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第72話:伸びる身長と最後の練習

 新曲披露の配信を明日に控えた午後。私はリビングにある歴史が刻まれた柱の前に立った。


 この柱には小さな傷がいくつも刻まれている。 一番下の傷はマシロがまだ幼い猫の姿だった頃、背伸びして私の膝に手を伸ばしていた時期の記録だ。次の傷はあの一夜で少女に成長した後、すこし動揺しながら測った時のもの。


 今はその上にもいくつかの傷があり今日、新しい傷をつける。


「よし、マシロ。背中をつけろて踵は浮かせないぞ」


「うん!」


 マシロは真剣な顔で頷き、気をつけの姿勢をとった。 銀色の長い髪が柱に押し付けられ、白い猫耳がぴくりと緊張で動く。私はプラスチックの定規をマシロの頭頂部——耳の根元のすぐ下——に水平に当て、柱に強く押し付けてから、鉛筆で小さな印をつけた。


「よし、離れろ」


 マシロが柱から退いた隙に私はスチール製のメジャーを印まで伸ばした。冷たい金属の目盛りが示す数値を読み取り、私は小さく息を吐いた。


「⋯⋯また伸びてるな。先週からプラス1センチだ」


「やった! タナデ、もうすぐ追いつく?」


 マシロは無邪気に目を輝かせ、私の前に立って爪先立ちになり、顔を覗き込んできた。頬のすぐ横にマシロの顔がある。最近、こういう時に「近い」と感じるようになった。以前はまだ見下ろしていたのに、今は目線がほとんど同じ高さだ。


「まだまだだよ。⋯⋯しかし、私はもうこれ以上伸びないが、お前はどこまで大きくなるか分からないな」


 私は苦笑してマシロの銀髪を撫でたが、内心では素直に喜べない自分がいた。


 柱の傷を見下ろす。 わずかの間に普通の人間なら十数年かかる成長が圧縮されている。


 この加速は偶然ではない。見ている人間の数が増えるたびにマシロの身体が応えるように膨らんでいく。それはまるで世界中から注がれる視線そのものが栄養であるかのようだった。


 もし、明日の新曲配信で同接記録を更新し、さらに莫大な「視線」を浴びてしまったら?  彼女は一気に大人の女性へと成長してしまうのだろうか。それとも——。


(⋯⋯考えても仕方のないことだな)


 私は頭を振り不安を振り払った。プロデューサーの私が怯えていてはマシロが不安がる。


「服、また買いに行かないとな。ツンツルテンじゃ恥ずかしいだろ」


「新しいの!? わぁい! タナデとお揃いの服がいい!」


「⋯⋯お揃いは難しいな、くるみさんに相談してみよう」


「えー!」


「えーじゃない」


 私はマシロの鼻先を軽くつまみ、笑い合った。柱の傷は、いずれ私の身長を追い越すだろう。その日が来ることが少しだけ怖くて、少しだけ楽しみだった。


 ☆


 身長測定の後――防音室の照明を落とし間接照明のオレンジ色の光だけを残した部屋の中は、本番前特有の静謐で張り詰めた空気が漂っている。


 新曲『届け』の最終リハーサルだ。


 私はグランドピアノの前に座り、マシロはマイクの前に立った。ヘッドホン越しにマシロの小さな寝息のようなブレス音が聞こえてくる。緊張しているのだ。吐く息に微かな震えが混じっている。


「よし、いくぞ」


「⋯⋯うん」


 私の合図で繊細なピアノのイントロが始まった。静かで水面に波紋が広がるような、優しいメロディ。


 マシロが口を開く。歌詞はマシロ自身が不器用なひらがなで紡いだ、純粋な言葉たちだ。


『ねえ きこえる?  マシロのこえ きこえるかな』


 出だしは完璧だった。 透明で耳元で囁くような優しい歌声がスタジオの空気を震わせる。

 マシロは目を閉じ、自分の内側にある言葉を一つ一つ丁寧にメロディに乗せていく。


 ピッチもリズムも問題ない。指先でピアノを弾きながら、私はマシロの声の質感に耳を澄ませた。いい。声が「前に出ている」。怯えてもいないし、力みもない。このまま最後まで——。


