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第68話:あるファンレター

 柔らかい日差しが差し込むリビングのダイニングテーブルは、ちょっとした小山のようになっていた。

 山を形成しているのは、色とりどりの封筒や小さな小包の数々だ。


 チャンネル登録者数がうなぎ登りに増え続け、世界的な影響力を持つようになった今、私たちの元には膨大な数のメッセージが届く。


 それはネット上のコメントやメールだけにとどまらない。物理的な手紙やプレゼントを受け取るために私は専用の私書箱を開設していた。今日は月に一度の、その私書箱からの回収日だった。


 専門の業者によって運び込まれた段ボール箱三つ分にもなったそれを仕分けている真っ最中というわけだ。


「マシロ、次を頼む」


「うん!」


 私の対面に座るマシロが元気よく返事をした。


 プロデューサーとしての私の仕事は差出人の確認と危険物や不審物(隠しカメラやGPSタグ、カミソリの刃など)が混入していないかの入念なチェックだ。女性一人とまだ世間知らずの少女が暮らしているのだから警戒しすぎるに越したことはない。


 そして私のチェックをクリアした安全な手紙をマシロが開封していく。


 マシロの指先には人間よりも鋭く、そして驚くほど器用に動く爪がある。

 ペーパーナイフなど必要ない。彼女が人差し指の爪を封筒の端に滑らせるだけで『スパッ』という小気味良い音と共に中身が綺麗に取り出せるのだ。


「あ、これ、かわいいシール張ってる! キラキラだ!」


「最近、流行ってるやつだな」


「こっちは甘い、良い匂いするよ! クッキーみたい!」


 マシロは一通開けるたびに便箋の柄や匂いにいちいち新鮮な反応を示し、オッドアイを輝かせてはしゃいでいる。


 成長して見た目はすらりとした美少女になったが中身はまだまだ子供。可愛らしいレターセットや、ほんのりと香水がつけられた手紙に目を奪われるのは無理もない。


「中身を破かないように気をつけろよ。みんながマシロのために一生懸命書いてくれたものだからな」


「うん、わかってる! そーっと、そーっと⋯⋯」


 和やかな空気の中、作業は順調に進んでいた。


 ファンレターの多くは「いつも元気をもらっています」「歌ってみた動画最高でした」「ツナマヨを食べるマシロちゃんが可愛いです」といった、温かい応援の言葉で満ちている。


 それを一つ一つ確認しながら、私は心地よい疲労感を感じていた。

 そんな中、私が手に取った一通の封筒に、ふと目が止まった。


 他のカラフルな封筒とは異なり、それは少し古びた地味な茶封筒だった。

 厚みがあり、中には数枚の紙が入っているようだ。


 差出人の欄には、日本のどこにでもあるような一般的な苗字と女性の名前。そして宛名には、少し震えたような丸みのある字で『マシロちゃん、およびプロデューサー様へ』と書かれていた。


