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第69話:新曲制作——マシロの言葉

 世界が寝静まった深夜、私の自宅兼仕事場である防音スタジオには微かな電子音とキーボードを叩く乾いた音だけが響いていた。


 私はデスクの前に座り、音楽制作ソフトの画面に並ぶ無数の波形を睨みつけていた。

 マグカップのコーヒーはとっくに冷めきり、表面に薄い膜が張っている。


 モニターの青白い光に照らされた私の顔は、おそらく隈ができていることだろうが今は鏡を見る余裕などない。


 新曲のデモ制作、そのメロディラインは完成している。ベースとドラムのラフな打ち込みも終わった。

 ここまでは順調だった。マシロの声域に合わせた、優しくて、どこか懐かしいミディアムバラード。彼女の透明な高音が一番綺麗に響く音域を計算し尽くした、自信作だ。


 しかし、そこで手が止まった。

 歌詞だ。

 仮歌を入れるための言葉が、なかなか出てこない。


「⋯⋯うーん、違うな」


 私は画面上のメモ帳に打ち込んだ歌詞案をバックスペースキーで消去した。


 『春の風』『桜の蕾』『明日への希望』――。


 成長したマシロに寄せた、どれも綺麗でプロの作詞家として恥ずかしくない整った言葉たち⋯⋯けれど何かが決定的に足りない。今のマシロが歌うべき言葉は、こんな手垢のついた定型文じゃない。


 私は深いため息をつき、椅子の背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。

 スランプではない。ただ正解が見えないだけだ。


 ガチャリ。


 防音扉のハンドルが回る音がして、少しだけ隙間が開いた。

 そこから、ひょっこりと白い猫耳が覗く。


「⋯⋯タナデ?」


 眠たそうな、少し掠れた声。

 隙間から入ってきたのは、お気に入りのモコモコしたブランケットを引きずったマシロだった。パジャマ姿で裸足のまま、ペタペタと音を鳴らしながら床を歩いてくる。


「こんな時間にどうしたんだマシロ。良い子は寝る時間だぞ」


 私は椅子を回転させ、彼女の方を向いた。

 マシロは目を擦りながら私のデスクのそばまでやってきた。


 その左手にはあの大切な茶封筒——あの日届いた母親からの手紙とクレヨンの絵が、しっかりと握りしめられていた。


「お仕事、まだ終わらない?」


「ああ、ごめんな。音がうるさかったか?」


「ううん。タナデがいないとお布団が冷たいから」


 マシロはそう言うと私の椅子の肘掛けにコテンと頭を預けてきた。

 甘えん坊なのは相変わらずだ。私は苦笑しながらそのサラサラの銀髪を撫でた。


「もう少し待っててくれ。新曲のメロディはできたんだが歌詞がどうもしっくりこなくてな。⋯⋯お前に何を歌わせるべきか、迷ってるんだ」


 正直に打ち明けるとマシロは預けていた頭を上げ、私を見上げた。

 オッドアイがモニターの光を反射してキラキラと輝いている。

 彼女は少しだけ躊躇うように視線を泳がせ、手に持った手紙をギュッと握りしめた。


 そして意を決したように口を開いた。


「あのね、タナデ」


「ん?」


「マシロも、一緒に作りたい!」


 予想外の申し出に私は瞬きをした。


「⋯⋯一緒に? メロディをか?」


「ううん。歌詞」


 マシロは首を横に振り、真っ直ぐな瞳で私を射抜いた。


「マシロの気持ち、マシロの言葉で、書きたい」


 私は驚きのあまりマウスから手を離した。


 マシロが作詞をする?


 彼女は歌うことに関しては天才的な感性を持っているが言葉に関してはまだ学習中の身だ。先日ようやく「ひらがな」が書けるようになったばかりの幼児(中身)に、作詞など出来るわけがない。