 しかし、曲が展開して感情のピークを迎えるサビに差し掛かった瞬間だった。


『ましろのうたで だれかがわらって⋯⋯っ』


 声が変わった。震えたのではない。マシロの声に別の色が滲んだのだ。透明なガラスの内側に、じわりと温かい水が満ちていくような——それは「感情の飽和」としか呼びようのない現象だった。


 声がたわみ、語尾が不自然に詰まる。

 ヘッドホンからヒュッと息を呑む音と微かな嗚咽が漏れ聞こえた。


(⋯⋯これは)


 私はピアノを弾き続けながらマシロの様子を窺った。マシロはマイクの前で両手で顔を覆い、肩を震わせていた。


 あの、クレヨンでマシロの絵を描いてくれた心臓病の五歳の女の子。入院中のベッドで毎晩マシロの歌を聴いて眠っていると書いてくれた老人。

 

 言語の壁を越えてアラビア語やポルトガル語で寄せられた「ありがとう」の言葉たち。

 マシロはそのすべてを覚えている。一通一通、一言一言を猫の記憶力で正確に。


 だからこそ歌詞の「だれかがわらって」というフレーズが引き金になる。自分の書いた言葉と現実の誰かの顔が重なった瞬間、感情が声の容量を超えてしまうのだ。


「うっ⋯⋯ぐすっ⋯⋯」


 ついにマシロは歌うのを完全に止め、その場にしゃがみ込んでしまった。


 私はピアノを弾く手を止めた。最後の和音の残響が防音室の壁に吸い込まれて消える。


 静寂の中にマシロの小さな泣き声だけが残った。


 私は椅子から立ち上がり、しゃがみ込んでいるマシロの正面に膝をついた。


「⋯⋯マシロ。泣いたな」


「ごめんなさい⋯⋯でも、みんなのこと、思い出しちゃう⋯⋯。胸が、ぎゅーっていっぱいになる⋯⋯」


 マシロは指の隙間から涙でぐしゃぐしゃになったオッドアイを覗かせ、必死に訴えた。

 悲しいわけじゃない。嬉しいのだ。嬉しくて、ありがたくて、愛おしくて、優しすぎて、心が震えてしまうのだ。


 その純粋すぎる感受性は表現者としては最大の武器であると同時に最大の弱点でもあった。


 私はマシロの手をそっと退け、頬を伝う涙を親指で拭ってやった。

 温かい。この体温も、この涙も、ほんの数ヶ月前には存在しなかったものだ。


「いいか、マシロ。泣くな」


 私の声は低く、静かだった。


「泣いたら、歌が止まる」


「でも⋯⋯」


「思い出していい。誰かのことを想って、感情を込めるのは正しいことだ。だけどな、マシロ。お前が泣いて声を出せなくなったら——待っている人たちの元に、歌は届かないんだ」


