない。目に、ゴミが入っただけだ」


 不器用な、いつもの強がり。

 マシロは、にこっと笑った。


 絶世の美女の顔で四歳児のように無邪気な笑い方をした。

 その矛盾が、どうしようもなく愛おしかった。


 防音室の中、奏はマシロの温かい手に頬を預け、世界で一番静かな時間を過ごしていた。

 一千万人の同時接続はまだ誰一人として離脱していない。

 そして世界では、マシロがもたらした奇跡の余波がまだ続いている。

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