 金属探知機(念のために買っておいた)を当ててみても、特に異常はない。

 私はその茶封筒をマシロに手渡した。


「マシロ、これを開けてみてくれ」


「ん! まかせて!」


 マシロの爪が封を切り裂く――中から出てきたのは二つ折りにされた大判の画用紙と三枚綴りになった便箋だった。


「わぁ!」


 画用紙を開いた瞬間、マシロがパッと花が咲いたような声を上げた。

 私も横から覗き込む。


 そこにはクレヨンで描かれた一枚の絵があった。


 決して上手とは言えない。輪郭線はガタガタで、はみ出した色塗りは力強くも不器用だ。

 だが真ん中に描かれているのが誰なのかは一目でわかった。


 雪のような白い髪、左右で色の違う瞳、ピンと立った猫耳に長い尻尾。

 絵の中のマシロは、画面いっぱいに大きな口を開けて、にっこりと笑っていた。


 そして、その絵の横には、たどたどしい大きな平仮名で、こう書かれていた。


『ましろちゃん だいすき』


「マシロの絵だ! 上手! すっごく上手!」


 マシロは自分の顔が描かれた画用紙を両手で持ち上げ、嬉しそうに尻尾を左右に揺らした。

 先日、ひらがなの特訓をしたばかりのマシロには、この文字を書くのがどれだけ大変で、どれだけの一生懸命さが込められているかが直感的に伝わったのだろう。


「⋯⋯そうだな。とても素敵な絵だ」


 私はマシロの頭を軽く撫でてから同封されていた便箋を広げた。

 母親からの手紙のようで私は目で活字を追い始めた。


『突然のお手紙、失礼いたします。

 私は五歳になる娘を持つ母親です。

 どうしても、マシロちゃんとプロデューサーである一ノ瀬様(ネットではモンタナ先生と呼ばれていますね)に、直接お礼をお伝えしたく筆を執りました』


 丁寧な文字で綴られた文面は、どこか切実な響きを帯びていた。

 私は背筋を伸ばして手紙の続きを読む。


『実は、娘は生まれつき重い心臓の疾患を抱えており、これまでの短い人生のほとんどを病院のベッドの上で過ごしてきました。

 そして先日、娘の命を左右する、非常に難しく大きな手術が行われました。

 成功率は決して高くなく、小さな体にメスを入れることは親として身が張り裂けるような思いでした』


 私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。

 五歳――マシロの中身とほとんど変わらない、小さな女の子。

 その子が、生死の境を彷徨うような手術に挑まなければならなかった。


『手術の前夜。娘は恐怖と不安でパニックを起こしてしまいました。

 「こわいよ、いたいよ、しにたくないよ」と泣き叫び、看護師さんがなんとか宥めようと力を尽くしてくれましたが興奮状態の娘には全く効きませんでした。

 私はただ娘を抱きしめて、一緒に泣くことしかできませんでした。自分が代わってあげられない無力さに、絶望していました』


 病室の冷たい空気。心電図の無機質な電子音。泣きじゃくる小さな体とそれを抱きしめる母親の震える腕。

 文字を追うだけで、その痛切な情景が私の脳裏に鮮明に浮かび上がってきた。


『その時です。私は藁にもすがる思いで、娘がいつも大好きで見ていた、マシロちゃんの動画をスマートフォンで流しました。

 曲は、マシロちゃんのために作られたというオリジナル曲『ねこのあしあと』でした。


 マシロちゃんの優しくて、温かくて、包み込むような歌声が病室に響いた瞬間。

 あんなに泣き狂っていた娘が、ピタリと泣き止んだのです。

 娘は私のスマホの画面を見つめ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ふわりと笑いました。

 そして、私に向かってこう言ったのです。


 「ねこさんがいるから、だいじょうぶ」


 娘はそのまま、マシロちゃんの歌を子守唄にするように私の腕の中で静かに、安らかに眠りにつきました』


 私は無意識のうちに息を止めていた。

 手紙を持つ指先が、わずかに震えているのがわかった。


『翌日の手術は長丁場となりましたが無事に成功しました。

 執刀してくださったお医者様も「術前の精神状態が信じられないほど落ち着いていたおかげで、想定以上に経過が良い。奇跡的だ」と驚いていらっしゃいました。


 今、娘は一般病棟に移り、マシロちゃんのアーカイブ動画を見ながら一生懸命にこの絵を描きました。

 同封させていただいたクレヨンの絵は娘の命の証です。


 あの夜、絶望の淵にいた娘が笑って眠れたのは、間違いなくマシロちゃんの歌声のおかげです。

 マシロちゃんは、娘の、そして我が家の命の恩人です。

 本当に、本当にありがとうございました。

 これからも、お二人の活動を心から応援しております』


 最後は乱れた文字で何度も「ありがとう」と書かれ、手紙は結ばれていた。


「⋯⋯⋯⋯」


 私は便箋をテーブルに置き、両手で顔を覆った。

 指先の震えが腕から全身へと伝わっていく。