 普通ならそう考えて即座に却下するところだ。


「急にどうしたんだ。マシロは歌うのが専門だろう? 難しい言葉なんて、まだ知らないじゃないか」


 私は諭すように言った。

 だがマシロは引かなかった。

 彼女は握りしめていたファンレターを自分の胸の真ん中にそっと当てた。


「あの子が、笑ってくれた。マシロの歌で、怖いのがなくなったって」


「そうだな。すごいことだよ」


「だったら⋯⋯もっと沢山の人にも笑ってほしい。元気になってほしい。痛いのとか、怖いのとか、なくなればいいって思う」


 マシロの言葉は、たどたどしいけれど熱を帯びていた。


「その気持ちを、タナデの言葉じゃなくて、マシロの『言葉』で届けたいの」


 私はハッとした。


 これまでのマシロは私が与えた曲を私が書いた歌詞の通りに歌っていた。それは「タナデが喜ぶから」「歌うのが楽しいから」という受動的な動機からだった。


 今、彼女は「自分の意志で伝えたいことがある」と言っている。


 誰かに与えられた歌を歌うだけのアイドルではなく、自分の内側にある願いや祈りを直接世界に届けたいという表現者としての自我。


 手紙を読んで流した涙は、彼女を確実に「アーティスト」へと進化させていたのだ。


 私はキーボードから完全に体を離し、マシロに向き直った。

 この申し出を断る権利はプロデューサーの私にはない。いや、一ノ瀬奏という音楽家として、これを受け入れなければ嘘になる。


「⋯⋯わかったよ」


 私は頷き、スタジオの隅にあるローテーブルを指差した。


「やってみろ。マシロの言葉を私が曲に乗せてやる」


「ほんと!?」


「ああ。ただし、私は手伝わないぞ。マシロの言葉だ。マシロ自身が最後まで書き切れ」


「うん! やる!」


 マシロの顔がパッと輝いた。

 彼女はブランケットをマントのように羽織り直し、やる気満々でローテーブルに向かった。


 ☆


 そこから静かな闘いが始まった。

 私はヘッドホンをして編曲作業を進めていたが、意識の半分はずっと背後のマシロに向いていた。


 マシロはメモ用紙と鉛筆を前に、うんうんと唸っていた。

 先日、血の滲むような特訓をしてひらがなを覚えた経験が、ここで生きている。

 それでも自分の心の中にある形のない「想い」を、文字という記号に変換するのは大人でも難しい作業だ。


 カリカリ、カリカリ――鉛筆の音がしては止まり、また音がする。

 時折、ゴシゴシと激しく消しゴムを使う音が響く。


 ふと振り返るとマシロは天井を見上げ、白い猫耳をペタンと伏せていた。

 何かを必死に探している顔だ。

 空中に浮かんでいる言葉を捕まえようとして、小さな手を伸ばしたり、頭を抱えたりしている。


(⋯⋯頑張れ)


 私は心の中でエールを送った。

 きっと稚拙な歌詞が出来上がるだろう。


 「ごはんがおいしい」とか「みんなだいすき」とか、そういうレベルのものかもしれない。


 それでもいい。彼女が自分で生み出したという事実があれば私がいくらでも補作して、それっぽい曲に仕上げてみせる。それがプロの仕事だ。


 一時間、二時間――気がつけば随分と時間が立っていた。

 徹夜作業には慣れっこだがマシロには酷だったかもしれない。

 そろそろ止めさせようかと思ったその時。


「⋯⋯タナデ、できた」


 背後から小さな声がした。

 振り返るとマシロがふらふらと立ち上がり、一枚の紙を両手で持っていた。

 顔や手は鉛筆の黒鉛で汚れ、目は眠気でトロンとしているが、その表情は晴れやかだった。


「よし、見せてみなさい」


 私は椅子から立ち上がり、マシロから歌詞を受け取った。


 紙は何度も書き直した跡でボロボロになり、消しゴムのカスが挟まっていた。

 そこに書かれていたのは全てひらがなの、不揃いな文字の列だった。



『ねえ きこえる? ましろのこえ きこえるかな』

『じょうずに じは かけないけど』

『じょうずに おはなし できないけど』

『ここの むねのおくが きゅんってするの』


『たなでが おしえてくれた』

『うたは こころを つなぐんだって』

『もしも あなたが さみしいなら』

『もしも あなたが こわいなら』

『ましろが そばに いってあげる』


『ましろのうたで だれかがわらってくれたら』

『とおくのだれかが げんきになってくれたら』

『こわいよるも さみしいあさも』

『そばにいるよって つたえられたら』

『それがマシロの いちばんのしあわせ』


『とどけ とどけ このおもい』

『あなたのこころに ひかりがともるように』

『マシロはずっと ここでうたうよ』


 文法は少しおかしい。

 そして何より、表現があまりにも直接的すぎる。


 プロの作詞家が見れば「ひねりがない」「深みがない」「そのまま小学生の作文だ」と笑うかもしれない。本来ならここから比喩を足して、情景を描写し、韻を踏んで美しく飾るべきところだ。