「⋯⋯」


「お前の声は歌っている間だけ『翼』になれる。泣いて声が途切れたら翼は折れる。折れた翼では、どこにも飛んでいけない」


 マシロの涙が一瞬、止まった。

 オッドアイが私の顔を、食い入るように見つめる。


「⋯⋯あの子にも泣き声を届けたいのか?」


 私は静かに問いかけた。


「マシロの絵を描いてくれた、あの五歳の子に。『怖いのがなくなった』って笑ってくれた、あの子に。お前が泣いてる声を聴かせたいのか?」


 マシロはブンブンと強く首を横に振った。銀髪が大きく揺れ、涙の雫が飛び散った。


「ううん。⋯⋯笑ってほしい。元気になってほしい」


「なら、歌え。最後まで」


 私は強い口調で言った。それから少しだけ声のトーンを落とした。


「⋯⋯私も昔、ライブの本番中に泣きそうになったことがある」


 マシロが、きょとんとした顔をした。


「タナデが?」


「ああ。初めて自分の曲に客が泣いているのを生で見た時だ。嬉しくて、怖くて、胸がいっぱいになって、指が止まりそうになった。⋯⋯でも止めなかった」


「どうして?」


「止めたら、その人の涙の理由が途中で消えてしまうからだ」


 マシロは小さく息を呑み、そしてゆっくりと目を擦った。

 その仕草は、まだどこか幼い子供のそれだった。でも目の奥に宿る光はさっきとは違っていた。


「マシロ」


「⋯⋯うん」


「お前はプロだ。今日からそう呼ぶ」


 マシロのオッドアイが驚きと戸惑いで小さく揺れた。


「⋯⋯マシロも、プロ?」


「そうだ。お前はもう路地裏で拾われたただの子猫じゃない。世界中の人間を動かす歌を持った、プロのアーティストだ。——だからプロとして最後まで歌い切れ」


 その瞬間だった。マシロの纏う空気が変わった。


 ペタンと伏せられていた白い猫耳がピンと立ち上がり、怯えたように足元に丸まっていた尻尾が真っ直ぐに伸びた。

 涙で濡れた顔から甘えと弱さがスッと引き、代わりに凛とした意志の光が宿る。


 変化は微かだったが確かで、しゃがみ込んでいた少女が歌い手の顔になっていた。


「⋯⋯わかった。マシロ⋯⋯泣かない!」


 マシロは自分の袖で乱暴に目元を拭い、すっと立ち上がると再びマイクの前に直立する。


「最後まで、歌う。⋯⋯あの子たちに、届ける」


「いい返事だ」


 私は満足げに頷き、マシロの銀髪をクシャッと一度だけ乱暴に撫でてから、再びピアノの前に戻った。  椅子の高さを微調整して鍵盤の蓋を開ける。


 指を鍵盤の上に置いた瞬間、自分の手が僅かに震えているのに気づいた。


 さっきの話は嘘ではない。——ただ、あの日、私は結局泣いた。ステージの袖に戻ってから誰にも見えない場所で。マシロにはまだ教えない。


「ラストだ。本番だと思ってやれ」


「うん!」


 ヘッドホン越しに今度は力強いブレス音が聞こえた。さっきまでの震えは消えていた。


 私は鍵盤に指を落とす――ピアノのイントロが流れ、マシロが息を吸い込む。


 今度は震えなかった。


 胸の中にある圧倒的な感情の渦を涙ではなく、全て「声」に変換していく。

 優しさはそのままに芯のある強さを帯びた声がスタジオに満ちた。


 間接照明のオレンジの光の中でマシロの銀髪が微かに——本当に微かに、蛍のように淡く光ったような気がした。


『もしも、あなたがさみしいなら』


『もしも、あなたがこわいなら』


『マシロが、そばにいってあげる』


 マシロは目を閉じなかった。真っ直ぐに前を——カメラのレンズの向こう側にいるであろう、まだ見ぬ無数の人々を見つめるようにして歌い続けた。


『ましろのうたで だれかがわらってくれたら――』


『とどけ、とどけ⋯⋯このおもい――』


 サビの最高音――裏返ることも詰まることもない。

 感情は声の中に溶け込み、涙にはならなかった。


 最初から最後まで一度も途切れることなく完璧に、そして圧倒的に感情豊かに歌い切った。


 最後のピアノの和音がスタジオの空気に溶けて消え、深い静寂が戻って来る。


「⋯⋯⋯⋯」


 私は鍵盤から手を離し、ゆっくりと振り返った。

 マシロは肩で息をしながら唇を引き結び、じっと私の言葉を待っている。


 瞳が潤んでいた。——泣いてはいない。堪えたのだ。最後まで。


「⋯⋯合格だ」


 私が短く告げると。


「やったぁー!!」


 マシロは極度の緊張から解放され、満面の笑みでその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。

 尻尾がちぎれんばかりに左右に揺れている。やっぱり、中身はまだ子供だ。


 ——直後、堪えていたものが決壊したのか、マシロの目からぼろぼろと涙が溢れ出した。泣き笑いだ。嬉しくて、誇らしくて、安心して、全部が一度に溢れている。


「うえぇ⋯⋯っ、歌ってる時は泣かなかった⋯⋯! 泣かなかったよタナデ⋯⋯!」


「ああ、泣かなかった。偉いぞ」


 私は静かに笑いピアノの蓋を閉めた。


(これなら届く。この歌なら、きっと——)


 私はその先を、あえて考えなかった。明日、何が起きるかは分からない。分からないからこそ、今やるべきことだけに集中する。それが、プロデューサーの仕事だ。


「よし、今日はここまで。ツナマヨを食べて寝るぞ」


「マシロ、プロだから、いっぱい食べる!」


「プロは栄養バランスも考えるんだ。サラダも食べろ」


「⋯⋯みゃ」


 マシロは不服そうに耳を伏せて防音室を出て行く。

 私は一人残ったスタジオでまだ少し熱を帯びている鍵盤を見つめ、静かに明日への覚悟を決めた。

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