 これまでもネットの掲示板やメールで「病気が治った」「元気が出た」という報告はいくつも見てきた。

 世界中でマシロの歌が奇跡を起こしているらしいことは、データ上の推移として把握していたつもりだった。

 しかし、これは違う。

 単なる数字やネット上の文字情報ではない。


 一人の、現実に生きている五歳の少女の命の危機。

 その恐怖に寄り添い、暗闇の中で泣き叫ぶ彼女の心に光を灯し、救いの一端を担ったという、重く、確かな事実。


 私が作曲しマシロが歌ったあのメロディが、本当に誰かの命を繋ぎ止めたのだ。


 かつて商業主義の音楽業界で消費されることに絶望し「音楽で人を救うなんて綺麗事だ」と腐っていた私。

 そんな私の作った曲が今、マシロという奇跡の存在を通じて、本当に誰かの人生を救った。


「⋯⋯タナデ?」


 私が顔を覆ったまま動かなくなったことに気づき、マシロが心配そうに覗き込んできた。


「どうしたの? お腹、痛いの? なにみてるの?」


 マシロの手がそっと私の膝に置かれた。温かい、柔らかな手だ。

 私は大きく、深く深呼吸をして感情の波を押し殺した。

 そして両手を下ろし、真っ直ぐにマシロのオッドアイを見つめ返した。


「⋯⋯なんでもない。ただの、マシロへのファンレターだよ」


「お手紙? なんて書いてあるの?」


 マシロは首を傾げ、テーブルの便箋を指差した。

 私は手紙の内容を難しい言葉を使わずに、マシロにもわかるようにゆっくりと噛み砕いて話し始めた。


「この絵を描いてくれた女の子はね。前のマシロと同じくらいの歳の、五歳の女の子なんだ。でも心臓⋯⋯胸のところが重い病気で、ずっと病院にいたんだ」


「病院⋯⋯注射する、怖いところ?」


「そう。とても痛くて、怖いところだ。その子は病気を治すために、もっと怖い手術を受けなくちゃいけなくて、前日の夜にいっぱい泣いてしまったんだ」


 マシロの耳が悲しそうにペタンと伏せられた。


「でもその子のお母さんがマシロの歌を⋯⋯『ねこのあしあと』を流してくれた」


「マシロの、歌?」


「ああ。そうしたらその子は泣くのをやめて『ねこさんがいるから大丈夫』って笑って、ぐっすり眠れたんだって。そして次の日、手術はちゃんと成功して、今はこの通り、元気にマシロの絵を描けるようになったんだよ」


 私はテーブルの上のクレヨンの絵を指差した。


「マシロの歌が怖い思いをしていた女の子を助けて、元気にしてくれた。⋯⋯お母さんがマシロに『命の恩人です、ありがとう』って、そう伝えてくれってさ」


 話し終えるとリビングはしんと静まり返った。


 マシロは少し驚いたように目を丸く見開いたまま、テーブルの上の手紙とクレヨンの絵を交互に見つめていた。

 何かを必死に理解しようとするように、瞬きを繰り返す。


 やがて――マシロの瞳にポロリと大粒の涙が溢れ出した。

 それは悲しみの涙ではない。


「⋯⋯マシロの歌で、元気になった?」


「ああ。お前の歌が、その子を助けたんだ」


「怖いの、なくなった?」


「なくなったよ。お前が傍にいてくれたからな」


 マシロは両手で顔を覆い、しゃくりあげながら、ゆっくりと本当に嬉しそうに笑った。

 涙でぐしゃぐしゃになったその笑顔は、どんな美しい芸術作品よりも神々しく見えた。


「⋯⋯よかった。マシロ、歌って、よかった⋯⋯っ」


 マシロはテーブルの上からクレヨンの絵と手紙をそっと持ち上げると、シワにならないように気をつけながら、宝物のように自分の胸にギュッと抱きしめた。


 そして目を閉じ、遠く離れた病院のベッドにいるであろう見知らぬ少女に向けて、祈るように尻尾を揺らした。


 その姿を見て、私は確信した。


 ネットで騒がれている「奇跡」とか「神の力」とか、そんな大層なお話はどうでもいい。

 ただ、この子の真っ直ぐな歌声が、誰かの人生の最も暗い夜に触れ、光を与えて救ったという事実がある。


 それだけで、私たちが音楽をやり続ける理由は十分すぎるほどだ。


 そしてこの瞬間、私はマシロの中に、明確で決定的な変化が生まれたのを感じ取った。


 これまでのマシロはただ「歌うのが楽しいから」「タナデがピアノを弾いてくれるのが好きだから」本能のままに歌っていた。


 しかし今、彼女はその手紙を通じて知ったのだ。


 『自分の歌には遠く離れた誰かを励まし、元気にし、救う力がある』ということを。


 それは、ただの「歌う猫」から人々の祈りと希望を背負う「真の歌姫」へと、彼女自身が自覚を持って階段を一つ登った瞬間だった。


「⋯⋯偉いな、マシロ。お前は本当に私の自慢のパートナーだよ」


 私はマシロの隣に座り、震えるその細い肩を抱き寄せた。


 マシロは手紙を抱きしめたまま、私の肩に頭を預けて「えへへ⋯⋯」と誇らしげに鼻を鳴らした。

 休日の昼下がり、窓から差し込む光は、少しだけ大人になった彼女の銀髪を、どこまでも優しく照らし出していた。

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