 でも、その紙を読んだ私の手は微かに震えていた。


 ここには、どんなプロの作詞家にも書けないものがある。

 計算やテクニックでは絶対に生み出せない、圧倒的に純粋で、混ぜ物のない「本物」の祈りが詰まっていた。


 あの手紙をくれた女の子のために。

 そして、世界のどこかで泣いている誰かのために。

 マシロが小さな胸を痛めて、絞り出した魂の言葉だ。


 これを「稚拙だ」と言って直せる人間がいるとしたら、そいつは音楽家失格だ。


「⋯⋯どう? タナデ、変かな?」


 マシロが不安そうに私の上着の裾を掴んだ。

 私は歌詞から顔を上げてマシロを見た――黒鉛で汚れた頬、一生懸命書いた証拠。


「⋯⋯マシロ。書き直しはなしだ」


「⋯⋯だめ、だった?」


 マシロの耳がショボンと垂れる。


「違う。逆だ」


 私は首を横に振り、マシロの肩を強く掴んだ。


「これを全部、そのまま使うぞ。一文字も変えない」


「ほんと!? ぜんぶ?」


「この言葉は飾ったら駄目だ。お前のひらがなのままで、歌うべきなんだ」


 私は歌詞の書かれた紙を譜面台に置いた。

 胸の奥で作曲家としての血が沸騰しているのがわかった。


 この純粋な言葉をどうやってメロディに乗せるか。

 普通に当てはめればリズムが崩れる。字余りになる。

 だが、その「崩れ」こそがこの曲の命だ。

 整えすぎてはいけない。マシロの息遣い、たどたどしさ、必死さを、そのまま音楽という形に昇華させるんだ。


「マシロは寝ていなさい。ここからは私の仕事だからな」


「うん⋯⋯」


 安心したのか、マシロはその場に崩れ落ちるように座り込み、ブランケットに包まってすぐに寝息を立て始めた。


 私は起こさないようにベッドへマシロを運んだ後、ヘッドホンを装着し直す。

 眠気など、完全に吹き飛んでいた。



 ☆



 朝焼けが、スタジオの窓を青紫色に染め始めた頃に、ひとつの楽曲が完成した。


 私は大きく伸びをして凝り固まった背中の骨を鳴らした。

 最高だ。

 今まで作ったどの曲とも違う。技術的にはシンプルだが感情の密度が段違いだ。


「⋯⋯んぅ⋯⋯タナデ?」


 待ち切れなかったのか目を覚ましたマシロが、ちょうどやってきた。


「おはよう、マシロ」


「⋯⋯おはよ⋯⋯できた?」


 マシロは寝癖のついた銀髪を揺らしながら、眠い目をこすって起き上がった。


「ああ、できたぞ。世界で一番温かい曲がな」


 私はマシロを手招きしてマイクの前に立たせた。

 まだ録音はしない。まずはピアノ伴奏だけで感触を確かめる。


「譜面台の歌詞を見て。私がピアノを弾くから、お前のその言葉をメロディに乗せてみてくれ」


「うん」


 マシロはヘッドホンをつけ、マイクの前に立った。

 私はキーボードに指を置く。


 優しい、ピアノのイントロ。

 朝日が差し込むような、静かな始まり。


 マシロが息を吸う。

 そして紡がれた第一声。


『ねえ きこえる? ましろのこえ きこえるかな』


 震えるような、透明な歌声。


 ひらがなの歌詞が持つ独特の柔らかさと少し不器用なリズムが、計算されたメロディと奇跡的な融合を果たしていた。


 それは「歌」というよりは「語りかけ」に近い。

 耳元で、大丈夫だよと囁かれているような。


 サビに入るとマシロの声は力強さを増した。


『ましろのうたで⋯⋯だれかが、わらってくれたら――』


『とどけ、とどけ⋯⋯このおもい――』


 空気が震えて私の肌が粟立つ。


 これだ。この「願い」の力だ。

 これが病室の少女を救い、世界中の人々を癒やした正体だ。

 この歌詞がマシロという存在を「完成」させる。


 最後の音が消えて、静寂が戻る。

 マシロはヘッドホンを外し、呆然とした顔で私を見た。


「わぁ⋯⋯! マシロの言葉、歌になった!」


 彼女の顔が朝日のように輝いた。

 嬉しくてたまらないといった様子で、尻尾がブンブンと激しく揺れ、足元のブランケットを巻き上げている。


「ああ、素晴らしい歌だよ。⋯⋯私が保証する」


 私は疲労の滲む顔に満足げな笑みを浮かべた。

 これ以上の称賛はない。


「タイトルは決まっているか?」


 私が尋ねるとマシロは少し考えてから、譜面台の歌詞を愛おしそうに撫でた。

 そして、力強く答えた。


「『とどけ』!」


 シンプルで、これ以上ないタイトルだ。

 マシロの初めての自作詞楽曲『届け』。


「いい名前だ。⋯⋯きっと届くよ。世界中の、助けを求めている誰かに」


 窓の外から新しい朝の光が差し込み、マシロの銀髪を黄金色に縁取っていた。

 私は確信していた。


 この曲が配信されれば、また世界は大きく動くだろう。

 そしてマシロは私の手の届かない「神様」にまた一歩近づいてしまうのかもしれない。

 けれど今は、この純粋な祈りの歌が生まれた奇跡を、ただ二人で分かち合いたかった。


「さて、まずは朝ごはんにするか。腹が減っては歌も歌えないからな」


「うん! マシロ、ツナマヨたべる! あとハンバーグ!」


「⋯⋯朝から重いな。まあ、今日は特別だ」


 私たちは顔を見合わせて笑い、明るくなったスタジオを後にした。

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